シラー 三十年戦史
宗教と戦争について、少しだけお話させてください。
皆さんは、シラーの「三十年戦史」という書物をご存知でしょうか。「群盗」、「歓喜に寄す」などの作品のほうが有名かもしれませんね。
三十年戦争[1618-1648年]というのは文字通り三十年にわたるドイツ全土を舞台にした戦争で、旧教徒と新教徒、さらにはイスラム勢力まで巻き込んだ大戦争でした。まさに血で血を洗う、互いに憎悪をぶつけ合った悲惨な宗教戦争でした。シラーの「三十年戦史」は、この宗教戦争の本質を喝破したものでした。
やや乱暴な要約をお許しいただけるなら、シラーの論旨は次のようなものでした。
『どちらの勢力も、味方を作るために、まず敵を作り出したのだ。すなわち、「奴らは○○だ。それゆえに奴らは諸君の財産や家族、幸福をおびやかす輩だ」「奴らにおびやかされたくなかったら、我らと共に戦え」と主張して、相手を攻撃し始める。
互いの攻撃で血が流されると、「奴らは敵だ」という主張が正当化されていく。それは憎悪を生み出し、憎悪は憎悪を呼ぶ。「○○は憎むべき敵だ」「○○でないものはこちらに集まれ。奴らが襲ってくるぞ」
かくして、味方を増やせば増やすほど、敵方も強大になっていく。増幅された憎しみは、さらに多くの血を求め、戦争はとどまるすべを失っていく。
だが、目を覚ますのだ。それぞれの勢力の背後にいるのは、権力や利権が欲しい連中ではないか。彼らが、ドイツ国民を互いに争わせるために、ドイツの中に敵と味方を作り出したのだ。こんな愚かなことはやめよう。我らはもともとは敵同士などではなかったのだ。
もちろん現代においては、シラーの言説は後にドイツ対他国という構図へと変質させられていったという歴史的背景に注意しながら読む必要があります。しかし、皆が宗教戦争と信じていた戦争の本質を見ぬいた見識は今も価値を失いません。もちろん「奴らは○○だ」の○○には宗教以外の概念を入れてもよいのです。
現代においても多くの地域で、宗教間、あるいは民族間の戦争が繰り広げられています。おそらく多くの方が、「人のためにある宗教がなぜ人を傷つけ殺すのか」「民族の違いがなぜ殺し合いの理由になるのか」と疑問を抱かれていることと思います。「味方を作るためには、まず敵を作らねばならぬ。敵を定義するために宗教が使われたのだ」というシラーの卓見は、この疑問に答えるものではないでしょうか。
もちろん宗教家、聖職者、信徒が無垢だったとは思いません。聖職者にしても信徒にしても、所詮は人間です。扇動にのり、争いの渦中に巻き込まれていったことでしょう。それどころか、争いの中心人物になってしまった人も数多くいたでしょう。おそらくは、彼らのよりどころたる宗教を守るために戦っているのだと信じながら。
現代に生きる私たちも、このような陥穽から無縁ではありません。紛争地域の民衆の声を報道した記事を読むと、「以前は仲良く暮らしていたのに、どうして、こんなことになってしまったのか。民族間の結婚だって珍しくなかったのだよ。でも、こうなってしまっては、もはや戦うしかない。奴らがいなくなるまで」という話を目にします。ユーゴでもインドネシアでも、そして、アフリカでも。これこそ、シラーが喝破した陥穽ではないでしょうか。
残念ながら、このようなお話をしながらも、私には、流されてしまった悲惨な血を、どうすれば良いのかわかりません。犯罪ならば法にしたがって処罰し償いをさせようというのが、近代社会の産み出した知恵でした。欠点も多い知恵ではありますが、憎悪の悪循環を断ち切るための知恵だったと言えましょう。しかし、人々の悲しみをどうすれば良いのか、私は言葉を見つけることができません。恐らくは、これも陥穽なのでしょう。
OCT/2001