透  視  と  歪  曲 −遠近空間についての試論− 


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 さて、以上私たちは、先に述べた視線と対象と光の分裂に象徴される視点の支配権の相対化が、内包されていた<描く視点>と<見る視点>の分裂を顕在化させ、あるいは<消点>から<視点>へという移行が、更に<描く視点>を<見る視点>から自立させるのをみてきた。いまや、画面世界から疎外された虚の<視点>となることで自立した画家は、控え目にまたは過剰に、欺瞞魔術を用いて「見る人の眼を騙し」、実際にはないものを「あるように信じ込ませる」(ボッカチョ)技術的存在となっている。そこで更に問わねばならない。それでは誰が欺かれるのか。勿論見る者である。では見る者とは誰か。こうして、更にここで、観る者と画家の、<見る視点>と<描く視点>の二分法そのものが、つまりは虚の<視点>に立つ画家の自立性ものものが問題となるだろう。
 例えばこういういい方をしてみよう。
 いうまでもなく、遠近法の欺瞞<魔術>は、本来ただ一ケ所<見る視点>からの視線に対してのみ最大の効力を発揮する。こうして、消点が特権的主題たるにふさわしい対象の特権的場所であったと同じく、「遠近法と権力の交錯の歴史」(高山宏)に於いて、視点は、政治的経済的ないし宗教的権力者の観賞点として確保されることとなる。特権的観賞者としての例えば王は、画家によって周到に設定された視点に身をおくことによってはじめて、特権的観賞者たりうるのである。こうして、視線の権力を集約する者は視線によって第一に欺かれる者である。
 だが、フーコーが指摘したように、例えばベラスケス「ラス・メニナス」の絵画空間が背後に隠す特権的地点に立っているのは、不在の王であり観賞者でありまた画家でもある存在ではなかったか。画家が王であり、王が画家である。描く者が描かれる者であり、見る者が見られる者である。彼は、見られている人々を見ているのであり、更に自らを、そしてそれらの関係そのものを見ているのだ。外へと無限に逃れゆく関係性。そして、内へと無限に折れ返る関係性。「ラスメニナス」において、視点の対称点に置かれた小さな鏡は、まさにその関係性を象徴している。
 そしてここから、おそらく、遠近法の成立と鏡への異常な執着の同時性、親近性もまた、了解できよう。例えばレオナルドの有名な鏡文字を彼の挿絵に注目しつつ版画下絵という観点から解こうという説(高津道昭)もあるが、しかし多分それだけではない。また、レオナルドの同時代人ブレネレスキが視心にあけられた小さな穴を通して絵の裏から前に立てた鏡を覗かせそこに写った遠近画を見せた、という伝承について、「わざわざ穴を開けたり鏡に写して見たりする必要はどこにあろうか。だからこの話は、どこかから誤って伝えられたのであろう」(黒田正己)という意見もあるが、しかし多分そうではない。
 <見る>ことは欺かれることではあるが、単に欺かれるだけのことでは勿論ないのだ。実際には、遠近画面といえども「窓」ではない。遠近画を<見る>ということは、しかもそれを「開いた窓に<見立て>」ること、画面を「ガラスでできている<かのように>」(アルベルティ)<見做す>ことであり、描かれた画面空間を現実の空間と<見做す>ことである。私が絵を<見る>ということは、「これはパイプの絵であってパイプではない」と意識しつつ、しかも「これはパイプである」と欺かれようとすることであり、つまりは自らを<欺く>ことである。即ち、それはまさに、鏡に写る世界と眼に見える世界とを同質のものとして認めようとすることと同質の、私の行為だといわねばならない。私は虚像を現実と<見做し>、そしてまた、現実を虚像と<見做す>。ブレネルスキが、小穴から覗く者の眼前で、鏡をはずしたり差し入れたりすることによって、鏡に映った絵と現実の風景とを交互に見るようにさせた、というわけは、おそらくここにある。こうして、<欺かれる>私が自らを<欺く>時代、<虚像である真>が<真である虚像>とたえず入れ替わる遠近法の時代こそ、同時に<鏡>の時代でもあったのだ。
 その意味で、この時代は、来るべき省みる意識の時代、コギトの時代に先立つ、いわば大いなる<鏡像体験>(ラカン)の時代だったのかどうか。いずれにしても、遠近法と鏡(像)の関係は、<謎>であって<謎>でないのだ。見る私と私の見る世界が、相互に<虚>として指定しあう関係性。絵画空間が鏡に写される<虚>空間でしかないことを浮かび上がらせるのは、画面世界から疎外され<虚>の点となった視点に他ならない。いずれ虚点としてのコギトが、世界の虚性を浮かび上がらせるであろうように。
 こうして、逆説的にいうなら、ここに、ひとつの<自由>が姿を現しているのが見てとれよう。
 遠近法の成立を促した、人と絵画世界を包んでいた意味論的秩序の崩壊によって、一方で、画面空間は、描かれる世界の有機的な全体意味から疎外され、しかも鏡像として現実の世界と差し替え可能な虚空間となっている。他方また、絵画秩序を統括する<視点>そのものは、画面空間から意味論的に疎外されているだけでなく、描かれる世界に定位する画家の人間的現在からも解放された、いわば虚の視点となっている。いまや、自然遠近法からの「人工遠近法」の離陸によって、たとえ実際には見ることが不可能な点であろうとも、<そこから見える>通りの世界を人工的に描き出せるのだ。
 こうして、遠近法のマニュアル化(マニエリスム)によって、即ち、遠近法が画面構成の、画面秩序の、自己完結的な規則、規範となったことによって、画家は、自らの眼にとって<外的な>その遠近法をそのつど発動する度に、自らには<見えない>空間を画面に出現させ、そこに見る者を巻き込んで行く、ある<自由>を手にしていることになる。こうしておそらく、画家は、アナモルフォーズの誘惑に駆られるでもあろう。

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