【存在だけが存在する:000321】

 難しい学問を平易な文章で書いてある書物は少ない。そんな中でもたまにあると、嬉しくなる。
先日はスティーヴン・J・グールド氏の書物にであった。地動説を唱えたガリレオ・ガリレイも、その頃に教会と大学で使われていた堅苦しいラテン語ではなく、イタリア語を使って、教授と学生の対話形式の書物を二冊も残しているという。

 生物学者が書いたものを読むと、進化が必ず出てくる。他の学問でも出てくるが、生物を引き合いにだした時空間には何となく心が慰められる。

 過去40億年、私以前に膨大な数の生物が存在しまた死んでいった、ということを考えると、何となく心が安心する。
 何故だろう。
 自分の生命の重さに堪えきれないからかもしれない。また、人間がかってに押しつけた、人間としての役割なるものに押しつぶされそうに思っているからかもしれない。生物学は、過去に存在していた夥しい生物たちに、存在の意味を優劣なく与えている。
 広大なる時空間のまえには、この生物群の中に私もいれられると思うと、永遠に近い時空間に溶け込んでいくような気がする。

 ところが歴史は、考古学であってもこういう安心感を感じたことがない。私にとって、歴史学は自分が萎縮するような気がする。たとえ民衆の視点にたった歴史学であっても、また犠牲者として、歴史の隠れた担い手となった人たちがいたことを含めてもである。

 歴史学の視点には、どうしてもまだ「優劣」の観念が入っていると思えてならない。たとえ成し遂げたことが善であっても悪であっても、本当はそんなの問題じゃない。ただ、その人がそういった歴史的な生命を生きた、ということだけなのに。

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