北 林 智 覚 書−「北林トモ展」に寄せて−



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 北林智とは誰か。
 いわゆるゾルゲ事件に連座した多数の逮捕者のうち、判決を受けて刑死したのはリヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実の2名であるが、他に、過酷な拷問、劣悪な獄中生活によって、判決前、判決後を含めて、宮城与徳ら5名が獄死している。北林智(「トモ」や「とも」の文字も使われるが、以下、本人が使っていたらしい「智」を用いる)もまた、獄中でえた病によって衰弱し切った姿で保釈され2日後に死亡したから、事実上の獄死である。こうして彼女の名は、例えば多磨霊園のゾルゲの墓の傍らに建てられた「ゾルゲとその同志たち」という碑の中央にも記され、事件に関心をもって墓参する人々によって、繰り返し読み上げられてゆく。
 だが、ゾルゲ事件が発覚しなければ彼女の名は出なかったのは当然として、事件が発覚していたとしても、最初の逮捕者が別人であれば、たとえ後に碑の中にその名が刻まれたにせよ、大方の人にとって、北林智の名は歴史の彼方に消え去っていただろう。
 しかし幸か不幸か、そうはならなかった。
 ゾルゲ諜報団ないしゾルゲ事件については、その思想的、政治的、歴史的な意味についての地道な議論よりも、一方では『愛情は降る星のごとく』のベストセラー化が象徴する情緒的反応と、そして他方では事件発覚の経緯をめぐる「裏切者」追求劇が、より大きな話題となっていった。もちろん、売国奴とか裏切り者とかいった烙印については、いわれなきものは訂正し、その名誉を回復しなればならない。だが、正直にいって私は、かつての情緒的反応はもちろん、事件発覚をめぐる議論にも、ほとんど興味はないままきた。私の関心は、事件をめぐる組織戦略や行動規範にあっても個人にはない。従って、お断りしておきたいが、私は出来事のレベルには知識が薄いまま、求められたこの文を書いている。
 ところで、冒頭で示唆したように、北林智の名がクローズアップされることになるのは、事件発覚を巡る議論の中においてである。尾崎秀実の弟秀樹氏が、党中央の伊藤律を「生きているユダ」と糾弾。伊藤が自らの出所と引き替えに北林智の名を密告し、北林が逮捕されて宮城の名を自供したことからゾルゲ事件が発覚した、という通説が出来上がったのである。伊藤律ユダ説は、その後、政治的な背景による複雑なバイアスもかかる中、様々な議論の対象となり、遂には渡辺富哉氏によって「偽りの烙印」として全否定されるのだが、それら議論の過程で、キイパースンとしての北林智の名は、繰り返し語られ続けた。  もちろん、だから、北林智について語られてきたのは、発覚に関わる行動や交遊関係などであり、その関心を離れては、アメリカ帰りの中年女性の人となりや思想信念といったことが注目されることはおそらくなかったし、また、できなかった。
 何故か。北林智は、本来、名もなき庶民だからである。
 リヒアルト・ゾルゲは、博士号をもち、外国で翻訳されるほどの国際政治に関する著書もあり論文も書いている、国際政治通の有能なジャーナリスト、政治学者である。国際共産主義運動に身を投じてから、その高い能力ゆえにコミンテルンから抜擢されて諜報活動に従事することになったが、平和な時代に生まれていれば、本人の望み通り研究者として生涯を終えたであろう。使命を帯びて日本へ来てからは、ドイツの有力新聞の重要な寄稿者として知られており、日本問題、国際問題についての高い見識を評価されて、駐日ドイツ大使館に顧問として出入りし、オット大使からも厚い信任を得ていた。
 一方、尾崎秀実は、一高東大を出て朝日新聞社に入社、政治部記者として中国に特派されたが、帰国後も、次々と発表する論文や著書によって、中国問題の専門家と目されるようになる。そして、国際会議で日本代表団の一員に選ばれ、西園寺公一らを通して当時の政官界に人脈を築いて、政局観を共にする同志として遇されてゆく。青年政治家近衛文麿の政策を支える昭和研究会に所属し、近衛内閣成立後は、内閣嘱託として官邸の一室にデスクをもち、首相を囲む側近グループの一員となる。逮捕時には、引き抜かれて満鉄嘱託の地位についている。
 このように、彼らはそれぞれ、トップレベルの政官界に自由に出入りして、そこで最高級の日本通の、あるいは中国通の人物として評価され、ともに、その高い情報分析力と的確な情勢判断力に、強い信頼を寄せられていた。
 ゾルゲ事件は、「20世紀最大のスパイ事件」というようにいわれたりする。確かにゾルゲは、第一級の国家機密を集め、それらの情報を、ソ連(当時のコミンテルンとソ連の関係およびゾルゲとの関係は複雑なので、以下「ソ連」とだけいう)に向けて送信していた。また尾崎や宮城与徳は、もちろんそのことを知った上で、ゾルゲに情報を伝えていた。しかし彼らは、スパイという語から普通人が想像するような仕方で、陰謀を巡らせて情報を窃取したのではない。ゾルゲは、諜報活動を、情報入手という仕事に限定して考えなかった。むしろ重要なのは、情報を分析し判断し国際状況を見通す能力であって、そのためには、情報の背景となる政治社会文化についての深い理解が必要であると考えていた。実際、彼は数百冊に及ぶ日本の歴史文化に関する蔵書をもっていたという。
 いずれにしても、ゾルゲや尾崎は、複雑に動く国際状況についての、高い分析力、判断力、見通し能力ゆえにこそ、トップレベルの政官界で高い信頼をえ、彼らのところには、ドイツ大使館や日本政府の高官たちの方から、情報をもって相談に来たりもしたのであって、つまり情報はいわば「自然に集まってきた」のであった。
 一方、北林智は、そういった人々からはるか遠くにいる。
 逮捕された当時、彼女はアメリカ帰りではあったが、アメリカ移民の多い和歌山では珍しいことではない。その頃あまり多くはない洋裁教師だったが、自宅で近所の女学生に教えていただけである。キリスト教徒であったが、布教活動をしていたのではない。社会主義に好意的だったが、当時は組織に属していたわけではない。逮捕当時の北林智は、どうみても、田舎に住む普通の中年女性であった。
 その「智おばちゃん」が、何故逮捕されたのか。ゾルゲ諜報団のメンバーである画家宮城与徳に、情報を漏らしたとされたのである。
 諜報団でゾルゲ、尾崎に次ぐ中心的な役割を果たした宮城与徳は、ゾルゲや尾崎のような人物ではない。けれども彼もまた、自ら広い情報網を築き、強靭なその意志と優れた情報収集力とアメリカ帰りの英語力によって、諜報団にとって欠かせない存在となっていた。画家としても、その僅かな慌ただしい生涯にも関わらず、回顧展が開かれ、画集が出版され、テレビの美術番組で特集が編まれたりする程度には、世に知られるだけの作品や事績を残した人物であり、詳しい伝記書も出版されている。
 その宮城与徳に、北林智は情報を流した、とされた。しかしながら、北林が宮城に伝えたとされる情報は、とても機密情報といえない、取るに足りないものばかりである。例えば、東京で教師をしていた洋裁学校の生徒たちのうわさ話、通っていた教会で耳にした話、粉河で近所の農民と交わした世間話、など。話した者も伝えた者も、違法意識はほとんどなかったか、薄かったであろう。それでも、戦時体制下の徹底した情報管理からすれば、近くの通りをたくさん兵隊が通ったとか、最近防空演習をしたとか、今年も凶作で農家は困っているとかいった類の話さえも、機密情報だとこじつようとすればこじつけられえたのであり、また実際、そのようにして彼女は逮捕され有罪とされたのであるが。
 それにしても、北林が伝えたそれらの情報は、拷問を伴う取り調べ、数年間の牢獄生活、衰弱と病魔により見る影もなくなって病気釈放の2日後に死亡、という過酷な運命と、まるで釣り合わない。たとえ北林智自身も、自分の情報が宮城の諜報活動に役立っていると思いたかったのであったとしても、その不均衡は、余りにも痛ましい。
 しかし、「歴史」はもともと、こういった痛ましさを顧慮しない。否、しないわけではないが、それを時代の痛ましさの中に一括してしまう。こうして、もし彼女が最初の逮捕者でなかったならば、北林智は、単なる一人の犠牲者というだけで終わり、歴史の上に格別の痕跡を残さなかったであろう。
 昨年、篠田正浩監督の映画『スパイ・ゾルゲ』が公開された。篠田氏のために残念なことだが、ひとことでいえば失敗作といわざるをえない。とはいえ、ここで映画評をしようというのではない。指摘したいのは、登場人物のことである。篠田氏が全力を投入して描こうとしたのは、「歴史」である。彼は事件全体を、時代背景を含めて描ききろうとした。こうして完成された作品には、スターリン、ヒットラー、東条英機をはじめとして、「歴史を動かした」人物が次々と登場する。ところがあの大作に、北林智は姿を見せない。
 「歴史」を描いた映画に登場するのは、歴史を動かした「著名人」たちであり、(彼らの恋人家族を除けば)名もなき庶民にライトがあてられる、といったことはなかった。おそらく、彼らは、歴史を「生きた」としても、歴史を「動かした」人物たちではなかったからである。北林智もまた、そうした「名もなき」人物のひとりとして、あの大作ではライトの圏外に置かれたのでもあろう。
 もちろん、こういうことがある。映画では、事件発覚に関する伊藤律ユダ説の否定が暗示されていた。その意味では、北林なしに事件を描くことが、ひとつの主張となっていたともいえる。だが、まさにそのことが、つまり伊藤律に言及しない映画には北林は不要であるということが、彼女が名もなき庶民のひとりだったことを証明している。
 もちろん篠田氏は、歴史を動かすのは他ならぬ人民である、という史観に、賛成しているに違いない。またもちろん、映画の中に、庶民の姿がないわけではない。だが彼らは、時代の「背景」としてのマスであり、単なるマスではない場合には、蹲ったままの貧農たち、駅のホームに立ちつくす売られ行く少女たち、など、わざわざ静止した姿で点描される。著名な人々は歴史を動かそうとして激しく行動し、個人名をもたない庶民たちは立ちつくす。売られ行く少女の痛ましさは、特定の少女の悲劇としてではなく特定の時代の悲劇として、「名もなき」少女たちの動かぬ画像として描かれる。
 北林智は、ゾルゲ事件を通して「歴史」を描こうとした篠田氏にとって、その個人名が不可欠な人物とは見なされなかった。私はここで、監督の判断に異を唱えようというのではない。ただ、尾崎や宮城を登場させないで「歴史」は描けないが、北林はそうではない、少なくともそういう風に見られている、ということを確認したかっただけである。皮肉ないい方をすれば、幸か不幸か伊藤律ユダ説に関連して歴史的関心をひく人物となった北林智は、いま伊藤律ユダ説の否定とともに、事件を主題とする映画でも登場人物からはずれ、人々の関心圏外に去ろうとしているわけである。
 「名もなき」庶民の名が、特定の歴史的関心の的となること。それが、「北林智問題」である。

 
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