透  視  と  歪  曲 −遠近空間についての試論− 


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 だが、<見える通りに>描く、とは実際どういうことなのだろうか。遠近画法は確かに、<見える通りに>描く手法ではあるが、レオナルドはそれを、「自然遠近法」と区別して「人工遠近法」と呼んだのだった。即ち、<見える通りに描く>という手法に於いてこそ、<見る>ことと<描く>ことのずれが問題化するだろう。
 勿論、<見る>こと<見える>ことを私たちの体験の全体性に於いて問題にするならば、描かれる無時間的な世界は、はじめから、無限に重層的な<見える>世界の余りにも貧弱な抽象的断面でしかありえない。それはいわずに、仮に図形的な視覚像のみを問題にしてもなお、例えば、線遠近法が前提とする固定的・単眼的な視点そのものは、ある<ずれ>を必然的に呼び込んでいる。パノフスキーも、また彼を引用しつつメルロ=ポンティも言及しているように、静止した単一の視点とものを結ぶ円錐形を平面で切断する線遠近法は、もともと、いわば角比によるべき<見られる>世界の遠近感の、せいぜい粗い近似図以上のものではありえない。
 否それは、眼に映る世界に限りなく近いという意味での近似ですらない。例えば、机の上に正対して置かれたマッチ箱は、私たちの双眼がその両側面を<見る>ことができる限りに於いて遠近的(立体的)に見えるのだが、線遠近画法は、その両側面を絶対<見えない>方向に、遠方で縮小して描くように指示する。つまり、両側面が<見える>ことによって起こる遠近感が、正反対に、両側面が<見えない>ように強調された図に置き替えられることによって<写し取られる>のだ。遠近法的に描かれた絵は、不自然にも「片方の眼で見なければ立体感を与えることはできない」(レオナルド)ことを、人は誰でも知っている。
 にも拘らず、遠近画が、「開かれた窓」のように、「見える通りの」世界を写した画面であると見做されるとすれば、そこには、ある種の魔術が働いているわけだ。
 だが、それをいうなら、二次元平面の中に三次元空間を収容するすべての絵画は、一様に空間を作り出す魔術なのではなかろうか。平面芸術としての絵画は、何らかの方式に従って画面上に次元の差し引かれた世界を作り出すことしかできないのであるが、見る者はそれぞれ、その方式が画面空間に必然的に作り出さざるをえないある<ずれ>、ある歪曲を、エティックなそれとして見過ごすか、あるいはむしろそれ故にこそ、遠近魔術にかかるのである。その意味では、「どの遠近法のシステムも、等しく、一定の約束ごとコンヴェンションと結びついている<「恣意的」(ソシュール)なシステム>」であって、例えば、「逆遠近法も、〜 一個の独立した固有のシステムである」(ウスペンスキー)といわねばならない。いずれにしても人は、何らかの方式に従った歪曲をそれぞれ所与(言語)として受け入れることで、絵画世界に<遠近>を見るわけだ。
 そして勿論、遠近法的空間、透視空間もまた、このことに関して例外ではありえない。即ちそれもまた、ある歪曲方式をコンヴェンションとする共同観念空間に過ぎないのである。ただ、線遠近法にあっては、それ固有の歪曲システムによって描かれた図が、「開かれた窓」から「見える通りに」遠近世界が写された図なのだと、とりわけ強調されることとなる。それにしても、ここでも、ある規範に支えられた自明性をそのつど受け入れるとき、私たちは常に一定の歪曲を追認しているのであって、固定された単眼の空間世界を「見える通り」の世界だと信じる瞬間に、私たちはある共同観念を受け入れるのだ。即ち、ある歪曲のコンヴェンションを。遠近法とは、その意味で、近代の<視線>のコンヴェンション、あるいは<視線>の言語なのである。
 言語は、しかし、所与でありつつ創出でもあり、絵画は見るものでありつつ描くものでもある。発語という<創出>のように、<見る者>にとって所与である画面の統辞を、<描く者>はそのつど発動させる。だが、遠近法とはある歪曲方式であったとすれば、そのことは、次のことを意味することとなる。即ち、<見える>世界を意識的に<描く>技術家である画家は、いずれコンヴェンションが隠しているその歪曲を、技術のうちで顕在化しなければならない筈だ、ということがそれである。
 画家にとって<見える通りに>描くということは、見る者に対して、現実の世界が<見える通りに>彼の絵が<見える>ように、そのように描くことに他ならない。そしてそのことは、少なくとも単なる空間表現の技術アルスとしての遠近法についていうなら、彼は、彼の絵が「開かれた窓」であるかのように、コンヴェンションに乗ずる技術によって、見る者を<欺か>ねばならないということだ。
 例えばヴァザーリは、ルネサンスの画家たちの手法について、「彼らは、努力に努力を重ね、艱難辛苦して技術上の不可能を可能にした。とりわけこの人々が最大の努力を費やしたものが、短縮法」だ、といっている。 描くという行為が後の時代のように私的なものになる以前にはとりわけ、画家たちはおそらく単純な遠近画法に熟達するだけでなく、様々な制約の内で「艱難辛苦」しなければならなかった筈である。例えば彼に委ねられる壁面は、ミケランジェロもその対策に苦慮しているように、建物の構造上、要求する視点とはかけ離れた場所からの視線や斜めに見上げる視線に応じねばならないような、近いまた遠いあるいは高い場所にあるかもしれず、更には平面でなく曲面であるかもしれない。あるいはまた彼には、高さや奥行きを実際以上に、ある場合には無限に、強調することが期待されるかもしれない。そういう様々な場合には、描く視点と見る視点の乖離を計りつつ、一定の計算された<歪曲>を画面に加えることが、優れた画家の技術になるだろう。勿論そして、そのような場合にも、それら意識的な短縮や展伸つまりは<歪曲>の技法上の基礎となるのは、遠近法そのものをおいて他にない。
 こうして、画家たちにとって、遠近を<写し取る>ことは、それを<作り出す>ことに他ならない。奥行きのないところに奥行きを、高さのないところに高さを、大きさのないところに大きさを、あるいは、場合によってはその逆を(加速遠近法と失速遠近法)。遠近を<写実>するための<歪曲>、<写真>のための詐術。

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