【神戸連続殺傷事件について:000123】

 1月20日に、神戸連続殺傷事件の2女児の両親が、関東医療少年院に収容されている少年の両親との間で和解が成立、という記事がでていた。殺された女児は数千万円、重傷を負った女児は二千万円の和解金ということである。男児との間では98年に一億円余の和解金が確定していた。

 この記事に私は以前の男児の時と同じくかなりショックを受けた。
 少年の自白以外、証拠は何もないし、事件そのものも検証されているとはいえない。
 はじめ私はこの事件のマスコミ発表を鵜呑みにしていた。
しかし、指摘されてみれば、あまりに初歩的な疑問が山ほどであった。その後はこの事件に関する知識を心して得るようにした。
 その結論が、少年はシロ、つまり冤罪ということである。
 
 少年をシロとする根拠は数多くある。
 首の切り方の不可能性、死体処理の不可能性、筆跡の不一致、文章作成の不可能性、供述と事実との多くのずれ、そして時間的な検証では犯行の節目、節目の行動、計36カ所。目撃者がゼロの確率は百万分の一。
 一番決定的なのは、第二頚椎を切ることの難しさである。首をのけぞらせ凍結させてから切断しなければおよそ不可能な切り方は、全国の医師が知っては困るのであろう、数カ月後、医療少年院送りが決定してから公表された。

 この事件を知れば知るほど、つい間違えてしまったという単なる冤罪事件とは思われない。
 警察が知り尽くした権力犯罪としか考えられない。そして、マスコミもすべてを知っていて、あえて国民を騙したとしか考えられない記事の書き方である。
 この背後には、被害者の家族をも脅かしている魔の手が忍び寄っているのではなかろうか、とさえ思われる成り行きである。
 
 文明は果たして人間を優しくするのだろうか。こんな疑問が解けない。
 子どもが罪を犯すと、親が社会的制裁を与えられてしまう。「こんな子を育てたのだから当たり前、テレビに出て社会にお詫びをするべきだ」との説にはおそれいった。

 親と子は別人格というならば、親に罪を被せるのはおかしい。
 未成年であるから親に罪が被さるのは当然、とするならば、親は子どもをどう折檻しようと認めるべきである。それでないと矛盾する。
 数年前にあった事件を思い出す。中学生の息子がふるう家庭内暴力の凄さにあぐねて、息子を殺してしまった父親。努力に努力を重ねていた供述が見られた。
 アメリカで数年前、17歳の窃盗癖のある少年の親にたいし、監督不行届ということで、有罪判決がでた。親はそれに対し、努力をしたが防ぎきれなかった、と控訴した。その結果は確かめてはいないが。
 現代社会は親をダブルスタンダードで裁いている。親が窃盗をしたのではない。親が殺人をしたのではない。せめて社会的制裁だけはやめてほしい。
 
 神戸少年の場合、冷たい社会的制裁だけが先走り、真実を見抜く目が人々から消えている。
 社会のリンチがなければ、親も真実を知る行動を起こせたかもしれない。事件後2年あまり、昨年9月の時点で、医療少年院にいる息子に会うことも許されていないという。

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