【介助者の質・その2:000823】

 介助者とは何か。赤ん坊の親を介助者とは言わない。病人の看護を介助とは言わない。後見人と介助者とは明らかに違う。

 続きを考えてみたけれど、まだまだ草分けの分野だと思った。

 一口に障害者といっても、多様すぎてこれも定義が難しい。
行政の障害等級区分は、実際の介助には直結しないし、最近使われる「要介護度」というのも問題がありすぎる。これは、「できる、できない」で区分してゆくので、多動の人は自立に近くなってしまう。けれど、介助をしたことのある人ならすぐに分かることと思うが、多動の人はとても介助が難しく、思わぬ危険にさらされることがある。

 ここでは、単に、障害者を介助という一面だけから見て、「障害のために、日常生活が自分自身ではできないので、介助を必要とする人」として定義づけてみた。だから、自分の行動に不自由を感じない人は、対象外となります。

 これは、あまりにもよく使われる例ですが、かつては障害者となっていた近視の人も、眼鏡ができたおかげで、現在では健常者となる、という考え方からです。

 前回、「介助」について書くきっかけとなった文章を、今回全文掲載してみました。

 <AJU コンビニハウス会報 NO23号>より

 「**福祉専門学校の・・・」と名乗る方からの電話は、2級ヘルパー養成講座の講師依頼であった。最近「2級ヘルパー養成講座」という案内を街のあちこちで見かけるようになった。介護保険の施行を目前に控え、サービスを提供する人材(2級ヘルパー)を急速に育成する必要に迫られ、行政や福祉施設だけでなく民間企業や専門学校等でもヘルパー育成に乗り出している。私も介助される者の立場から話をするようにと、講師をお引き受けする回数が増えている。

 コンビニハウスのサービスが利用者から一定の評価を得られたのはなぜなのか、と考えてみる。この4年間、利用者のニーズに沿って介助することをテーマとし、職員もコーディネーターもボランティアさんや協力者の方々も一丸となって、その実現に向けて奮闘し続けてきたからではないかと思う。果たしてヘルパー教育をする組織の何割が、利用者の立場に立ってヘルパー教育をしているのか。
 ヘルパーを志して集まってくる人の何割が、「利用者主体」のサービスを提供していこうという自覚を持っているのか、大いに疑問である。
 長年にわたり提供する者(健常者)の都合で作られ続けてきた福祉施策が、本当の意味で「利用者主体」の「ニーズから生まれるサービス」に変化していく日は、まだ程遠いのかも知れない。
だが、その変化を何もせずに待っている訳にはいかない。
私自身も障害者であり、日々他人に介助してもらう中で生活を組み立てている。
 介助の「質」に拘らずにはいられない。
介助者の勝手な「押しつけ」でなく、いつも私の「必要に敏感」になる。
 そんな介助を受けたいと思う。
 この4年間、コンビニを通して利用者の方に教えられたこともたくさんある。
これらのことを多くの人に伝えたい。
そんな思いでまた講演に出かけようと思う。

              (全文)
         コンビニハウスコーディネーター    市江由紀子

 介助についてもう一つの見方です。
 障害者に介助者を派遣する事業を行っている「ハンズ世田谷」の代表の、横山晃久氏が述べておられます。(「現代思想」1998・2月号)

 「聞き手・・それで、介助を社会的な労働として位置づけるということですが、介助は、普通の労働と 比べてどういう違いがあると言えるのでしょうか。 
 横山・・もちろん、物を作ったりすることとは、全く違う。
僕は、「障害者」で、介助者とは空気のようなものだと、思っている。あって当たり前、なかったら死んじゃう。
で、もし僕が健常者だったら、考えちゃうね。
ものすごくしんどいことだと思う。
とにかく、その時その時で、空気になったり、黒子になったり、またある時は、いっしょに考えたりもしなくちゃいけない。
そこで精神的な苦痛も出て来るはずです。
そういうことを、ちゃんと、普遍的に社会の中で評価されるものにしなくちゃいけない。」と、ある。

 いくら、社会的に評価される位置づけでも、このような仕事は果たしてできるのであろうか。まるで、母親か配偶者のような役割ではないか。

 介助を普遍性のある「技能」として捉えないかぎり、滅私奉公を美徳とする罠からは抜けられない気がする。まず、カウンセラーやケースワーカーの担うことを明確にする。そして、介助者がすることを細分化して、介助者は介助に関することのみ、その技能を発揮できるようにすべきではないだろうか。

 「人間は物ではない、ゆえに相手の身になっての心配り」というものが介助者に求められている。私には、この相手の身になって、という概念が難しすぎる。一見、簡単そうに見えるが、その相手たるや、あまりにも多様なのである。障害者が持っている背景と志向が千差万別で、介助者の理解をはるかに超えてしまう。

 自分のニーズにあった介助が欲しければ、細部にわたって要求し、契約する形が望ましくはないだろうか。今までは、障害者が理解されることもおぼつかなく、たとえ本人が意識していなくても、社会に立ち向かうという面は否めなかった。だから、とにかく優しく、身内の延長のような共感者や、運動の同志のような介助者が理想とされてきたように思う。しかし、贖罪意識の裏返しのような優しさは、障害者と対等に向き合うことが果たしてでき得るのか。ましてや、障害者である相手を理解しようと、親切心さながら、ずけずけと細部にまで踏み込んでしまう恐れは、どう回避したらよいのであろうか。相手と対等に向き合えないところでは、価値観の押しつけや、どちらかの隷属が生まれる危険は目に見えている。

 私はどうしても対等な関係を望む。それには、障害者が、自分の生活の一部始終を点検し、微に入り細に入り、介助者と契約をむすんで、どうしたら自分の生活が自分の意のままに過ごせるか、を構築することしかないと思う。それは、介助を必要とする障害者には、とても大きな仕事であるに違いない。

 介助はあくまで「仕事」でしかない。介助の仕事を、一連のものとして捉えることを止め、起床から、洗面、食事、トイレ、着脱・・と細分化して、その一つ一つを技能として捉える方向に進むべきだと思う。

 この改革がないところでは、障害者に本当の人格が与えられないのではなかろうか。いつまでたっても、手のかかる障害者、手のかからない障害者、はたまた、気の利かない介助者という相手の品定めが続き、お互いの尊厳を認めあうことが難しいような気がする。

 ただし、要介助者に健常者と同じだけの自由、つまりスナックや、ポルノ映画、あるいはギャンブルへ行く自由をすべて保障すべきことはいうまでもないが。

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