第1章 発 端

  ----Tokyo/Ngurah Rai Airport/Ubud.



 「ただいま当機は、バリ島上空を飛んでおります」成田を発って7時間あまり――しばしまどろんでいた藤森美耶子は、スチュワーデスの声に目覚めた。「左手に、アグン山が見えてまいりました」乗客の顔が一斉に窓の外に向いた。

 (やっぱりこの便にしてよかった)と、美耶子は思った。

 成田発デンパサール行きガルーダ・インドネシア航空便は、通常インドネシアの首都ジャカルタを経由してデンパサールへ向かう。バリ到着は午後8時近いから、すでに真っ暗である。美耶子の乗ったガルーダ機は、ゴールデン・ウィークに運航される臨時便で、ジャカルタを経由せずバリへ直行するのだ。

 「アグン山は、標高3142メートル、バリ島一の高さを誇っております」スチュワーデスのアナウンスが続いた。「山腹に鎮座するブサキー寺院は、バリ=ヒンドゥー教の総本山として、島民から崇拝されております」

 この時、窓からアグン山の雄姿を見つめる美耶子には、このさき遭遇する不思議な出来事について知る由もなかった。

 藤森美耶子――ふじもり・みやこ――は、東京のK大学文学部の3年生である。英米文学を専攻し、日頃西洋文化の摂取に勤しんでいるはずの美耶子が、最初の海外旅行としてバリ島を選んだのはそれなりの理由があった。

 神田神保町にある洋書専門店へ、発注してあった本を受け取りに行ったときのことであった。東京有数の書店街でもひときわ豪奢な造りで有名なこの書店は、1階が新刊書売場で、2階が古書売場になっている。

 美耶子はこの古書階が気に入っていた。大学の友人のなかには、誰が手にしたか知れない古書を毛嫌いし、同じ理由から図書館の本すら借りようとせず新刊書ばかりを買う超潔癖人間もいるが、美耶子はそうではなかった。荘重で華麗な装幀もさることながら、古書を漁っている時はいつも、何か目新らしいものが発見できるような期待に駆られるのであった。

 2階に上がると、吸い寄せられるように左へ折れた。顔見知りの店員が会釈するのにも気付かず、勘定場を通り越して奥の棚の前で立ち止まった。そこはアジア関係の書棚で、普段は絶対に立ち寄ることのない場所であった。

 かなり分厚いペーパーバックに美耶子は手をのばした。その黒表紙の本は、ミゲル・コバルビアスの書いた『ISLAND OF BALI』であった。

 ミゲル・コバルビアスは、メキシコ生まれのコスモポリタンな画家である。1930年代、妻ローズとともにバリ内陸の芸術村ウブッドに居留した。

 『ISLAND OF BALI』は、在島中の彼の見聞と美しい挿絵に、ローズの撮影した写真を一冊にまとめ、1936年にニューヨークで出版された。現在でも定評のある本で、数版を重ねている。1973年にオックスフォード大学出版部から刊行されたリプリント版を、美耶子は買った。

 バリ島は「地上最後の楽園」と呼ばれるが、それは西洋人の胸奥に去来するイメージとしての楽園=パラダイスである。美耶子のバリとの最初の出合いは、西洋人の目を通してなされたのであった。



 午後6時30分。ガルーダ航空臨時便は、定刻通りバリのングラ・ライ国際空港に着陸した。

 インドネシアの各空港は、独立戦争時代の「国家英雄」の名が冠せられている。国の表玄関であるジャカルタの国際空港は、建国の父で初代大統領スカルノと初代副大統領ハッタの名で呼ばれる。

 バリ唯一の空港の名は、第2次世界大戦後の1946年10月20日、オランダとの戦闘で玉砕したイ・グスティ・ングラ・ライ中佐に由来する。空港から東に向かい、サヌールとヌサ・ドゥアとを結ぶハイウエーと交差するT字路に、彼の銅像が立っている。

 このププタン・マルガラナ事件では、96名のインドネシア兵士が戦死したが、そのなかには数名の残留元日本人兵士が含まれていた。ングラ・ライ中佐以下の戦没者は、デンパサールの北27キロにあるチャンディ・マルガラナ墓苑に眠っている。


マルガにある残留元日本人兵士の墓の写真です(JPEG/109KB/260×372Pixel)マルガにある残留元日本人兵士の墓(JPEG/109KB)

 夕方の礼拝で献じられたのだろう。滑走路脇の小さな祭壇から数条の香烟が立ち上り、その前方に広がった深紅色に染まる夕焼け空に消えていく光景は、美耶子の心に強く焼きついた。

 あまりの乗客の多さに業を煮やしたのか、悪評高い入国審査も難無く通り越せた。殊に若い日本人女性は注意するよう忠告されていたので、ホッとすると同時にいくらか拍子抜けした。

 晴れてバリの「住人」となった美耶子は、南国の島の空気を呼吸した。濃厚な空気が美耶子の全身を包んだ。丁字入り煙草独特の甘酸っぱいような匂い、線香、車の排気ガスの匂い、それに蒸せた熱気が混ざりあっていた。

 空港の正面玄関は、ホテルマンや知人の出迎えでごった返していた。人波を避けるように、タクシー乗場に急いだ。

 観光客の大半が宿泊するクタやサヌール、ヌサ・ドゥアといったビーチ・リゾートを避け、ウブッド近郊に宿を予約したのだ。この内陸の村こそ、60年前コバルビアス夫妻が滞在した地であった。



 バリの朝は早い。

 時の経つのも忘れ、昨夜は自室のテラスから星空を眺めていた。午前3時頃だったろうか。鎌や小袋を手にした男性が数人、庭を徘徊しているではないか。

 (泥棒? それにしては懐中電灯を照らしている)

 男たちも美耶子の視線に気付いたらしく、水田の方を指差し、田植えをする仕草をして見せた。暑い日中を避け、早朝から田に出るのだ。

 男たちが行ってしまうと、籐編みの籠を頭にのせ、街の方へ歩いてゆく女性の一団が見えた。パサールで働く女たちであった。

 美耶子がベッドに横になった頃、東の空がすでに白み始めていた。

 「おはようございます」突然、若い男の声がした。「ミヤコさん。どうしましたか」

 「あ、ワヤン?」慌ててベッドからとび起き、美耶子はドア越しに言った。「ちょっと待ってて下さる」

 ワヤンは、美耶子の泊っているコテージの主人の長男である。以前、宿泊客から日本語を習ったとのことで、片言の会話ができる。昨夜美耶子のガイドを買って出て、朝9時に迎えに来ると約束したのである。

 「ごめんなさい。待たせちゃって」ホットシャワーを浴び部屋から出てきたときは、すでに30分が経過していた。

 「ミヤコ。朝ご飯まだでしょう」すぐ出かけようという美耶子を制止し、ワヤンはやさしく言った。

 「いいのよ。遅くなっちゃたから」

 「駄目だよ。ちゃんとご飯食べないと。バリは暑いからね」

 押し問答の末、美耶子はようやくうなずいた。

 テラスに食事を運んでくると、ワヤンは美耶子の前から姿を消した。朝食は、ナシ・ゴレンに目玉焼き、野菜サラダが一皿に盛られ、トロピカル・フルーツの山盛りとコーヒーが付いたバリ風のものであった。

 朝食を食べながら、バリ通の友人から以前聞いた話を思い出した。

 「バリの男の子って」と、顔をしかめながらその友人は言った。「四六時中まとわり付いているのよ。ロスメンのテラスでのんびり本を読んでいても、なんだかんだと声をかけてくるんだから。気を許したら駄目よ」

 そういえば、儀礼などの特別な場合を除き、バリ人は家族や男女同士が一緒に食事をしないと本で読んだことがある。ことに男女が食事を共にするのは、セックスをするのと同じなのだという。レストランで給仕する場合などを除き、食事中に異性が接待することもない。

 すると、ワヤンがガイドを買って出たのは善意からであり、下心があってのことではないのかもしれない。まだ数回しか顔を合わせていないが、今のところワヤンの態度に不審な点はない。

 (疑ってはきりがないわ)不安をかき消すかのように、美耶子は早々に朝食を終えた。



 門の前にジープが停まっていた。「どこへ行きたいですか」美耶子が近づくと、ワヤンが声をかけた。

 美耶子は、初めての土地では必ず博物館に行くことにしている。現地の歴史や文化に関する知識が手っ取り早く得られるためである。

 「そうね。博物館に連れて行ってもらおうかしら。確か、デンパサールにあったわね」

 「はい。バリ博物館ですね。でも、今日は、博物館は11時までです」

 すでに10時過ぎである。ここからバリ博物館まで小1時間はかかるという。この近くにはないのだろうか。

 「ブドゥルに考古学博物館があります。でも今日は金曜日だから、ここも11時で終わりです」

 金曜日はイスラム教の礼拝日で、公共機関は午前11時には閉まってしまう。バリはイスラム国ではないが、役所はジャカルタの中央政府に従っているのである。

 「博物館ではありませんが」美耶子の拍子抜けした様子に困惑し、ワヤンが言った。「遺蹟ならあります。『象の穴』という所です」

 「象の穴?」美耶子は首を傾げた。

 「そうです。『ゴワ・ガジャ』です」

 ゴワ・ガジャは、11世紀頃当地で栄えた仏教の遺蹟で、ゴワは「洞窟」、ガジャは「象」の意味である。洞門に奇怪な顔が彫られた洞窟と沐浴場、瞑想窟、仏像などが残っている。

 ゴワ・ガジャという名の由来はよくわからない。バリに象がいた痕跡はなく、遺蹟の近く――洞窟や沐浴場のあるマウンドの下手――を流れるプタヌ川がかつてルワ・ガジャ、すなわち象の川と呼ばれていたのに因んでいるとする説が有力である。

 「象の穴」というユーモラスな響きに興味を覚え、美耶子は案内を頼んだ。

(第1章終わり)

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