ちょっとひとりごと日記

2004年10月

2004年9月 2004年8月


10月14日 (木) 放送禁止歌 New

12日の夜、フォーク歌手の山平和彦さんがお亡くなりになりました。 交通事故のようです。 ちなみに山平さんは秋田市の近くの飯田川町のご出身。 友川かずき、クライマックス、とんぼちゃん、そして因幡晃。 あのころの秋田のフォークは熱かった、と年上の方々から良く聞かされます。

山平さんの代表的な曲、子供のころに聞いた四文字熟語を連ねた「放送禁止歌」は子供心にも大変インパクトのある曲でした。 CD とか無いかなぁ。また聞いてみたいな。


10月13日 (水) 金脈まであと1メートルかもしれない New

今日聞いた祈祷会のメッセンジャーはアフリカはナイジェリアから来られた宣教師の Fred ADDO 師。 ヨハネ福音書5章のベテスダの池のところからのメッセージでした。

イエス様は病んでいる人々のところに行かれた。
その時のエルサレムは祭りがあった。 一方では宴会のように賑やかで喜びに溢れた空間。賛美の空間。 一方では病いの人々、文句を言いたくなるような、癒しを待ち続ける人。涙の空間。 イエス様は喜びの場所ではなく、病める人々のところに立ち寄られた。
イエス様は病んでいる人々のところに行かれる。
イエス様は問題のあるところに行かれる。
イエス様はいつでも、どこでも私たちのために立ち上がってくださる。

イエス様はおっしゃいました「立ち上がりなさい」。
イエス様は今、私たちにも語りかけられています。
「失望から立ち上がりなさい。」
「病いから立ち上がりなさい。」
「経済的な困難、災いから立ち上がりなさい。」

38年間池のほとりで癒しを待ち続けていた人がいた。38年間なにもなかった。なにも起きなかった。
あなたは教会に来てなにも起きないのに38年間通い続けることができますか?
でも、ベテスダの池にいた足の不自由な人は38年間、神様のみわざを待ち続けた。 彼が37年目に癒しもなにも起きないからとベテスダの池を去ったらイエス様に遭えなかった。 あきらめちゃいけない。
神様の奇跡が昨日起きなきゃ、今日起きるかもしれない。
神様の奇跡が今日起きなきゃ、明日起きるかもしれない。
神様は私たちになにかしようとしておられる。
神様は38年間の問題を一日で解決してくださる。

祈祷会メモより

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アメリカのカルバリーチャペルのチャック・スミス師の著書を思い出しました。
昔ダービーという人がコラロドの金脈を掘り始めた。 最初の債務を支払い終えたころに金脈も掘り尽くした。 更に掘削を続けたものの金脈に当たらず、鉱山を設備を廃品回収業者に売り渡した。 その廃品回収業者が調査をしたところダービーさんが掘るのを病めた地点から 1m 下に金脈があるという。 その廃品回収業者はコロラド州でもっとも豊富な金脈を持つものになった。
私たちは祈るときに熱心に待ち続けることが必要。
勝利を目前にしながら疲れてやめてしまうことのないように。

参考:チャック・スミス著「力を解放する祈り」プリズム社


10月11日 (月) 体育の日 New

今日は体育の日です。以前は10月10日でしたね。 10月10日は東京オリンピックの開幕式の日。 たしか晴れる確率が異常に高い、好天の特異日だったと思いますが、今年は全国的にぐずついている模様。 台風一過の秋晴れとはいかないようです。

今日は小雨降る中、横手のふるさと村 -Kamakurando- に行きました。 ちょうど秋田の食についてのパネルディスカッションがあり、漫画家の倉田よしみさんに遭えました。 倉田さんも秋田市出身です。 やっぱ「味いちもんめ」を描かれているから食べ物に詳しいということでパネラーに選ばれたのかな。 なんか嬉しくよい日でした。


10月6日 (水) 走り抜く

ヘブル人への手紙 第12章 1節。

 いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、
耐え忍んで走り抜こうではないか。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように。 信仰生活はマラソンのようなもの。短距離走では無い。 途中でやめない。歩くのも問題。邪魔だってはいる。でも完走しよう。
霊的な健康を奪うものがある。少しずつ奪う。(ダニエル7:25)
一時的なものが、永遠のものを押し出す。奪う。だから聖絶が必要。

ダビデはその神、主によって自分を力づけた。(サムエル上30:6)
フロントラインばかりではなく、背後の者も祝福を受ける。(サムエル上30:23,24)

わざわいは奇跡の始まり。ハプニングも神様の許された範囲で起きる。
祈りに導かれることはすべて良し。
マイナスはかならずプラスになる。

祈祷会メモより

10月5日 (火) 呪縛

高杉良の経済小説「金融腐食列島 II 呪縛」(角川文庫)を読みました。 これは第一勧業銀行の不正融資、総会屋事件をベースにしているといわれています。 映画にもなったそうですから、そちらでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。 この本のタイトルになった「呪縛」ということば、非常に重みを感じます。

小説の中では、銀行トップが総会屋に対する不正融資であることを知りながら、なぜそれを食い止めることができなかったのか。 それは、人間関係のしがらみ・・・「お世話になった」「自分をこの地位に引き上げてくれた」 そういったしがらみに縛られて正しいことをすることができない、ということが全編を流れるテーマでしょう。

あるアンケ−トによると日本人が一番好意をもっている宗教は、実はキリスト教なのだそうです。 また、半数以上の人が誘われたらキリスト教会に行ってみたいと思っているそうです。 でも、実際に日本のクリスチャンは日本の総人口の1%。礼拝出席者数は総人口の0.25%、とも言われます。 行ってみたいと思う教会、興味のある教会、でもいくことができない。 そこにはなんらかのしがらみはないでしょうか。 近所の目、家族、親戚、友人の目、人間関係・・・ 日本人が縛られているなんらかの呪縛があるのではないでしょうか。


10月3日 (日) 過去に生きることをやめる

今日の礼拝メッセージ(大和カルバリーチャペル9月26日収録)は田原米子先生でした。

先生は高校生の時に自殺未遂、線路に投身自殺を図りました。 奇跡的も命は助かりましたが、左手、両足を失いました。 残った右手も小指、薬指を失った状況でした。 悶々とした入院生活の中、ある宣教師と神学生が彼女の元に通うようになります。

宣教師と神学生が通ってきたからといって彼女の心が平安になるというわけではなく、荒んだままでした。 ある時、宣教師達が置いていった本の山の一番上の本を手にとってみます。 これも、読もうと思った訳じゃなく、ただその本の山がうざったく、一番上の本をちょいちょいと目を通して、 で、読んだよ、といって全部返そうと思っただけでした。

その時目に入った言葉が次の言葉でした。

コリント人への第二の手紙 第5章 17節。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

この時に彼女に衝撃が走りました。 それまで、手足を失ったこと、左手13cm を残されたことを怒っていたました。 しかしこの瞬間、残された右手、残された3本の指を感謝できました。 おかあさんに心から感謝できた。産んでくれてありがとうと心から思えたそうです。

過去に生きることをやめる。

田原先生はそのように表現されました。 「あの時良かったなぁ〜」ということもやめる。 明日のことも思い煩わない。 ただ、今日を一生懸命に生きる。

私はこの御言葉を引用する時というのは、だいたい過去の嫌なことを一掃する文脈で用いてきました。 ですから、過去の良かったことも捨てる、ということに衝撃を受けました。 過去の栄光、昔は良かった、それにくらべて今は景気も悪いし... などとつぶやく自分を見いだしました。

過去に生きることをやめる。礼拝が終わったとき、心も身体も軽くなったようでした。






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