【二つの資源の行方:000603】

 東海村のJCO事故後、二人目の職員が亡くなった。

 原発についてずっと不思議に思っていたことが、また思い出された。
 それはーー。
 原発は、巨大過ぎて調整運転が困難ということ。原発は、昼間動かして夜間止める、ということが出来ない。原発は発電した電力がスムーズに使われないと暴走する。そして、電力は蓄積することが出来ない。と、ここまでのことは、何となくバラバラに知っていた。だったら、余った電力はどうなるんだろう???そう、この疑問だった。

 夜間の電力はどうするのだろう?使用量が増えた?かも知れないが、それほど多くはないようだ。電力を蓄積する技術ができた?
否、まだそこまでには到ってないようだ。

 答えは、揚水作戦というものだった。原発の近くに揚水水力発電所という付帯施設がある。つまり、原発の近くの上流と下流にダムを二つ作る。昼間、上のダムの水を下のダムに落として、少々発電する。そして、夜間にはその落とした水を上のダムへ大量の電力を使って汲み上げる。このように、電力を捨てる施設を作っておけば、原発はいくらあっても、まだまだ必要となる。そうだったのか。調整運転ができる小規模の発電所があれば、本当は事足りていたわけだ。

 そういう電力を発電するための、原発ウラン加工処理施設での事故だった。初めに亡くなった大内さんは、皮膚や内蔵の粘膜が破壊され、流れ出る体液のために常に輸血を必要とした。多い日には一日15リットルを超える輸血をされたと言う。当然のことながら、臓器移植も行われた。しかし、臓器移植というのは、「公平な順番による」、というものではなかったのか。緊急事態のなかで、しかも国民の不安が一斉に高まったなかで、大内さんに移植の順番を待てというのは、とても言える雰囲気ではなかったかも知れない。でも、やっぱりちょっとおかしいのではありませんか。

 人は事故による死でも、ただの病気による死でも、死の重みは変わらない。「犠牲者」、そう、確かに犠牲者には違いない。けれど、ある会社の一事故であることも確かだった。決して他者を背負っての犠牲者ではない。

 骨髄バンクが、移植の公平の原則を無視して「国の要請」を受け、大内さんへの移植を優先させたことは、移植待ちの当事者にとってはどんな気持ちがしたであろうか。逆に、家族が拒否しても続けられた延命治療で、大内さんの苦しみは長引いた。無意味な国策のための、国の節操のない介入は、知る人ぞ知るということなのか。否、否、本当は、そんなことは初めから想定できていた。

 もともと「あり得ない公平性」を唱えても意味をなさない移植システム。これをも含めて、移植そのものにも問題が潜んでいると思う。

 他者のために役立ちたい。
それで、のために役立ちたいのですか?
この質問に自分が答えられた時のみ、私は臓器を提供する。

<<<

>>>