【優性思想と女性の責任:000116】

 週刊金曜日NO169に米津知子さんが、こんなことを言っていました。

 <72年に優性保護法改悪の動きがでたとき、「産む・産まないは女が決める」と主張した女性」たちに対して、障害者は「障害を持った胎児なら中絶するのか」という問いを突きつけました。
 ちょうどその頃、障害者を殺した母親について「減刑嘆願書」が出されるということがあり、障害者の運動は「障害者は殺されて当然か」と反論しました。そのことが女性の運動に対する不信感にもつながったのではないでしょうか。私は障害者で、女の運動の中にいた。辛い想いでした。でも両者をへだてていたのは、「優生」です。
 子どもに障害があることの責任は母親が負わされる。私が子どもの頃の母の印象ってとても暗かった。私のせいかなって、気の毒で甘えられなかった。「障害者なら産まないのか」という問いに、女だけで答えは出せない。社会が障害者を受け入れることができるかどうかです。それができるなら、女はただ子どもを持つか持たないかだけを選べる>

 障害者に関わっている人で、フェミニズムを語れる人は周りにいない。だから、未だに解けないでいる。

 自己主張をすると、往々にして誰かとの摩擦を受ける。この摩擦によってリブ運動は成長してきた。いち早く障害者問題を、生命の発生にまでさかのぼって、根本的に問い続けたのも、おそらくリブが最初であろう。
 リブ運動の回想を読むと「あの頃、まだ未熟で答えが出せなかった。今なら言える」という問題が多い。その中で障害者問題がそうである。
 出産の自己決定を行使するならば、責任をすべて本人が背負うのはあたりまえ、という説に、私は違和感を感じてきた。科学の発達により、今まで積み重ねられてきた倫理とはべつの、全く新しい未知の倫理観が必要になっている。一般に認められるような新しい倫理観はいずれ確立するであろう。しかし、その先にまた科学の未知の発見があり、また新たに倫理観を必要とする日が来る。またまた追いかけっこである。みんなが納得できる生命の規範となるものができるまで、その時々のすべてについて、女性だけが責任を引き受けるのには合点がゆかない。
 今の所、幅広く受け入れられている認識は、「子どもと親とは別人格だ」ということである。この規範にそって、生まれた障害者への援助は無条件に行われるべきだと思う。

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