北 林 智 覚 書−「北林トモ展」に寄せて−



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 一方、ゾルゲや尾崎は、「庶民」ではない。
 彼らは、何より、選ばれた者としての強い自覚と使命感をもっていた。歴史によって人生を左右されるのではなく、逆に、歴史を変える側の人間であるという自覚である。
 木下順二氏は、「オットー」と呼ばれる男に、「日本という国の歴史を決定する事業に参画する人間の一人になりたいという欲望がおれの中にはある」といわせている。確かに尾崎は、「世界の歴史を変革する決定的な事業にぼくは参画する!」というゾルゲと手を結んで、「日本におけるぼくの仕事は、日本の支配層をどう変えて行くかということなんだ。いやもっと正確にいうならば、日本の支配層の力をどう利用するかということなんだ」、というような人物だったようである。ゾルゲや尾崎は、歴史を決定する事業に参画することが自らの使命だと自覚していたし、そのために支配層の力を利用し動かす能力があると自認していた。
 しかし、支配層の力を利用すること、それはまた、進んで支配層にその力を利用させることでもある。
 ゾルゲは、ナチス・ドイツの大使館での信頼を基に、重要な情報を入手できた。そのような信頼は、ナチス党員たるにふさわしい言動なしにはありえず、彼の書く記事がナチス党員として疑われない内容でなければありえない。彼は、身を割くようにして、そのぎりぎりのところを生きた。
 尾崎は、とりわけ近衛首相のブレーンの一人として信頼されたことで、最高機密に属する情報を入手できた。天皇家の血をひく青年政治家近衛文麿が、歴史の中でどのように期待され、どのような役割を果たしたのかは簡単ではないが、彼の本意はともかく、少なくとも近衛は、日本が中国への侵略戦争を開始した際の、また国内にファッショ的な翼賛体制を作り上げた際の首相である。その近衛のブレーンになり、内閣顧問の地位に就くことは、機密情報入手のためであり、その地位にふさわしい言動は偽装であった、という面はもちろんある。だが、それだけではない。近衛の力を利用して歴史を動かすために、尾崎は、自らもまた、すぐれたテクノクラートとしてのその力を、近衛に貸したのである。
 彼らにとっての危険とは、逮捕されるより前に、加担することにある。抑圧に収奪に、殺人に戦争に加担すること。権力に加担するという危険を、彼らは敢えて引き受けた。彼らは、自分は歴史を動かせる人間だと思い、歴史を動かそうとし、行動した。歴史を動かすために「支配層の力を利用」しようとした。そのために、彼らに加担もしたのである。
 もちろん、彼らだけでは決してない。
 例えば、山代氏の伝えるところによれば、北林は、アメリカ共産党員たちがニューディールに積極的に参加していることを喜んでいる。それが事実かどうかは別として、「支配層の力を利用して」、つまり資本主義の延命を図る政策に「加担して」、社会主義的施策の導入を図るという戦略もありえた。そういう戦略が、また逆の戦略が、交錯しあっていたのが、30年代という時代であった。
 世界恐慌以後の全般的危機の時代、至るところで、何らかの根底的な社会改革が求められていた。国家への総動員体制による社会改革によって世界恐慌後の危機を乗り切ることが、共通かつ焦眉の課題となっていた。こうして、左翼革命の時代は右翼革命の時代でもある。である以上、両者には重なりもあれば移行もある。記憶では、映画でも、二二六事件は共産主義革命に通じる面もあったといわれていた。周知のように、ナチスという党名も、「社会主義」「労働者党」という語を含んでいる。
 利用することは利用されることでもある。草の根からの人民参加の体制を作ることが、総動員体制へと簒奪され、個別資本や政党の私利的な恣意性に左右される権力システムを批判し乗り越える変革意思が、ファッショ体制の構築へと収斂してゆく。また、東亜解放のための連帯が、大東亜共栄圏を通して、アジアの侵略と支配に帰着してしまう。
 入欧のための脱亜主義だけでなく、アジア連帯を目指す広義の大アジア主義もまた侵略に収斂するという隘路を、近代日本は越えられなかった。尾崎秀実が、来るべき世界革命のための現実的段階として、ソ連、共産中国、新生日本の提携を軸に構想した「東亜新秩序社会」も、結局は「東亜協同体」や「東亜聯盟」といった理念構想とひとつの流れになって、大東亜共栄圏の理念と現実に収斂させられてゆく。何より中国人民の友であろうとしつつ、尾崎は、近衛ブレーンの中国問題専門家として、満州の放棄や中国からの即時全面撤兵を主張できる立場にはなかったし、実際そうは主張しなかった。彼は、「君の書くものを中国の人々が読めば、どう思うだろうか」と問われて、実に暗い顔をしたそうである。「利用」するための、「信頼」を保つための立論である。だが、それは「偽装」なのか。「偽装」といえるのか。たとえ内心では「偽装」であったとしても、偽装とわかれば偽装ではなく、偽装とわからなければ、歴史の中では「実装」として機能してしまう。
 また例えば、ゾルゲ諜報団の最大の関心事と課題は、「北進」すなわち日本の軍事行動がソ連へ向かうのを防ぐことであったが、そのことは当然彼らに、南進絶対反対の態度を取らせなかった。それだけではない。尾崎は、来るべき日米戦争による疲弊が、「東亜新秩序社会」の実現に資すると考えでいた。その意味でも、南進論に賛成したというのはいい過ぎだとしても、少なくとも強く反対はしなかった筈である。東亜の解放と独立支援のためにこそ、南進つまり東南アジアへの軍事進出に加担すること、少なくとも黙認すること。それが、共産主義者として、苦悩の末選んだ戦略計算であったとしても。
 繰りかえすが、私は、加担を単純非難しているのでは決してない。逆に、単純なものいい、単純像で人を捉え、都合の悪い部分を偽装だといって切り離してすますような態度こそが、彼らの、実に困難極まりない闘いへの冒涜だといっているのである。複雑にからみあった歴史の中で、加担と抵抗が錯綜する行動を、どのように作りあげてゆくか。それが尾崎らの格闘した闘いであった。「反戦平和の信念を貫いた闘士」などという単純なことばは、内容のない、戦後の贈り名に過ぎない。
 この時代、完全な政治的敗北と引き替えに、信念に違う言動を一切拒否した人々がいた。だが尾崎らは、信念(観念)を貫くことを自己目的とするのではなく、それよりも「より困難な仕事」を、敢えて命がけで引き受けようとした。少なくとも、そういう自覚が彼にはあった。彼らが選んだのは、あらゆる抵抗が壊滅状態に陥った時代に、なおありうる抵抗のために、敢えて加担をも引き受けることである。彼らは闘った。彼らは、抵抗するためには加担せざるをえないような、あるいは抵抗が加担に簒奪されてゆくような、そういう時代の中で、そういう仕方で、闘ったのである。
 だが、それでも、加担は加担である。
 こうして、歴史を動かそうとした者、動かす力が自らにはあると自認した者の悲惨と栄光を、名のある者たちは背負っている。

 
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