北 林 智 覚 書−「北林トモ展」に寄せて−



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 対して、今回の「北林トモ展」は、伊藤律ユダ説に関する面でだけ見られてきた北林智ではなく、粉河に生きた北林智その人を回顧し追悼しようということで企画されたもののようである。
 だが、今回、調査を少しばかり手伝って(といっても家の復元程度だが)痛感したのは、庶民にとっての、没後60年という年月の長さである。遺族の方が保存しておられた宮城与徳の絵、写真3枚は、それぞれ非常に貴重なものであるが、それを除けば、地域に残っているものは何もない。粉河にいたのは僅か2年間だから無理もないとはいえ、住んでいた家もなく身の回りにあった物もなく智の筆跡もなく写真もない。60年前のことを記憶しておられる数人の方の、僅かな記憶以外にほとんど何もない。事件後、関わり合いを怖れてゆかりの物を捨てた、ということもあったようではある。だがそれだけではない。むしろ、当時の普通の庶民なら、没後60年も経てば、おそらく誰でも同じであろう。
 一方しかし、北林智という<人物>は、例えば木下順二の戯曲『オットーと呼ばれる日本人』や、またとりわけ山代巴の実録小説『囚われの女たち』に、生き生きとした姿で描かれている。しかしそれらは、ある関心、ある創作意図を通して作られた北林智像である。逮捕した側の資料を除けば、確認できる痕跡が非常に少ない北林智が、それゆえ逆に、生きた<人物>として「造形」される。
 もちろん山代氏の場合は、実際に和歌山女子刑務所で受刑生活を共にした筆者が、現実に智本人と語り合った内容をそのまま再現した、という体裁になっている。こうして、今回の展示でも、痕跡の少ない北林智の人生や意見をかいま見る手がかりとして、山代氏の文が重視されている。だが、名もなき庶民の60年は、氏が伝える証言のほとんどを、もはや「裏を取る」手がかりのないものに変えている。
 確かに、山代氏の文章は、鉄格子の中でえた貴重な時間に、智本人に身を寄り添うようにして聞き取った記憶が基になっており、共感あふれるその描写からは、彼女の肉声が聞こえてくるような気がする程である。だが、もちろん録音などではなく記憶を基にして、戦後かなりたってから発表された作品である。その筆に描かれた北林智が余りにも生き生きとしているがゆえに、私には、いささか別の感慨も起こる。自らもまた似た経験をもつ筆者の共感や追悼の気持ちが、無意識のうちに、あの時代を共に生きた「北林智像」を創り上げているということがあるだろう。少なくとも、語り手が自らの過去を物語るとき既に、誰にも働く無意識の自己構成があり、更に、聞き取った記憶を後に再構成した者によって、それが増幅される。そういったことは、当然どこにもあるからである。
 例えば、今回のポスターには、「反戦平和の信念を貫いた女性」というコピーが付けられている。確かに、山代氏が伝える北林智像からは、そういう感じを受ける。けれども、「反戦平和」は戦後概念である。北林智は、本当に「反戦平和の信念を貫いた女性」だったのだろうか。そういう問い方が悪ければ、いったい彼女にとって「反戦平和の信念を貫く」とは、どういうことだったのだろうか。

 例えば、山代氏の伝える北林も、「平和が勝つ」ということばで対独<戦争の勝利>を喜んでいる。また、英米「民主勢力」が帝国日本を<戦争で滅ぼす>ことを待望している。彼女だけではない。宮城は、獄中手記という場でのことではあるが、日本の勝利を強く願うことばを筆にする。もちろん本心とは限らないし、ある時点では逆に日本の敗北と再生を願っていたのかもしれないとしても。また、後述のように、尾崎はもっと意図的な次元で、戦争を望んではいなくとも期待はしていた。少なくとも彼は、「反戦平和の信念を貫いた」というような、ひとつのコピーで単純化できるような人物ではない。
 北林智も、戦争が余りにも過酷で巨大な現実であった時代の人である。「反戦平和の信念を貫いた女性」であるということばに、戦後の贈り名以上の内実をもたせるには、決定的に資料が足りない。
 もちろん私は、尾崎や宮城にしても、また北林にしても、「反戦平和」といった贈り名に値する人であったことを疑っているのではない。広義では、彼らは全て、核心において、その意思を誰よりも強くもっていたことは間違いなかろう。ただ、北林智のような、小説の中で造形された人物より他に生きた痕跡が極端に少ない庶民の人生に、改めていま、そういったコピーが付けられるとき、それによって彼女の思想と行動が確かにある焦点を結ぶにしても、同時にむしろ、そのコピーを付与する側の意思を大きく感じる。少なくとも、そのことを確認しておきたいと思う。
 別の例でもよい。山村氏の作品中では、例えば写真結婚は、当時の同地方での慣習的な結婚選択肢のひとつとしてではなく、逆に慣習的な女性観に反して主体的な生き方を貫くための選択肢として描かれる。だが当時35歳の智にとって、本当にそれは、そのように明確な思想事件だったのだろうか。たとえ本人がふり返ってそう思いたかったとしても、である。ここでも、山村氏の描写する北林像には、私たちなら必ず経験するはずの、逡巡や焦りといった影はない。また例えば、宮城との間に噂になるような<心情>までもが皆無であったと、わざわざ繰りかえし強調するくだりからは、例えば夫を置いて宮城のいる日本へ帰るその情景を、身に迫って受け止める手がかりを逆に封印されてしまう。  そして、総じて山代氏が描くのもやはり、「反戦平和の信念をもって諜報団に、ひいては国際共産主義運動に協力したが、残念ながら発覚のキイパーソンとなってしまった北林智」である。
 ある人々から見れば、囚われて完全黙秘を守れず組織にダメージを与えた者は、ユダ(裏切り者)である。早くに組織を離れている北林智は、思わず自供するような「天真爛漫」な人物であり、その性格の弱点を誰か卑劣な人物に巧妙に利用されたらしいと、山代氏は伊藤律を暗示し、文中の自らに密告説に立った質問をさせている。そして、智との会話を描いた章に、氏は、他ならぬ「ユダの自覚」という題をつけるのである。もちろん、「ユダ」ということばは、智本人がいったことになってはいる。だが、山代氏はそのことばを否定しないまま、つまり彼女をユダとした上で、深く後悔するユダを、涙ながらに救おうとしている。こうして、山代氏もまた、事件についての戦後の通念に足を置き、ある状況認識を前提にして北林智を描いている。私が北林智「像」といったのは、その意味でもある。
 もちろん私は、智自身の回想を、また山代の再構成を、意図的に歪めたり型にあわせたりした造形だときめつけているのでは決してない。ただ、「描かれた」智が語ることばを信じようとするとき、自らが書いた確かなことばが皆無であり、他にも照合しうる確かな痕跡の殆どない、庶民の悲しさを思う。
 治安維持法の時代に国賊とされ、時代が変わると、治安維持法の犠牲者という理由で「反戦平和の信念を貫いた人」だったとされる。事件との関わりで裏切り者といわれ、時代が変わると、事件との関わりが聖化される。非難にせよ賞賛にせよ、他人によって作られる単純な像以外に何も残せない。このことが、名もなき「庶民」の悲しさである。

 
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