ロシア旅行記(サンクト・ペテルブルク篇)
モスクワからサンクト・ペテルブルクもまた夜行列車です。赤い矢号という寝台特急が600 kmを約8時間半で走ります。到着駅はモスクワ駅ですが、ペテルブルクには、もう一つフィンランド駅というヨーロッパへつながる駅が有名です。実はペテルブルクはビザに記載されていなかったため、行けるかどうかわからなかったのですが、24時間以内ならビザなしでも滞在できるということで、夜行でいって夜行で戻るという強行軍となりました。
写真1.サンクト・ペテルブルクのモスクワ駅(後ろはピョートル大帝像)
モスクワに比べるとペテルブルクは小さな町のようです。駅からまっすぐに約3km西に走るともう大ネヴァ川にでます。宮殿橋という跳ね橋を超えて中州に渡るとペテロパブロフスク要塞が右手に見えてきます。ピョートル大帝が1703年にこの要塞の建設を開始したのがこの町の起源だそうで、比較的新しい町です。したがって町では大帝の像に良くお目にかかりました。写真は要塞のなかにある大帝の像ですが、身長204 cmという長身であったとかで、体の割に頭が非常に小さく感じます。
写真2.ペテロパブロフスク要塞 写真3.ピョートル大帝像
ピョートル大帝が要塞の建設を監督するために3日で作らせたというピョートル小屋というのが近くに保存されていて、身の回りの品物もありましたが、残念ながら、身長204 cm用のベッドは置いてありませんでした。一般にロシア人は非常に体が大きく、写真1に写っている同行者は180 cm以上ありましたが、それで平均かちょっと大きいくらいだという話しです。この小屋の更に先にツァーの巡洋艦であった「オーロラ号」が係留されていて、中は博物館になっています。これは1905年の日露戦争・日本海海戦に参加した船(と同型の)です。この戦いで、ロシアは38隻中30隻を失うという大敗を喫し、ツァー崩壊の遠因となりました。1917年の革命はこの艦の号砲を合図に開始されたということです。
写真4.巡洋艦オーロラ号」
さて、駅から川と反対側にすすむと、大帝が建てさせたネフスキー修道院があり、4つの墓地があります。ドストエフスキーやリムスキー・コルサコフ、ムソルングスキーなど有名な作家や芸術家の墓が沢山ありました。
写真5.ネフスキー修道院 写真6.チャイコフスキーの墓
モスクワが、銀座・永田町とするならペテルブルクは新宿・渋谷といったところでしょうか。それにヨーロッパに近いということもあって、ややほっとする雰囲気があります。全体に狭いということもあって、デパートなどもなかなか混み合っていました。しかし寒さという点では、モスクワより更に北になる分だけ厳しいようです。この日は4月19日でしたが、時々雪がふる天気で、9月から4月までは暖房が欠かせないというのも実感できました。
モスクワの聖ワシーリ寺院がまるで蜃気楼のようでしたが、ここペテルブルクの血の上の教会(復活教会)も同じ様な雰囲気をもっています。またスモーリヌイの修道院はライトブルーの美しさでおとぎの国のようです。しかし何といっても忘れてならないのは、宮殿広場前の旧参謀本部とエルミタージュです。エルミタージュは勿論中身が重要ですが、たとえばピカソやセザンヌなどもどうしてこんなにあるのと思うほど沢山あります。この様なものに接すると、日本の西洋文化なんて本当に底が浅いんだなあと思ってしまいます。
写真7.血の上の教会 写真8.スモーリヌイの修道院
写真9.旧参謀本部 写真10.エルミタージュ
さて、ロシア最後の夜のお楽しみは、バレー「ロメオとジェリエット」となりました。劇場はずばり、オペラ・バレー劇場です。内部はボリショイ劇場と似ていますが、やや小ぶりな感じ。革命以前は上流社会の人しか入れなかったそうです。
帰りも、往路と同じ赤い矢号、朝着いた同じ客車の同じボックスでした。レストランもご覧の通り華やかです。
写真11.ムソルングスキー・オペラ 写真12.赤い矢号のレストラン
・バレー劇場
以上駆け足の紹介になってしまいましたが、実際の旅も、15時間25分の間にろくな食事も取らずにこれだけ見たのですからまさに駆け足でした。しかし、ペテルスブルクに何度も来たことのあるロシア人がガイドについてくれ、地元の研究所の運転手が運転してくれたので、見どころは抑えられたと信じています。これからロシアに旅する方、あるいは興味のある方に少しでもお役に立てば望外の幸いです。
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