Wolfgang Amadeus Mozart (1756 - 1792)
Cocert Rondo No.1, KV382 in D minor
Daniel Barenboim, Piano and Conduct,English Chamber Orchestra
1971年(29歳)の演奏
Rondo in D Major, KV485
Maria Joao Pires, Piano
1974年(29歳)の演奏
天上の音楽というものがあるとしたら、そして、それがこの地上に鳴り響いたとしたらどんなふうに聞こえるだろうか。西洋の絵画の赤んぼうのような天使が手にしている楽器といえば、竪琴や横笛、そして小さなラッパ。どういうわけか、クラビコードやビオラダガンバのような大型楽器は見かけないけれど、それは赤んぼうの姿に似つかわしくないからかもしれない。
この地上の存在である私には天上の音楽を想像することは難しい。けれども、もっとも近いものがあるとしたら、モーツァルトこそはそれに違いないと思う。
美しく、軽やかに、そして運命的な響きに満ちたオペラ。華やかで壮麗なピアノ協奏曲。明るい旋律にあふれながら、一部の隙もない弦楽四重奏。そして、あのたとえようもないラクリモーサ。
でも、私がなによりも愛してやまないのはふたつのロンドだ。ピアノとオーケストラのためのコンサート ロンド第一番 KV382と、もうひとつはピアノロンド KV485という愛らしい小品。どちらもアンコールピースとして演奏されることが多いようだ。
コンサート ロンドは、ダニエル バレンボイムがピアノを弾きながら指揮した協奏曲全集の演奏が忘れられない。思いきり遅いテンポで始まる冒頭の、弾むような旋律はエレガントとしかいいようがない。終始、遅めのテンポの演奏は優雅で気品に満ち、そして、中間の独奏部はきらめくように美しい。
まだ29歳だったという。指揮をとりながら鍵盤に向かう貴公子然としたバレンボイムの姿は、モーツァルトもかくやと思わせる伊達男ぶりだった。もちろんモーツァルトが黒髪の巻毛で演奏会に臨んだはずはないが、それでも、あれは確かにモーツァルトその人に違いなかった。
モーツァルトは自身の作品について「私が作曲するのではなく、天から与えられた霊感を写しとるのです」と語ったと伝えられている。バレンボイムの演奏を聞くとき、たしかにこれは天から来たったものに違いないと私は思う。
ピアノロンド KV485はやさしく美しい小品だ。1970年代にマリア ジョアオ ピリスという、当時、無名のピアニストが、ソナタの全曲を東京のイイノホールで録音したことがあった。髪の短いやせっぽちのピリスはまるで少年のような容貌だったが、その演奏は驚くべきものだった。
水晶のように澄みきった音色。装飾を排し、端整で、清楚な、それでいて弱々しいところは微塵もない。細かな表情などではなく、もっと大きなフレーズ全体にわたる起伏による表現は、それまでに聞いたことのないモーツァルト演奏だった。
ピリスが奏者に選ばれたのは、多分、偶然だったと思う。新しいデジタル録音の可能性を試そうとしていた東京のレコード会社には高額の報酬を払うだけの予算がなくて、わずかなコンクール歴しかないピアニストを起用したに違いない。しかし神は気まぐれだ。彼女の上にはミューズが微笑んでいたのだ。
ごく短い期間に全曲録音されたソナタ全集は、それはそれはすばらしいものだったけれど、とりわけ、この小さなロンドはたとえようもない。それまでのモーツァルトを聞きなれた耳にはそっけないほどの装飾の無さだが、澄みきった響きは天の高みへと昇華するかのようだった。
空前絶後という言葉があるが、これこそはピリスの音楽が人の知らぬ高みへともっとも近づいた瞬間だったと思う。もちろん、ピリスの演奏は今も比類なく美しいけれど、あの奇跡のような響きは二度と繰りかえされることはなかった。天上の扉は一度きりしか開かれぬのだ。
注1) ラクリモーサ レクィエム中の一曲
注2) ピリスはその後、再びピアノソナタ全集を録音している。すばらしい演奏ではあるが、1974年の演奏とはまったく異なる
MAR/2004