失われた歌

Katheleen Ferrier (1912-1953)

The Keel Row (Traditional song)

Blow the Wind Southerly (Traditional song)

Um Mittern Nacht (Mahler)

 キャスリーン フェリアーという名前を聞いたことがあるだろうか。キャスリーンは英国の田舎町で電話交換手をしていたのだが、偶然にある音楽家に声の美しさを見出され、歌うことを勧められたという。そしてロンドンに出て端役の練習をしている時に、これまた偶然にブルーノ ワルターの耳にとまり、この大指揮者のもとで名声への道を歩み始めたという伝説の持主だ。

 この伝説には、おそらく後世の脚色と誇張がいりまじっている。しかし、伝説とともにデビューしたキャスリーンは、1953年、わずか41歳で伝説の中に去ってしまった。SPレコードのスクラッチノイズの中に奇跡のような歌声を残して。

 ワルターの指揮するマーラーは、情熱に満ちた巨大な、それでいてやさしさを感じさせる音楽だ。キャスリーンがワルターの指揮を背に歌うマーラーは、それはそれはすばらしい。落着いた、陰影の深いアルト。抑制のきいた誠実な歌。大袈裟な感情過多の表現が珍しくなかった当時、キャスリーンの歌唱は驚きをもって迎えられたに違いない。

 しかし、僕がとりわけ愛してやまないのはトラディショナルの小品だ。The Keel Row、Blow the Wind Southerly。ピアノだけの簡素な伴奏で歌う声のなんと愛らしいことか。アルトの美しさをこれほどにも感じさせる歌があっただろうか。リパッティの弾く小品とも相通じる端整な表情は、トラディショナルの素朴さを超えてエレガントですらある。


The Keel Row

サンドゲイトを通る時
少女の歌う声が聞こえた
舟を漕いで
舟を漕いでよ
その舟には
私の愛する人が乗っている

舟を漕いで
舟を漕いでよ
その舟には
私の愛する人が乗っている

あの人は青い帽子をかぶっていた
青い帽子をかぶって
えくぼを浮かべていた
舟を漕いで
舟を漕いでよ
その舟には
私の愛する人が乗っている

舟を漕いで
舟を漕いでよ
その舟には
私の愛する人が乗っている

As I cam thro' Sandgate, thro' Sandgate,thro' Sandgate
As I cam thro' Sandgate I heard a lassie sing
Weel may the keel row, the keel row, the keel row
Weel may the keel row that my laddie's in

And weel may the keel row, the keel row, the keel row
Weel may the keel row that my laddie's in.

He wears a blue bonnet, blue bonnet, blue bonnet
He wears a blue bonnet, a dimple on his chin
Weel may the keel row, the keel row, the keel row
Weel may the keel row that my laddie's in

And weel may the keel row, the keel row, the keel row
Weel may the keel row that my laddie's in.



Blow the Wind Southerly

南の風よ
美しい南の海よ
風を吹かせて
南の風よ
あたたかな南の風よ
私の愛する人を
連れてきて

昨日の夜遅く
沖に船が見えたという
私は大急ぎで
浜辺に立ったけれど
船はどこにも見えなかった
どこにいるのかしら
私の愛する人を
乗せた船は

風の音を聞くのが
つらいくらいよ
やさしく歌うような
風の音さえ
いとしいあなた
愛するあなた
早く帰ってきて
私の愛する人を
乗せた船よ

Blow the wind southerly
Southerly, southerly
Blow the wind south o'er
The bonnie blue sea.
Blow the wind southerly
Southerly, southerly
Blow bonnie breeze
My true love to me.

They told me last night
There were ships in the offing
And I hurried down
To the deep rolling sea
But my eye could not see it
Wherever might be it
The bark that is bearing
My lover to me.

Is it not sweet
To hear the breeze singing
As lightly it comes
O'er the deep rolling sea?
But sweeter and endearing
By far 'tis when steering
The bark of my true love
Back safely to me.

The Keel Row,Blow the Wind Southerlyとも  訳詩 庄野 健

 しかし、運命はキャスリーンに歌い続けることを許さなかった。1953年の秋、歌声は遠い響きへと姿を変え、僕たちはスクラッチノイズの中にキャスリーンの面影を追うしかないのだ。喉頭癌だったという。それもまた伝説かもしれない。

[注] 電話交換手  当時の電話は交換機が自動的に接続するのではなく、電話局の中で交換手が人手でプラグを差し替えて話者同士を接続していた。遠距離通話の場合には交換手に通話先を告げてしばらく待つのが普通だった。交換手は若い女性に人気の職業だったという。

NOV/2002