ちょっとひとりごと日記

2004年9月

2004年8月


9月30日 (木) 秋田にプロ野球球団のフランチャイズが?

今日で9月もおしまいです。この日記を読んでくださる皆様、感謝しております。 更新できない日も多かったのですが、なんとかキレギレであっても継続することができたましたことを、神様に感謝します。

さて、プロ野球に興味が無い方も多いかもしれませんが、たまにはこんな話題も。

近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブに端を発したプロ野球界再編の流れから IT 産業関連の2社が新規参入の手を挙げました。 そのうちのライブドアが仙台をフランチャイズにしようとしています。 東北地方にプロ野球のチームがフランチャイズを置いて、年に数試合東北各県で公式戦を行なうと いうだけでも嬉しいことなのに、ライブドアは2軍のフランチャイズを秋田に置こうという構想もあるようです。 村山や江夏、田淵に熱狂した少年時代を過ごした私にとってとても嬉しいです。 また秋田は野球好きな人が比較的多い県です。 2軍とはいえプロの試合を、プロの練習をいつも見ることができる環境はかならず、子供たちにもプラスになることでしょう。

今回の再編問題では特に古田選手に代表される選手会、阪神の野崎社長をはじめとする一部の球団社長、 そしてファンが頑張って(読売主導の)古い体質を打ち砕き、新しい流れを作ろうとしています。 制度疲労を起こしているといわれて久しい日本社会、その日本社会が変わろうとしてしています。

多くの海外のクリスチャンたちが日本の為に祈り続けて下さっています。 日本を古い呪縛から解き放ってイエス・キリストの福音の元に再構築されようとしています。 今、その大きな波、ビッグ・ウェーブがきているのかもしれません。 古い体質が崩壊していくニュースはビッグ・ウェーブのしるしではないでしょうか。 ビッグ・ウェーブに乗りたいものです。

マタイによる福音書 第16章 2〜3節。

 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳


9月29日 (水) 見えないものがいっぱい

今日聞いた祈祷会[2004.9.22収録]は Lakewood 教会の J. オースティン師のメッセージでした。

ヨハネによる福音書 第7章 24節。

 うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

  • うわべを見て人を批判しないようにしよう。
  • 教会は完璧な人の博物館ではない。人々をいやす病院である。
  • 教会には希望がある。新しい人生の始まりがある。
  • 教会は人々を倒すのでは無く、助け上げるのが仕事です。
  • 教会は人の間違いを見つけることが仕事では無い。
  • 教会はさばきではなく、あわれみをほどこすべき。

教会に列席するのに相応しくない服装の人がいたとします。 でもそれを批判しないようにしましょう。 その人はその服しか持っていないのかもしれません。 どうしようもない状況から着の身着のまま教会に駆け込んできたのかもしれません。 心の病気で服装に気を配ることができないのかもしれません。 私たちに見えるのは服装です。 でも、心、その人のおかれている背景、その人の背負っている歴史・・・見えない部分の方が多いのです。

イエス様が言われたように、うわべで人を判断しないようにしましょう。 愛をもって、その人のおかれている状況を想像し、憐れみの心で接していきましょう。

祈祷会メモより

9月28日 (火) 思い込み

昨日の話にも関連しますが、自分で運動によって生活習慣病を直そうと思ったときに、運動することが大切だと思いました。 そして、それはそんな楽な運動じゃなくって、小学校時代に経験した持久走のような辛いトレーニング、もうダメだ、 と思うレベルをかなりの時間維持しなければ、効果は無いだろうと思っていたのです。 それは誤りでした。自分の思い込みだったのです。

自分は今、教会でギターを弾いて賛美リードをしています。 これは3年前の自分では考えられないことでした。 というのは、それまでの自分は音楽は、特に楽器は苦手であると思い込んでいたのです。 それは小学1年の時、学校の教師から音楽の時間「下手くそ」といわれたことに起因しています。 それから35年間、自分は楽器が苦手であると思い込んでいたのです。 しかし、そうではありませんでした。 わかったことは、サタンが私の心の中に、38年前に地雷を、爆弾をしかけていったということです。 そして、その爆弾に触れることが嫌で、35年間、楽器を遠ざけていたのです。

このような否定的な思い、辛い経験をしなければ成長しない、といった思い。 実はこれらはまったくむなしい思いだったわけです。 あなたの心の中にサタンがおいていった地雷は有りませんか。 教師から、また親から受けた傷を大切に持ち続けていませんか?

イエス・キリストは私たちの心の中にあるサタンがおいていった地雷を撤去してくださいます。


9月27日 (月) がんばらなくっていい。

私、実は春の健康診断で高血圧ならびに高脂血症の疑いが指摘されました。 そこで、夏過ぎから運動(サイクリング)を始めていました。 ひさびさに乗る自転車はとても気持ちの良いものでした。 更に効率的に体調管理を進めるために心拍数を管理したトレーニングをしようと思いました。 ところが、いままでの自分のトレーニングは脂肪燃焼には効果なしということがわかりました。 運動強度が強すぎたのです。頑張りすぎていたのです。 脂肪燃焼のため、また高血圧対策のため血液循環を良くしようとするためには、もっと楽な運動にしなければならなかったのです。

私たちもよりよい人生を送るために、また死後の救い(道徳的救済)のために、頑張りすぎているところないでしょうか。 イエス・キリストの十字架の購いを受けるためには、私たちの頑張りはまったく必要ありません。 がんばらなくっていいのです。 ただイエス・キリストの十字架が自分のためにあるのだと知り、受け入れる。 そこからすべてが始まります。


9月26日 (日) 弱さよ、ありがとう

主日礼拝説教メモ  コリント人への第二の手紙 第12章 1〜10節。

パウロは目が悪かった。偏頭痛に悩まされていた。 説教中に倒れることもありてんかんの症状もあったらしい。 一説には強烈なマラリア熱に侵されていたという話もある。

もしマラリア熱であるならばその頭痛の痛みというものは、真っ赤に焼けた鉄棒を差し込まれるような耐え難い痛みであったことだろう。 その痛みを取り除いてもらうためにパウロは三度(繰り返し、執ように)祈った。 その祈りに対する神様の答えは

コリント人への第二の手紙 第12章 9節。

 ところが、主が言われた、
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、
むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

人生の中に弱さがある人がいる。家庭の中に問題がある人も多い。 行き詰まりがある、侮辱されるようなことがあるかもしれない。でも、

私達の神は私達の必要いっさいを満たしてくださいます。(ピリピ4:19)
私達の神は万事を益としてくださる神です。(ローマ8:28)
私を強くしてくださる方によって、何ごとでもすることができる。(ピリピ4:13)

私たちの主に感謝します。


9月23日 (木) 秋分の日

きょうは秋分の日です。昼と夜の時間がいっしょになる日ですね。 なんで秋分の日が国民の休日なのかなぁ、と思い調べてみました。 その結果、戦前までは秋分の日ではなく「秋季皇霊祭」という皇室の宗教行事が行われる日なんだそうです。 で春分の日は「春季皇霊祭」。明治11年に制定。昭和23年から春分の日・秋分の日。

終戦で国民の休日が再検討されたとき、天皇崇拝が弱められていた時であっても、 民俗信仰でも春の彼岸、秋の彼岸ということで、この日を休日にすることに違和感がなかったようです。

「皇霊祭」にしても「彼岸」にしてもその基本は先祖礼拝です。 クリスチャンになると先祖を大切にしないという人がおりますが、それは間違いです。 うそだと思うのなら新約聖書の最初を開いてみましょう。 イエス・キリストの祖先がズラズラと書かれています。 この部分を読んで聖書を読むことをやめちゃう人も少なくありません。 クリスチャンは先祖を礼拝の対象にしないだけです。


9月22日 (水) ねずみ捕り

きょうは同僚の方の車で出張でした。秋の交通安全週間でしょうか。 パトロールカーや警察官の方々の姿を多く見かけました。 ちょっと道路から見えないところに多くの警官がいるのはスピード違反の取り締まり、ねずみ捕りでもしているのでしょうか。 なにも違反している訳ではないけれどパトカーに後ろを走られるとちょっと緊張してしまうのは、何故なんでしょうね(笑)。

よく「シートベルト、チャイルドシート、運転中の携帯電話、スピード違反、 一時停止違反、飲酒運転、酒気帯び運転・・・、見つからなければなにをしても良い」と豪語する方がおられます。 このような態度は車の運転に限らず、万引きや自転車泥棒をする人にも多いようです。 いかにも、人の目を意識して生活する日本人的発想だなぁ、と思います。

もし、神を意識するようになるとこの態度は変化します。

マタイによる福音書 6章18節

 隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

この聖書箇所は私たちが隠れて悪いことをしているのを戒める箇所ではありません。 逆に、隠れて良いことをするのを勧めている箇所です。 私が言いたいのは、神は私たちの隠れた事を見ておられる、ということです。 このことを知るなら、確実に私たちの生活が、人生が、また社会が変わります。


9月20日 (月) 敬老の日

以前、中国からの女子留学生に「年齢よりお若く見えますね」と言って怒られたことがあります。 中国では「若い」というのは「未熟である」と同義なんだそうです。 従って私は「年齢のわりには幼い、未熟ですね」と言ってしまったのですね。 確かに大変無礼なことを言ってしまったものです。 彼女は日本文化を良く理解していた方ですので、その時は大きなトラブルにはなりませんでした。

日本では年齢を重ねることにどちらかというと否定的なことが多いような印象を受けるのは私だけでしょうか。 姥捨山なんて文化もありました。 今でも、一人暮らし、老夫婦暮らしだけでは無く、家族と一緒に暮らしている老人の自殺も多いと聞きます。 身体が弱り、家族に迷惑をかけ、働き手にはなれず、もう先は無いし、ということなのでしょうか?

ヨエル書 2章28節

 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。
あなたがたのむすこ、娘は預言をし、
あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

日本聖書協会 旧約聖書 口語訳

この御言葉は新約聖書の使徒行伝2章17節でも引用されている有名な箇所です。 「わが霊」というのは神様の霊、聖霊様です。 聖霊が注がれるなら、老い先短いはずの老人が夢を見る、というのです。 聖霊が注がれるなら、夢見る人生、いきいき人生に変えられるのです。

この地上での暮らしは大変かもしれません。 身体は重くなるし、目もかすみ、耳も遠くなるかもしれません。 でも、イエス・キリストを信じ、聖霊が注がれるなら、罪が赦され、永遠の命が与えられます。 たとえ何歳であっても、希望の人生を送ることが出来るのです。

90歳を超えてイエス・キリストを知り、イエス様を受け入れ、洗礼を受けて、毎日が喜びの人生、感謝の人生に変えられた人はおおぜいおります。 妻のおばちゃんも92歳で洗礼を受けました。 最期となった入院生活の時もいつもニコニコし、平安のうちにイエス様のところに召されました。 不思議な神様の力を多くの方々に体験して欲しいと願います。


9月19日 (日) 絶対にノックアウトされない

ボクシングをやれば、かならず相手からも打たれます。 なんかの映画のように自分のパンチは当たるけれど、相手のパンチは当たらない、なんてことはありません。 接戦であれば、相手をダウンさせることもあれば、自分もダウンします。 でも、ボクシングでダウンはしても、10カウント内に立ち上がれば負けはしません。 そして1ラウンドに2回ダウンしても大丈夫だから、10ラウンド戦なら20回ダウンできます。

逆に、相手を10ラウンド中に1回しかダウンさせることができなくとも、その時相手が 10カウント以内に立ち上がらなければ、私たちの勝ちです。 つまり(ルールの範囲内であれば)何回ノックダウンしても負けではありません。 逆に1回のノックダウンであっても、その時「10カウント以内に立ち上がらなければ」すなわち、ノックアウトしたら負けなんです。

コリント人への第二の手紙 4章8-9節

 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

ある訳(フィリップ訳)によると、

我々は四方八方から不利なハンディキャップを負わされるが、決して挫折はしない。
途方に暮れるが決して絶望しない。
我々はノックダウンはするが、決してノックアウトされない。

私たちには勝利が約束されています。

実は、私がこの御言葉が好きなのは、ノックダウンすること、途方に暮れること、不利な ハンディキャップを負わされることを否定していない、ということなのです。 弱さを否定しません。環境の不遇を否定しません。 それらを認めながらも、なお勝利は私たちにあるのです。ハレルヤ!

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今日の礼拝でお久しぶりの方が参加してくださいました。とても、とても嬉しいです。

洗礼を受けながら、教会を離れてらっしゃる方、今出席している教会でちょっと疲れてらっしゃる方、 一度私たちと礼拝をともにしてみませんか?
あなたのために祈りたいのです。あなたが出席している、所属している教会の祝福を祈りたいのです。お待ちしております。


9月16日 (木) サクラサク

教会の敷地内に山桜の木があります。 ちょうど二階の牧師室の真ん前なのですが、その山桜が数輪咲きました。 今、敷地内の木を伐採する計画を立ててまして、その計画を桜が知ってあわてて花をつけたんじゃないの、 なんて話をしていましたところ、秋田県内で桜、ライラック、コブシ、りんごの花、ナシの花、たんぽぽなどが咲きまくっているというニュースを知りました (秋田さきかげ on the Web で「塩害」というキーワードで過去記事を検索すると読めます)。

先日の台風の強風で海水が沿岸内陸まで運ばれ、その影響で樹木の葉がまっ茶色になって枯れてしまいました。 そしてまだ暖かいので、葉に行くべき養分で花を咲かせてしまったらしいのです。

県の森林技術センターや果樹試験場の話によると今咲いている花は来年の春には咲かない。 その結果として果樹の場合は実を結ばないことすらあるのだそうです。

秋田県は冷害や凶作などの自然災害が東北の他県に比較して少なく、暮らしやすい土地で、このような気象災害を受けることは本当に珍しいことです。 風が強い時に送電線の鉄塔が「ブーン」といううなりをあげることがあります。 これも塩害の一種で、風によって運ばれた海水によって軽いショート状態になっているのだそうです。 しかし、秋田市中の街路樹が落葉し、農業も大きな痛手を受けるほどの塩害というのは私の記憶にはありません。

最近は地震もひんぱんにありますし、度重なる台風被害、そして浅間山の噴火。 日本という国が地球科学的に不安定な場所にあることをしっかりと認識する必要がありそうです。


9月15日 (水) 十分の一のささげ物

多くのキリスト教会では教会員になりますと毎月の収入に応じて定めた額を捧げる月定献金(十一献金、什一献金とも呼ばれます)を捧げます。 これはイスラエルの民が収入の十分の一を神に捧げると決められていたことに基づくようです。 私たちの教会ではマラキ書3章10節の御言葉に基づき、献金のお奨めがされます。

マラキ書 3章8-10節

 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
 あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。
 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

日本聖書協会 旧約聖書 口語訳

9月8日(水)の祈祷会における大川牧師のメッセージの後半は十分の一のささげ物についてでした。 ノンクリスチャンの人たちも十分の一を捧げてほしい。 ノンクリスチャンの人たちがお金を教会に捧げるというのはできないでしょう。

でも、あなたの能力の十分の一を、才能の十分の一を、賜物の十分の一を、時間の十分の一を、 ボランティア活動に、愛の活動に使ってみませんか?

というお薦めでした。
確かにそれがなされれば、日本は変わるでしょうね。 昔の元気一杯な日本、活気のある日本が戻りそうな予感すらします。 本当に願わくは、こういう考えを為政者達がもってほしいものです。


9月14日 (火) 虎キチ

私が定期購読している雑誌のひとつにハーザーというクリスチャンジャーナルがあります。 その10月号にメル・ボンド師というアメリカ合衆国から来られた伝道者の記事がありました。 彼の姪が阪神タイガースのクローザー、ジェフ・ウィリアムスの奥さんで、来日した際に阪神の試合を見に行って非常に驚いたのだそうです。 というのは、彼が見た日本人というものは、非常に穏やかで、保守的で静かな人々である、というものでした。 ところが、彼らが野球場に入ると、大声で叫びながら野球の試合を見ていたので、それで非常に驚いた、ということなのです。

タイガースファンの熱狂は野球ファンの中でも特殊かもしれません。 ある方がタイガースファンにとって阪神の試合は「祭り」なのだ、と書いていました。 確かに「祭り」であるなら、日本人が熱狂的になる祭りはいっぱいあります。 では、私たちが熱狂的になれるのは、そういった特別な時間や空間、舞台が必要なのでしょうか?

以前、カレル・ヴァン・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)という本を読んだことがありました (カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の著作についてはまた日を改めてご紹介したいと思います)。 日本人であっても、生まれたときはひとりひとり、みんな個性的なのだけれど、その後の学校教育などで 作られた国民性、操作された情報によって教育されあてがわれた国民性、何者(国家)かによって決められた国民性を押し着せられている、ということに気づきました

イエス・キリストを信じるとき、私たちは無意識に強制されて身に付いてしまった国民性を脱ぎ捨てて、本来の自分を取り戻せるのではないでしょうか。 イエス様によって私たちは何者かによって押し着せられた古き衣を脱ぎ捨てて、野球を見ていなくても、祭りに加わらなくても、本来の明るく・元気で・のびのびとした自分を日常の中に取り戻すことができます。


9月13日 (月) 新しい創造

今日の聖書通読箇所からです。

コリント人への第二の手紙 5章17節

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

良く「氏より育ち」と言われます。最近でいえば遺伝子よりも生まれ育った環境がその人の性格や能力を決定づける、といった意味合いです。 クリスチャンも洗礼を受けて生活が一変した方もいれば、日々の生活はたいして変わらないという人もいらっしゃいます。 でも、すべての人が同じ経験、体験をしなくちゃいけない、というものではありません。 神様は一人一人の個性にオーダーメイド、テーラーメイドしたやり方で、新しくしてくださいます。

聖書の御言葉は真実です。 毎週教会に通うなら、いつも聖書に触れるなら、必ずあなたは変えられます。

また、新改訳聖書も参照してみました。「その人は新しく造られた者である」という箇所に「そこには新しい創造があります」と注釈があります。
ついでに英語の聖書(New International Version)を見てみたら、

2 Corinthians, 5:17

if anyone is in Christ, he is a new creation

(c)1973, 1978, 1984 International Bible Societey
New International Version
Used by permission of Zondervan Bible Publishers.

とあります。この「新しい創造」とか「new creation」という言葉にワクワクしちゃいました。

古くて良い物もいっぱいあります。古くても良いものを大切に使う、という態度はとても大切です。 一方、新しい物や新しい事はなにかしら活気や躍動感を感じ、人々をひきつけます。 このようなインターネットサイトでも、ヒット数の多いサイトは常に更新されているそうです。

一方、聖書は何千年も変わりません。 しかし、聖書を通して神様の御心を知ろうという思いで聖書に接するならば、いつも新しい感動に満ち溢れています。 本当に不思議な書物です。 是非、この不思議さを多くの人に体験して欲しいと思います。


9月12日 (日) 流行を追う

流行を追う人生はむなしい。 「流行」という文字が示しているように、流行とは「流れ行くもの」。 手にしたとたん、それは古くなる。 流行だけを握っていては、流行だけを求めていては、満足の行く人生を送ることはできない。

旧約聖書は6,000年、新約聖書は2,000年変わらない、動くことの無い、真理のみことば。

聖書は神の御言葉。神様の言葉を握り続けて生きてみませんか。

礼拝メモより

9月10日 (金) 喜び歌え

9月6日の日記で電子ピアノを修理したことを書きました。 ということは教会の音楽活動に電子ピアノを使っているということです。 ちなみに私たちの教会では礼拝前にアコースティックギターやドラムスも使って賛美をします。 大和カルバリーチャペルでは もっと多種多様な楽器が使われています。

これらについてある教会の牧師先生からうらやましいと言われたことがあります。 その牧師先生もご自分ではギターもキーボードもやるし、シンセサイザーも操れる。 でも教団として礼拝で使用できる楽器はオルガン・ピアノの他はバイオリンくらいが許容範囲なのだそうです。 そういう教団では電子ピアノや電子オルガン、サイレントバイオリンなどの電子楽器は使えないのかなぁ〜(疑問)

個人的には色々な教会があって、色々な礼拝形式があって良いと思います。 それこそ大和カルバリーチャペルでは 伝統的な讃美歌から、クラシック、ゴスペル、フォーク、ロック、ジャズなど様々な音楽が溢れています。 元旦礼拝などでなされる宮田さんご夫妻のホルンと琴による賛美も毎年の楽しみです。

詩篇 98章4〜6節

 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、ほめうたえ。
 琴をもって主をほめうたえ。琴と歌の声をもってほめうたえ。
 ラッパと角笛の音をもって
王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。

日本聖書協会 旧約聖書 口語訳

キリスト教会に関わったことが無い方々の多くは、カトリック教会に良く見られるような、荘厳で、落ち着いた感じの音楽を想像される方が多いかもしれません。 でも、聖書には「喜び歌え」とあります。 ダビデも「歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊」りました(サムエル記下 6章5節)。
私たちは普段の礼拝では立ち上がって踊ったりすることはありません(そうする教会や集会もあります)。 普段は手拍子をとったり、手をあげたりするくらいかな。 ダビデのように神様の恵みに素直に応答し、喜びの賛美に、躍動感に溢れたキリスト者の集まりになれればいいなと思っています。

9月11日と12日は日記の更新をおやすみさせていただきます。


9月8日(水)恐れるな

大和カルバリーチャペルの9月1日の祈祷会メッセージを聞きました。 メッセンジャーは坪井永代伝道師。聖書箇所は使徒行伝18章1〜11節。パウロがアテネを離れ、コリントの町に移り、宣教の働きをする。

坪井師は神学生時代、新聞配達のアルバイトをしていた。 色々悩んでいた頃、新聞を配達している時、団地の階段を駆け上り、また廊下を小走りに走っている時に神様からの語りかけがあった。

恐れるな。あなたには、わたしがついている。

その言葉が今でも心に残り、また響いている。今でも日々仕事をしていく上での力となる言葉である。

使徒行伝 18章9,10節

 すると、ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。
 あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

だれでも神様に熱心に祈り求めるなら神様はかならず答えてくださる。
聖書のみ言葉を握り続けることの重要性、それは私たちの人生の大きな力となる。

ちなみに中野雄一郎師によると「恐れるな」という言葉は聖書に365回出てくる。 だから毎日触れるべき神の御言葉。 中野師は毎朝「恐れるな」「喜べ」「もっと喜べ」「もっともっと喜べ」と宣言されるそうです。 大川牧師もこの宣言をすることを奨励されてます。


9月6日(月)電子ピアノ修理しました

昨日、教会の電子ピアノの調子が悪く応急処置を施しました。

以前、教会にカワイのアップライトピアノがありました。 年に1〜2回調律をしていたのですが、調律師の方がもうチューニングできない、とおっしゃったそうで、この度アップライトピアノを業者に引き取っていただきました。 そしてかわりに以前姪が使っていた YAMAHA クラヴィノーバ CLP-123 を買い取っていましたので、それを会堂に運び入れました。 ところが、なぜかペダルの信号ケーブルが本体とのコネクター部分で断線してましてペダルが使えない。

そこでヤマハのサポートに電話をしました。非常に丁寧に教えてくださいました。ちょっと感動。 自分で修理したい旨を伝えますと、電話の向こうで配線図を見ながら色々教えてくださいます。 こちらの質問にも非常に丁寧に答えてくださいました。

最初はケーブル交換でいけると思ったのですが(それでもハンダ付けが必要)、古い機種の為在庫がないと言われました。 単にコネクタを作り直すだけなんですけれどねぇ〜。 ということで、とりあえずコネクタを全切断、バイパス手術で復帰させました。 今後適当なコネクタを探して、完治させるつもりです。

普通の方々から見るといくら電子楽器とはいえ、楽器を素人が手を入れて修理をしようとするのは非常識に見えるかもしれません。 でも電子ピアノといっても人が設計し、作った物です。修理が必要な場合はサポートの人が来て人の手で修理をします。 ということで、人の手で出来ることであれば、特殊な工具や道具、知識や能力、技術を必要とするのでなければ(そして危険物を取り扱うのでなければ)、ある程度のことは自分でもできるという確信のもとで行なっています。 でも、ときどき失敗します(^^; 自分の手に負えないときも多いです。

でもクラビノーバを設計した人であったり、作った人であれば故障箇所を判断し、修理することはなんの雑作も無いことでしょう。

詩篇 139編13節

 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。

日本聖書協会 旧約聖書 口語訳

私たちは神様の作品です。神様が私たちを設計し、作ってくださいました。 もし、私たちの心や身体が不調になったとしても、神様は全てご存じです。 神様が私たちの設計者であり、製作責任者なのですから、神様は私たちの心や身体の不調を直して下さることができます。 神様によるいやしを求め、神様の力を体験しましょう。


9月5日(日)山南敬助の切腹 

大川牧師はNHK大河ドラマ「新撰組」をご覧になっているそうです。

先日は山南敬助が切腹するお話でした。新撰組の隊士達から、町人達から尊敬され、慕われる山南。
山南が隊を脱走する。「見つけないように追え」と追っ手を遣わすが捕まってしまい隊に引き戻される。 戻ったそこにあるのは「規律を破った。切腹」
みんな、なんとか山南を切腹させずに逃がそうとする、また助命の嘆願をする。 しかし、幹部はそれらの嘆願を退ける。
「隊の規律を破った以上、それを赦すわけにはいかぬ。しめしがつかぬ」
そこにあるのは赦しの無い世界

私たちは神様のルールの中で生かされているが、神様のルール(律法)を完全に守れるわけじゃない。 もし天使たちが「人間たちはルールを破ったのだから、赦すわけにはいかぬ。しめしがつかぬ」 などと言ったら私たちの中に生きていける者は一人もいない。

でも神様は素敵な計画を思いつかれた。
それは神様のひとり子イエス様を地上にお遣わしになって、全人類の罪をひとりイエス様に担わせようとする計画。

2000年前、その計画は成功した。 「人間たちはルールを破ったのだから、赦すわけにはいかぬ。しめしがつかぬ。 でもそのルールを破った責任をイエス様がご自分の命で、十字架でおとりになった イエス様の十字架が自分の罪のゆえであることを認め、受け入れ、悔い改める人間たちは赦そう」

私たちは赦しの世界を生きていくことができる。

礼拝メモより

9月4日(土)セリオン 

今日は最初、秋田県立博物館に行ったのですが、あいにく休館中でした。 そこで海を見にいこうということになりまして、そのまま土崎港(秋田港)へ。 僕はまだ港にあるセリオンに行ったことがありませんでした。 セリオンというのは秋田市の港にある前高143m、100m 展望台がウリのマリンタワーです。 セリオンについて聞こえてくる秋田の人たちの評判はあまりよいものではありませんでした。 いわく、「上がってみてもつまらない」、「金出してまで行くもんじゃねぇ」

しかし、上ってみて、少なくとも僕は感動しました。今日はあいにくと曇り空だったのですが、 天気のよい、空気の澄んだ日であれば山形県境の鳥海山から青森県境の白神山地まで一望できるそうです。 そうでなくとも、高清水公園(旧湊城)、千秋公園(旧久保田城)、平和公園、太平山の高さ、旧秋田空港跡地、秋田運河(実は雄物川の古い河道)など地上100mの新しい視点で 自分が生まれ育った街を見直すことができ、いろいろなことを考えました。

少なくとも県外のお客さんをお連れするには悪くない場所だと思います。 展望台の下のフロアでお茶を飲みながらゆっくりするのも良いでしょう。 風景を見ながら秋田の観光や秋田の歴史など色々ご紹介できそうです。

今回セリオンに上ってみて思ったことは「やはり自分で体験してみなくっちゃネ」ということです。
評判に惑わされて、今まで体験しなかったことは本当に損した気分でした。

クリスチャンじゃ無い方は、キリスト教会にもいろいろな教会があることをご存じでしょうか。 おそらくあなたが考えている以上に、キリスト教会は変化に富んでいます。ご自分の目で、耳で確かめてみませんか。

クリスチャンの方、洗礼を受けながら教会を離れていらっしゃる方、あなた方が所属している(していた)教会の礼拝形式が世界標準だと思いますか? (まぁカトリックや聖公会、正教会はある程度標準化されているかもしれませんが)。

私たちの教会は日常の生活で疲れていらっしゃる方、普段の教会生活に慣れて疲れていらっしゃる方々を歓迎します。 私たちの礼拝に一度ご一緒しませんか? ともに神様の恵みをいただいて、元の生活に、元の教会にお戻りになれれば、そのお手伝いをすることができたらいいなと思います。
うわさや思い込みに捕らわれず、ご自分で体験して確認してみませんか?


9月3日(金)イワシ 

今年の7月に秋田県の男鹿水族館がリニューアルオープンしました。 映画「釣りバカ日誌15」でも水族館オープニングセレモニーに鈴木社長が駆けつけ、その横でハマちゃんがタイを釣るというシーンがありまして、県外の方でもご覧なった方も多いかも。 自分も8月16日に行ってきました。 楽しかったのですが、入館者があふれてて魚を見ているのか人を見ているのかわからん状態でした。 また今度ゆっくりと落ち着いて見たいと思いました。

その男鹿水族館では大水槽に50種くらいの魚がいっしょに飼育してました(生態展示というらしい)。先月見に行ったときに、普通の魚の中にサメも一緒に飼育されているのを見てびっくりしました。大丈夫かなぁ、と思ったのですが、案の定、飼育してたイワシが壊滅したそうです(今日のさきがけニュースから)。もっともサメではなくブリなんかが食べたのじゃないかというお話ですが。

創世記 1章20〜21節

神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。

日本聖書協会 旧約聖書 口語訳

神様が水の中に棲むすべての生き物、天を飛ぶすべての鳥を創造された聖書箇所です。 それは「神は見て、良しとされた」ほど素晴らしい物であったのだと思います。 神様はまたこの生態系をもお作りになられました。水族館の生態展示は難しいそうです。 しかし神様の作られた生態系は安定しています。

神様はその生態系をちゃんと治めるように(創世記1章26節)と人間を創造されました。 しかし、現実のこの世界を見ると人間の活動によって生態系のバランスが崩れてきています。 このことについての神学的な見解は、私にはわかりません。 ひとつは人間の罪の問題でしょうし、その後の(終末に向けての)神様のご計画なのかもしれません。 私にとって今後の課題のひとつです。

9月4日と5日は日記の更新をおやすみさせていただきます。


9月2日(木)照る日、曇る日、雨降る日 

今日はひさびさにぐずついた、すっきりしない天気です。

普通の都市生活者にとっては晴れの日は嬉しいでしょうが、晴天続きでは水不足の心配がでてきますね。 農家の方々にとっては雨量、日射量、風向き、強さ、気温、すべて大切ですね。 今年は台風の当たり年で、水不足の心配もいらないでしょうが。

晴れると傘屋に嫁いだ娘のことが心配で、雨が降ると下駄屋に嫁いだ娘が心配、というおばあさんの話を思い出しました。 これは晴れると下駄が売れるので下駄屋に嫁いだ娘のことを喜び、雨が降ると傘が売れるので傘屋に嫁いだ娘のことを喜ぼうという積極思考の例話としてよく引用されるようです。

聖書で雨や晴れと聞いて私が最初に思いだすのは次の箇所です。

マタイによる福音書 5章45節

 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

日本聖書協会 新約聖書 口語訳

この箇所はイエス様の山上の説教と呼ばれている箇所です。 マタイによる福音書の5章から7章まではすべてイエス様が直接お話になられて言葉です。 私はマタイ福音書5〜7章を読んだだけでもイエス様と向かい合ってお話ししているようで、落ち着きます。

さて、先の例話はクリスチャン的には太陽を上らせるのも、雨をふらすのも天の父なる神様なんだから、感謝して 天のお父さまが二人の娘とその家族の祝福してくださるように祈ろう、といった感じになるのでしょうか。

でも、連休や週末にはあまり降って欲しくないな、でも雨は必要だから、山とか、平日の夜に降って欲しいなと個人的には思ってしまいます。


9月1日(水)防災の日 

今日は防災の日です。1923年9月1日に相模湾などを震源とした巨大地震が発生、死者14万8000人を記録した関東大震災を契機に昭和35年に制定された日だそうです。 そうでなくとも1995年の阪神大震災を記憶にとどめておられる方々、またいまだに苦しんでおられる方も多いと思います。 あらかじめ来ると分かっている台風では水や食料品、懐中電灯を買いに行くことができますが、ほとんどの地震は突然来ますので本当に日々の備えが必要ということですね。

地震に関する聖書箇所は多いのですが、私にとって最も印象的な聖書箇所は歴代誌下7章14節です。

歴代誌下 7章14節

わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、 祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、 わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。

日本聖書協会 旧約聖書 口語訳

阪神大震災のちょうど一年前の1994年1月17日、アメリカはカリフォルニアでM6.8のノースリッジ地震が発生しました。 そして、その後、上の聖書箇所がハイウェイからよく見えるところに掲げられているのだそうです。

クリスチャンにとって偶然ということはありません。すべてのことに神様の計画があると考えます。 地震、特に震災を引き起こすような地震もまた単なる自然現象ではなく、神様の深いご計画があるのでしょう。 そのご計画を知ることは私たちにとってなかなか難しいです。 でも、日々の祈りと神様の御言葉である聖書を読むことによって神様のご計画、神様の御旨を知ることができます。

クリスチャンでは無い方々、聖書を読んでみませんか?
クリスチャンの方々、たとえ教会から離れていても神様はあなたと共におられます。 聖書を読み、祈りましょう。
教会から離れているクリスチャンの方々、聖書を読み、祈ることは一人では難しいでしょう。 共に聖書を読み、祈る時間を持ちませんか?






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