透  視  と  歪  曲 −遠近空間についての試論− 


* * * * * * *

 遠近法には、こうしてもともと、ひとつのネガがはりついているわけだ。あるいはここに、透視画法に基づく<写実>のための歪曲技術そのものが<余剰な>瞞し絵トロンプ・ルイユや、変形デフォルマシオン、歪曲アナモルフォーズの魔術となってゆく道が、密かに開かれているのである。実際、意識的な<歪曲>技法としての透視画法の歴史は、<写実>技法としての透視画法そのものと同じく古い。というより、いわば<真実>を写しとる方法と<虚偽>を生み出す方法とは別のものではないのであって、当初から遠近法ないし透視画は、<眼の欺瞞>のための方法なのだから。即ち、遠近法が手法として、というよりむしろ空間の幾何学的統辞法として完成されるということは、以上のような意味での修正<歪曲>の理論が完成するということでもあるが、そのことはつまり、画家はいかなる面にも、即ち視線錐を切断する射影画面が垂直でない場合でもまた平面でない場合でも、そこに遠近空間を描き出すことのできる技術を完成させたということである。ところがそのことこそ、遠近法にまつわって多数産み出されたトロンプ・ルイユ、アナモルフォーズ表現の基礎技法に他ならない。
 早くは一三世紀以来、建築の内部空間や内装絵画、また舞台空間、偽室内としての庭園、建物群、広場、等々、あらゆる分野で、途切れることなく展開されるトロンプ・ルイユ的遠近法の魔術。そしてまた、絵画のみでなく様々な場面で、バロック(歪んだ真珠)の世紀にまで繋がって行く遠近法に基づくアナモルフォーズの不思議。少なくとも手法としてみるならば、トロンプ・ルイユまたアナモルフォーズは、単に狭義のマニエリスムの産物、遠近法の本来のあり方をはずれた変形態なのではなくて、むしろ、遠近法つまり「遠近」を<作り出す>手法にとって、本質的な事柄なのだ。予想された視点に<現実>を出現させる手法は、予想された視点に<非現実>を出現させる手法と、全く同等の権利をもつ筈だから。
こうして、例えばホルバイン「大使たち」などにみられるような極端なアナモルフォーズさえ、ある意味では、遠近法の正嫡子であり、また例えば、あの「偏執狂的批判的方法」の画家ダリも、自らもまたそう称しているように、ルサンス絵画の伝統に真っ直ぐ接続しているのだといわねばならない。
 とはいえ勿論そういういい方で、絵画のみでなく建築をはじめあらゆる分野での、古典主義、マニエリスム、またバロックの間の隔絶性と連続性について、美術史家また人文史家の間で議論されている様式上の問題群を、ここで一切無視しようというのではない。とりわけある時代、様々なジャンルで、余りにも過剰な<歪曲>への意志が、即ち、見える通りの世界を作り出すための詐術的陰示的な歪曲とは異なり、非日常的な空間を作り出すための積極的顕示的な歪曲への意志が、確かにある種の画家たちの情熱を捉えたのであった。それについては後に改めて触れるが、しかしそれでも、少なくとも、「「バロック」といわれればだれしもが思い浮かべる歪曲遠近法(アナモルフォーシス)の各種試みと瞞し絵(トロンプ・ルイユ)と、一方それらの仇敵と目さるべき(特に線的モノキュラーな)遠近法画法の対立という図式の、便宜性、イージーさ加減」(高山宏)は明らかであろう。古典時代の合理主義とバロックの時代の非合理主義といった安易な見取り図は、おそらく、そこここで混乱させられるに違いない。
 少なくとも、単なる逸脱や爛熟などといった言葉で済まされるような単純な事態ではおそらくないのだ。例えば、時代を超えて考案されてゆく様々なトロンプ・ルイユ光学装置いわば<写真の驚異>装置にしても、発明されるや同時に既に<歪曲の驚異>のための道具であったに違いない。私たちの時代のメディアをとってみても、ナダールは発明されたばかりのダゲレオタイプのカメラを発明されたばかりの気球に持ち込み視点をはるかな上空に浮遊させるし、また映画が発明されるやただちにジガ・ヴェルトフは様々な<驚異>のカメラ技法を考案する。いうならば、<写実>科学と<欺瞞>魔術は、もともと別のものではないのであった。

 続く・・・次、5へ     前、3へ  終了、contents見出しへ戻る