風 日 好   ・・・ 今日は日和がよいけれど、明日はそうではないだろう 

     2004年1月〜3月                                 Top Page  過去の「風日好」

  1月某日  デジタル・アナログ

  新年おめでとうございます
 ついこの間新しい世紀かと思ったのに、はや2004年になりました。
 いよいよ、武器をもった兵士が、外国の戦場に出かけて行きます。殆どの人々が、わが国が戦争を始めた、というようには思わないままに。
 
  1月某日  北林智覚書

 昨年10月〜11月の「風好日」にも書いた北林智について、展示会から求められている小文を掲載しかけたのですが、できてみると、この欄に置くには長すぎます。
というわけで、「LONG」の ここに置くことにします。読んで頂く程のものではありませんので、特に暇か興味のある方以外は、無視してください。(しかし、移転の結果、この欄の1月ががらんどうになってしまいました。)
 それにしても、寒いですねえ〜〜。

  1月某日  『宿命』・・・

 今頃、といわれるに違いない。確かに今頃、である。
 高沢皓司『宿命』を読んだ。
 誰にでも勧めはしないが、衝撃的な本である。内容については大体聞いていたので、予想外だから衝撃を受けたというのではない。高沢氏が書き切ったその重さに、改めて衝撃を受けたのである。
 簡単に感想など書ける本ではないが、この本に限っては、いつもの「文庫本読み捨て主義」を捨てねばならない。
 夜更けまで読み進んだので、風邪をひいてしまった。

  2月某日  2月も終わり

 今年は閏年ということで一日多いが、普通なら2月は昨日の28日で終わりである。流石に暖かくなったので、久しぶりに、というか今年はじめて、自転車で海まで行ってみた。 風も波もなく、穏やかな初春の海。でも、土曜日とはいえ夕方の海辺に来ている人は少ない。夏以来使われない遊泳監視塔のまわりで遊ぶ親子。犬を連れて逆光の渚を歩く若い女。肩を抱き合って海を見ているカップル。そして、何か悩みか哀しみがあるのか膝を抱えて座ったままじっと俯いている少女らしき人影。波のない海にひとり入って数秒間だけ立ち上がっては落ちるサーフィン青年。
 ところが、いつも使っているのではない方の自転車に空気を入れて乗って来たのだが、さて帰ろうとすると、空気が抜けている。仕方がないので、ひいて帰ることにした。直線距離でも2キロ以上あるが、まあ殆ど公園の中の道なので、不審に思う人も少ないだろう。
 途中、練習をしている少年野球チームのそばを通ると、帽子から髪が出ている子が見えた。けっこううまい少女選手だった。

  3月某日  雪と松明

 満月の翌日、雪が降った。とはいえ、3月の雪である。車で走っている途中に、雪が降りつつ陽が射して暖かい、という不思議な世界を体験した。
 そういえば去年は、二月堂のお水取りを見に行った。見たことがないなら是非見せたいと、T先生が連れ出してくれたのである。闇の中に火の粉が舞ってなかなか趣のある行事であった。松明が去ってからお堂の上に登って参拝し、それから駅まで歩いた。私は誰かと一緒に歩くと速足だといわれるのだが、先生は私よりもっと速かった。
 あれから、はや1年。先生は超忙しくなって、更に速足で歩いておられることだろう。

  3月某日  「昨日と変わりありません」

 隣国の議会が、大統領の弾劾訴追案を可決した。昨日まで大統領と呼ばれた男が、一夜にして権限を奪われ、審判を受ける身となったわけである。
 だが、今日たまたま見たTVでは、そのニュースより前に、ひとつのニュースが流された。つまりTV局は、隣国史上初の大事件よりも、そのニュースの方が重要だと判断したのである。
 ・・・入院中の一人の男が、昨日と変わらない生活をしたこと、粥とヨーグルトを食べたこと・・・重要ニュースというのは、それである。
 そういう国に、われわれは住んでいる。

  3月某日  イノセンス

 押井守の『イノセンス』を見た。『攻殻機動隊』の続編の形になっているが、表層の話そのものは、よくある刑事物パターンで、分かり易い分だけ平凡だった。もちろん、そういっては身も蓋もないのであって、話の基本は、バーチャルとリアリルの<世界>の錯綜反転、そしてそこに<生きる>人形と人間の錯綜反転そのものにあり、そこから、人が生きているとはどういうことか、という問いかけを続けているのであろう。だが、そうなるとやはり、そのような<問い>の提示自体をテーマとしていた『攻殻機動隊』に比べて、それを前提として新たな話を作らねばならない後編は苦しい。そこここにデカルトをはじめとする無数の箴言警句の類がちりばめられているのは、表層の話に流れる観客の視線を、改めて<問い>へと引っ張り込もうという意図の現れか。
 しかし、そういったことぬきにして、期待通り、映像には圧倒された。映画館でみた価値があった。
 有名な話らしいが、『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟は、押井を尊敬しているのだという。マトリックスの宣伝にも、「日本のアニメ&コミックから、宗教観、哲学など、さまざまな要素を取り入れた」とある。もっとも、私は1は見たが、3はつまらないという人が多いので見ていない。実写なら(というより、ある意味ではアニメを含めても)、私には『アヴァロン』がよかった。
 ところで、こういった話は、電気羊=ブレードランナー以来、すべて「近未来」ということになっている(『イノセンス』は2032年)。とはいえ、アシモはどうがんばっても30年では、首の後のコンセント以外は見分けが付かない「人」にはなれないだろうし、また私を含め多くの人々は、単純な対戦ゲームの世界にすら入ったことがない。
 そう思いながら映画館を出て、ふと気づけば、街には、携帯世界に入り込んでいる人形ばかり。

  3月某日  世は事もなし

 HP開設時に、2年は続くであろうが、それ以後はどうか・・・、と書いたことを覚えている。
 で、2年たった。
 ならず者国家アメリカとイスラエルによる国家テロがわが者顔に横行しているいまになってふり返ると、2年前はまだ平和な世界であったと思わせられる程である。
 だが街は、まるで何事もなかったかのように、いまもないように、2年前と変わりなく春を迎えようとしている。
 「調査団長ケイ氏がイラクに大量破壊兵器はなかったとする今、私が信じられないのは人々がみなそれに無関心だということだ。アメリカが行ったイラク侵攻は国際法違反だった。それはアメリカを支持した日本政府も同罪ということだ。にもかかわらず小泉首相もメディアも何事もなかったかのように、自衛隊がイラクの人々に歓迎されながらイラクの復興作業に着手しているという報道を続ける 」。(ビル・トッテン)
 派兵国スペインやイギリスでは政権を揺るがし交代させる事態が起こり、当のアメリカにおいてすら、他ならぬテロ対策担当官自身が「イラクに脅威はなかった。イラク攻撃は誤りだった」と告白して侵攻の正当性が改めて議会で問われている今、憲法を無視して重武装の軍隊を派兵しているこの国では、何事もなかったかのように、「国民は覚悟ができている」などという首相を、当の「国民」が支持し続けている。これが、この国の「民主主義」というものなのだろう。
 世は事もなし・・・

  3月某日  サングラス

 眼鏡なしで運転免許更新ができる程度には、いわゆる視力そのものは悪くないのだが、眩しさにはめっぽう弱く、昔からサングラスを欠かせない。しかし、しょっちゅう置き忘れるので車にも最低2つは置いているような次第で、だから高いものは買わないで消耗品のように使っている。安い物は眼に悪いのかもしれないが、たかが時々かけるサングラス。数万円のレイバンを大事にするより、数千円の無印を気安くあちこちに置き忘れる方がよい。・・・なんていういうのは、私自身が安物にできているからなのだけれど。
 そんなわけで、先日また、人がサングラスを買うのに付き合ったとき、自分にも黄色いのを買った。いつもは、ほとんど深緑系のを買うのだが、たまたま黄色いグラスのデザインが気に入ったからである。
 で、それを掛けた。
 そのとたん。視野の風景が一変して、淺春の街が、夏の陽光溢れる街になった。どうみても、明るくなったのである。
 以下、認知科学の専門家なら簡単に説明するかもしれないだろうことを書くのだが、素人的に考えてみると不思議である。安物といっても、一応偏向ガラスで紫外線透過率1%。可視光線は何%かは知らないが、薄色とはいえ色がついている以上、素通しより減少しても増加するわけはない。
 だから、この「明るさ」は、<見かけ>のものである。だが、この<見かけの明るさ>は、どうして生じたのであろうか。
 見える全ての物が、やや黄色くなった。そして実際、日差しの強い夏には、見える全ての物が、このように黄色くなるのだとしよう。しかし、私は今、最近開店したコンビニの前にいるのであって、見ている光景の「夏の記憶」をもってはいない。第一人間の眼は、全てが逆さに見える眼鏡をかけるといった極端な場合ですら、2週間もすれば慣れるらしいようにできている。数ヶ月も前の色の記憶が、ここで強く比較基準として働いた、というのではないだろう。
 とすれば、いま、サングラスを掛ける前と後との色相の変移が、「明るさ」の感覚をもたらしたのであろうか。しかし黄色が掛けられること(あるいはその補色が相対的に減少すること)は、何故、「明るさ」として感覚されるのだろう。
 もしかすると、私の眼には、昨夏の記憶はなくとも、黄色から明るさを連想させる、太古からの記憶といったものがあるのだろうか。
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