国鉄詩人通信219号(2004年12月20日) 初出
同誌220号(2005年3月15日)に掲載の補遺を含み、図版も追加した。
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歴史と「書かれたもの」


 前号(国鉄詩人通信218号2004年9月1日「『プランゲ文庫』の国鉄詩人連盟」)では、敗戦直後の占領軍による検閲のために提出された出版物がアメリカでプランゲ文庫として保存され、そのうち雑誌等がマイクロ化されていて国内でも閲覧できること、その中には国鉄詩人連盟関係の出版物も含まれていることを報告した。
 今号では、確認したその資料に基づき、国鉄詩人連盟の機関誌であった、「国鉄詩人」及び「詩人連盟」の1946年から48年までの検閲実態を紹介する。さらに、この占領軍による検閲について約二十年前に書かれた江藤淳氏の著作に見られる思考様式の不十分性についても考察する。
 またこれらの調査過程で判明した国鉄詩人連盟関係資料の散逸状況を皆さんにお知らせし、連盟の資料を整理保存するための提案を述べたい。
 なお、以下に引用したプランゲ文庫のマイクロフィッシュ(雑誌)はすべて国立国会図書館憲政資料室収蔵のものである。*1

「国鉄詩人」の検閲

 1945年8月の日本降伏以前からアメリカは占領地域における統治技法の検討を進めており、すでに降伏していたイタリア、ドイツと同様日本においても様々な情報の検閲を直ちに開始した。これは新聞はじめすべての出版物、放送、私信、電話に至るまでの広範なもので、誰でも考えつくように、占領への抵抗運動抑止と被占領者の動向を調査して占領政策にフィードバックさせるための施策であった。当時の新聞は次のように伝えていた。(以下朝日新聞縮刷版から引用。見出しと本文要約)

1945年9月8日新聞、ラジオは検閲/武装解除は来月十日迄

新聞、ラジオは検閲を受けることになる模様で、このため特殊の訓練を受けた米軍の検閲班がすでに横浜に到着している*2

1945年9月9日 「もしもし」に御注意/外国向郵便物を米軍が検閲

逓信院では米軍進駐に伴い一般電話の使用に関し米軍当局が通話の内容につき傍聴することあり、また外国向け郵便物についてはその都度検閲を行う故電話使用者および外国向郵便物発送者の注意を喚起している

1945年9月17日 対等感を捨てよ マ元帥 言論統制の具体方針

連合国最高司令部は十日、新聞記事その他報道取扱に関する具体的な指示を通告した。
一、事実に反しまたは公安を害するべき事項を掲載しないこと
二、日本の将来に関する論議は差支えないが、世界の平和愛好国の一員として再出発せんとする国家の努力に悪影響があるが如き論議を掲載しないこと
三、公表せらぜらる連合国軍隊の動静および連合国に対する虚偽の批判又は破壊的批判乃至流言を掲載しないこと
・・・指示の内容は日本に対する言論統制の具体的方針を明確にしたもので一般の言論に対しても同様の規制が行われるものとみられる。

1945年10月6日 東京五紙に事前検閲

聯合軍最高司令部では去る九月十四日以来同盟通信社発行ニュースの事前検閲を実行しているが、新聞通信の事前検閲制度を東京五紙に実施することとなり、五日午前十一時総司令部検閲係長ピータース大尉は朝日(東京)、毎日(東京)、読売報知、日本産業経済および東京新聞の五社編輯局長を招集、来る八日より実施する旨を通達した

 新聞社や出版社のみならず、職場で発行していた文芸誌にまで検閲は行なわれ、大阪で「大鉄詩人」を発行していた乾宏氏も以下のような検閲命令の書面を受け取ることになる。



連合国総司令部、軍情報部総務・民間情報課、民間検閲係第二新聞、写真、放送係

大鉄詩話会(大鉄詩人)殿
連合国最高司令部の日本出版法により貴方出版の雑誌はすべて出版後直ちに二部宛当方に送付することを要する。
書籍を出版せんとする場合は予備検閲のため、印刷出版する迄に棒組校正刷りを二部提出することを要する。
日本出版法は同封してある*3。この指令に従うことは当方により強制されている。
本文書を受領せば直ちにその旨報告せよ。出版物や他の連絡文書は大阪新聞、写真、放送部民間検閲係宛にせよ。
検閲に関し質問があれば当方にされたい。
いかなる出版物に対しても区別なしに検閲する。出版係長アーサー・G・ヘンリー




  これが前号でふれた1995年の国鉄詩人連盟第五十回記念大会で展示された英文書類の翻訳で、今回乾氏から戴いたものである。封筒の消印からみて1947年11月のことである。
1946年2月に創刊された「国鉄詩人」であるが、当時は8ページ立ての月刊であった。岡亮太郎氏の回想(2004.11.27電話による聞取り)によれば検閲経過は以下のようだった。

GHQへの提出は(国鉄詩人連盟の創立をリードした)近藤東氏が提出した方がいいというので決まった。検閲を受けなければならないというより、近藤氏はせっかく(「国鉄詩人」を)出すのだから多くの人に見せたいという意識だったのではないか。有楽町の、名前は忘れたが受付窓口にゲラを提出し、1週間で戻ってくる。完成物を提出して不許可になったら大変だからゲラの段階で出した。

 現在プランゲ文庫で確認できるのは以下の号である。

「国鉄詩人」

1946年3月第2号、4月第3号、5月第4号、6月第5号、7月第6号、9月第7号、10月第8号、1947年1月第11号、2月12号、3月13号、4月14号、5月15号、6月16号、7月17号、1948年5月25号。*4

「詩人連盟」

1948年10月第1号、1949年1月第2号

 プランゲ文庫の雑誌マイクロフィッシュからは次のような検閲過程が分かる。(画像クリックで拡大後、さらに拡大できます)

(図1) 「国鉄詩人」第1巻7号
(1946年9月刊)の検閲印影
  (図2)「国鉄詩人」6号1946年7月 の検閲報告文書   (図3)「国鉄詩人」6号1946年7月 6頁ゲラへの削除(delete)指示 。
印影
   
CCD というのは
「民間検閲部」の略称
  下左欄、違反(占領への抵抗)可能性有りにチェック   取消線が引かれた部分は、刊行時に削除され、交換されたこの頁は二つの作品のみ、隙間が多いレイアウトで掲載された

・「各雑誌の表紙には検閲作業済みのスタンプ(図1)が押してある。
・統一様式の検閲報告文書(図2:時期により様式は変化する)が付属しており、そこには担当した日本人検閲官(ローマ字で記名)により英訳タイトルや目次が手書きで書き込まれ、違反の可能性の有無、有用情報の有無などがチェック欄に記入される。
・違反の可能性のある作品・記事は全文が英訳され、占領軍によるチェックによりOKか削除かが最終決定される。
・削除となった場合、その部分は伏せ字などは許されず、完全に版を組替えて削除しなくてはならない。
・したがって厳密に遂行されれば刊行後には削除箇所は特定できない事になる。
・削除作品の場合あらためて英文タイプで打ち直し、削除理由が添えられていた。
・また別の票で、編集方針への評価を含む出版物の内容分類が行なわれていた。
・編集方針の分類は右翼、中間、左翼、保守的、リベラル、ラジカルの六項目で、『国鉄詩人」は左翼でラジカルの文学と詩の雑誌、という評価だった。
 確認できた限りの「国鉄詩人」と「詩人連盟」において、削除されていたのは一作品のみであった。「国鉄詩人」6号、1946年7月、に掲載予定だった、品川検車区、関賢一郎氏の「復員船」という作品である。(図3)

            復員船
雨のそぼ降る ひぐれの港/けふもまた/復員の船しづかに入る//労苦と悲哀に充ちし/かなしきひとびとをのせて/美しかりし 故郷の山/美しかりし 思出の町/今はただ灰となりはて/求むれどその面影もかなしからん//正しきと教えられ行き/はからざりし帰りしひとの/眼に入るは 荒廃の祖国の姿のみ//首に吊る白布の箱の/――その布も黒くよごれて――/コツコツと もの言ふごとく/音するもまた 侘しからずや//やぶれたり君らが祖国/やぶれたりわれらが祖国//いまは軍旗もなく 銃もなく 剣もなき/悲しきひとびとをむかへ/けふもまた 雨は止まず/夕まけてけぶる港に/復員の船 しづかに帰る
  ※引用注 : /は改行を示す、正字は当用漢字に改めた。

 この五・七調の文語のリズムに対し、検閲は「怒り、感傷に訴えるナショナリズムの宣伝主張」(resentment, sentimental nationalistic propaganda)であるとして削除を命令した。
 岡亮太郎氏は前出電話インタビューで次のように語っている。

検閲されたのは、関氏のものだけだった。本人にも知らせたが、「ああそう」という感じだった。連盟の全員にこのことを知らせたか覚えていないが、国鉄詩人連盟の中で余り問題にもならなかった。アメリカはこういうものが嫌いなんだなという受け止めかたであったように思う。

 実際に削除されたのはこの作品だけだったが、他に、同号での「東京の少年」(運転局車務課、鈴木経明氏)、14号(1947年4月)の「闘争」(岡亮太郎氏)の二作品が違反の恐れ有りとして再チェックに回され、結局OKとなっていた。前者は戦災で孤児になった少年が作者に語りかけているという設定による戦争被害の語りであり、後者は闘争委員会でラジカルとして発言してきた作者が家庭に帰り、不満を言う妻を置いて幼子を抱き外に出て、明日はぎりぎり決着の交渉をやるんだという決意に、星空に高く持ち上げられた幼子の笑い声が重なった、という作品である。米軍による都市無差別爆撃による被害の訴えが占領軍(米軍)に対して引き起こす反発の可能性と、労働組合運動の過激化への危惧として、検閲は反応したのだろう。

敗戦のくぐり抜け方 (検閲の受け止め方をめぐって)

私自身27年間国鉄詩人連盟にいて、この検閲のことを具体的に聞くのは今回が初めてだった。(*補1)同時に幾分か奇妙な感じにも囚われた。あまりにも検閲に対してあっさりとしすぎているように思えたからだ。戦時中までの言論への弾圧は直接身体拘束に及ぶものであったから、こんな程度のものは「屁でもない」という現実主義に基づく対応であったのだろうか。あるいは、それまでの人生では未経験であった、発言し人々にそれを伝える自由、というものは結局自ら勝ちとったものではなく、どこかに書かれたものに過ぎず、体感できてはいなかった、ということなのだろうか。
一方、この検閲について一般向けに書かれた、江藤淳著『閉ざされた言語空間・・・占領軍の検閲と戦後日本』*5 という本がある。これはアメリカの研究所に招聘されて行なったプランゲ文庫を含む一次資料の調査に基づく成果なのだが、江藤氏は岡氏の感想とは逆に、次のように熱烈に主張している。

通説によれば、日本は敗戦・占領と同時に連合軍から「言論の自由」を与えられたことになっている。しかし実際には占領開始直後から通信社や新聞社への一時的な業務停止命令も検閲もあり、その時期を境に占領下の日本の新聞、雑誌の論調に一大転換が起こった。(8〜9頁)
日本が受諾したポツダム宣言第十項が、合衆国憲法修正第一条の規定と等しい、言論、宗教及思想の自由、並びに基本的人権の尊重の確立を規定している以上、検閲はそれと真正面から対立し、矛盾撞着せざるを得ない。この矛盾を解決するためには統合参謀本部の命令通りに民間検閲を実施し、しかも検閲の存在自体を秘匿し続ける以外にない。占領期間を通じて、民間検閲支隊(CCD)をはじめとする占領軍検閲機関の存在が秘匿されつづけ、検閲への言及が厳禁された根本原因は、この矛盾の構造そのものの中に潜んでいた。(151〜152頁)
占領軍の検閲方針の意図は古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的な価値体系の、徹底的な組替えであった。(241頁)戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画(261頁)は、たとえば大東亜戦争を太平洋戦争という用語と入れ替えることで歴史記述のパラダイムの組み替えを行ない、(268頁)「日本の軍国主義者」と「国民」という対立を仮構することで、実際には日本と連合国、特に米国との闘いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」との間の闘いにすり替えようとした。この言論検閲が戦後日本の言語空間を拘束し続けて来た。(347頁)日本人は自らの思惟を拘束し、条件付けている言語空間のこのような真の意味を知ることなしには、とうてい自由にものを考えることはできない。云々(368頁) *傍線は引用者

 今日のいわゆる「歴史修正主義者」=「日本」は悪くなかった論者、に繋がる思考様式である。しかしながら今回の調査とこの本の内容を照合すると基本的なところで江藤氏の論理には現実との不整合があるようだ。彼は占領軍検閲機関の存在が秘匿されつづけ、検閲への言及が厳禁された、と述べるのだが、それは、「アメリカは本来行なってはならない検閲を行なった、だから、検閲機関を秘匿せざるを得なかった、はずだ」、という理屈から導いた構成であって、実際の状況への分析から導いた結論ではないようだ。なぜなら、先に引用したように、新聞は検閲が始まることを報じ、それ以降の自らの記事は(それまでの内務省や軍の規制力から)、今度は占領軍の規制下に入る事を宣言しているわけだし、江藤氏自身もその記事(1945年10月6日朝日)ばかりでなく(同書p211)、「『対等感を捨てよ』 マ元帥 言論統制の具体方針 」という1945年9月17日の朝日新聞記事も参照しており(同書p176注24)、新聞はその後も占領軍の意向に従って、次のように検閲関係記事を掲載しているからだ

(以下朝日新聞の記事見出し)
1945年11月9日 言論暢達阻害せず、マッカーサー司令部新聞検閲方針表明
1946年1月31日 未検閲映画の上映を禁止
1947年6月 6日 検閲の緩和を考慮、ボールドウィン氏談
1948年4月 8日 米著作品検閲せず マッカーサー元帥 総司令部
1948年4月15日 新聞も事後検閲へ 総司令部
1948年7月16日 新聞の事前検閲廃止
          
*参考:GHQ検閲期に朝日新聞が掲載した検閲関係記事一覧

 また、検閲の証拠品としてプランゲ文庫に残された職場での文芸誌、労組青年部機関誌なども、密かに集められたのではなく、今回の聞取りでも分かるように、末端にまで行き渡る占領軍の命令により、出版者である「一般市民」が自ら提出したものなのである。こうした点から見れば検閲の存在は公然であったばかりでなく、むしろ、被占領者に見せつけるものであった、と言うしかないのではないか*6。こうした敗戦後の状況の中で、(当時十二歳だった江藤氏には経験としては無いのだろうが)、常識的な成人であれば、占領下のマスメディアが報じるのは(どの記事のどこが削除されたか分からなくても)占領政策に沿った内容でしかない、という前提で生活するはずである。*7
 江藤氏で作動している思考様式がこのように空想的な、不可解な結論に至ってしまうのは、彼の分析が、現実の力関係、権力関係の分析ではなく、表現された空間内における登場者の行為・言説といった字面こそが現実の世界であるという逆転した前提の下で遂行されているからだと思われる。(「平和のために」と言って殺人すればそれは平和を願う行為であったということだ。) 言い換えれば、言葉を発するという行動を含む過程総体を分析するのではなく、すでに発せられた「言葉の平面上」でのみ理論を組み立てようとしているからだと思える。
 彼の論理構築の重要な技法に、「敵」(である連合軍)のこの行為は彼らが承認した何々の条文に違反する、故に、(「敵」に対峙するものとしての)「自ら」(すなわち、連合軍に対応するものとしての「日本」)が救済される、というパターンがある。
この様式は、@文面主義とでも言うべき形式主義であり、また、A「自己」が「敵」あるいは「相手」との一対性に固着することによってのみ成立しているために、「自己」「主体」はその内部構成要素を持たない、という意味でも形式主義である。
 文面、すなわち記号的な構成が世界であるという主張は日常生活でおなじみのものではある。非正規雇用者の労働相談にかかわることの多い地域労組の一員としての私は、たとえば次のような言説と対峙する。「これは有期雇用の期間満了であって解雇ではない。双方が捺印した契約文書に雇用期限は明確に書いてあり、君もそれに納得しているはずだ!」 しかし、納得できない労働者はそこに虚偽を見いだす。「すでに一回行なわれた更新の後、有休の請求やサービス残業への賃金支払を上司に訴えた事と関係がある、私を雇い止めしながら別に同じ仕事で求人を出している。」 団交において争点は、経営者側の「契約書」を盾にとった形式論に対して、労働者側は微細な具体性を重ねて実態を論証し、これは労働者の正当な要求を嫌悪した解雇であり、不当であることを主張する。俗な言葉で言えば、形式対実態の闘いである*8。実際、金も威力もない我々が形式論を打ち破り勝利できるのは、「形式」は現実の力関係のイチジクの葉にすぎず、また、現実においてなにが不当かという社会的な判断水準を我々が(我々の先達が)闘いにおいて作り上げて来たからなのである。重要なのは法の文面ではなく判例だ、と言われるのはそれ故である。補2
 このような観点から見て、江藤氏の思考様式や、憲法9条の戦争放棄条項を無効化する「憲法改悪」のための戦術の一端として、新しい人権を保障するには憲法に書き込まなくてはならないから「憲法改正」が必要だ、などという現在行なわれている主張は、この形式主義における主張であり、それらの主張は、たとえば今現実に損なわれている人権をどのように実現するのか、敗戦後いかなる日本を我々が構成すべきなのか、という現実的課題にはまったく答えることができず、逃亡するのみである。ただ、文章が新たに存在すれば世界は変わるという空想的な主張になってしまっている。これは、この形式主義の思考によって生成される「自己」が内部構成要素を持てないという原理から来る限界である。
 この様式では「自己」は外的な「相手」との一対においてしか主体として成立しない。江藤氏が戦前の「日本」における検閲や言論の自由などについて語ることができないということと、先に引用した、――実際には日本と米国との闘いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」との間の闘いにすり替えようとした――などという主張とは一体であり、「日本」という輪郭の前に思考の足はすくんでしまい、「日本」の中におけるたとえば、経営者と労働者とか、年収1000万円の会社員と年収200万円にも満たぬパート、男と女などの、現実世界を構成している差異とその間の闘争について眼をふさぎ、ただひたすら「外部」との対面において「集団的一体感」「自己」励起の至福に淫し続けてしまっているからである。これでは歴史的、具体的な人権とか自由とかについて語るべき言葉の分節は生成できない。
 しかし、私はこのような思考を非難するものではない。どのような場合にも、すでに自らを成立させている思考様式から出発するしかないのであるから、この江藤氏や「日本は悪いことなんかしてこなかったもん」論者たちの思考に寄り添い、その中のベクトルをのばし、それによってその思考が内在的に遷移できるような技術を発明してみせることが、同胞である彼らへの挨拶であり、また自らを豊富化する唯一の道である。
すでにそのひとつの技術として、「外部」からの視線によって輪郭づけられる限りでの「日本」、という「自己」=「我々」の輪郭にのみ留まるのではなく、その愛すべき一体感をさらに延長強化し、自身の同胞たる「日本」=「我々」がいかに現実に幸福になれるかを考えるためにその「日本」の内部構成・問題に目を見開いていくことを提起した。すなわち、北朝鮮への経済制裁や、実際には自らの生活物資の多くを備給している中国という国への嫌悪を主張する思考に対して、自らの足下を、すなわち、リストラへの不安や、正社員になれぬ将来への不安やを見つめ、その解決に努力し、「日本」を実際に変革する勇気を持つことを提起した。我々はその勇気を持ち得ない時に、「外部」との対比での「集団的一体感」に陶酔してしまうのではないか。あるいは、「日本」国内の人々の差異によって経済的利益を得ている者たちこそが、(雇用の非正規化によって利益を得ている者たちは誰か?)、自らのその経済的位置を保持し続けたいがために、その差異を永続化させるために、その差異に人々が目を向けないように、「外部」を利用した「日本」の一体性を唱え続けているのではないか。
 もうひとつの技術は「自己」=「我々」の所属位置変換による思考展開という方法である。君が代を起立して歌わない教員を処分せよと息巻いている思考には、(自身が敵と見なす)北朝鮮や中国に「自己」を移行させて思考実験を試みることを勧めたい。その地で、彼らの「自己」は北朝鮮国歌を歌わない教員に処分をせよと叫ぶのであるか? もしそう叫ぶのならそれは、北朝鮮政府に反対していた日本生活時の「自己」と矛盾するが、すべてのその時々のいかなる権威にも服従する、という無内容な形式主義的な行動原理において「一貫性」を保持していることにはなる。したがって日本における彼らの行動もそのような形式主義として理解され、嘲笑に曝されることになるが、恥の概念が無い者たちの場合には、何の矜持もないので、「それぞれの国にはそれぞれの歴史認識がある、その多様性を認めよう、郷に入っては郷に従え」、位のことは言い出しかねない。ならば、なぜ個人の思考の多様性は認めず、国家間の多様性のみが認められるのか、問いは続くだろう。それに答えられなくてはならない。
 もし、北朝鮮政府への異議を貫徹し、国歌など自らも歌わないと言うのなら、「国民は国歌を歌わなくてはならない」などという形式論を捨て、その国歌の歌詞や歴史によって各人は判断すべきだと主張したのであるから、今後彼は日本国内に於いても君が代を起立して歌わない者に処分はできない。
 「国家」=「日本」というものがどうしても「自己」=「我々」の存在規定として乗り越えられない、と訴えるのであれば、率直に小中学生の理科の授業に立ち戻り、四〇数億年前の地球誕生から、いずれ推定されている太陽系の消滅までの中に、歴史を置き、「自分たち」とはそのような者であるという理解を、受験のための知識ではなく、自身への規定として適用することによって相対化は可能ではないか、と勧めたい。

アーカイブスとしての国鉄詩人連盟

 江藤氏の思考様式への私の違和感は、文面主義という形式論、あるいは、自身の足下から逃避して、彼の場合は「国家」=「日本」=「我々という一体感」に立て籠もってしまうことに対するものであった。ここでようやく、機関誌「国鉄詩人」への検閲に対する国鉄詩人連盟の対応に感じた淡泊さに立ち戻ることができる。江藤氏とは反対のこの態度も、江藤氏と同様、敗戦というものを自らのものとして考えられず、敗戦の時、これからいかなる国家を自分たちが構築すべきかについて、ある形式性(たとえば「働く者」の世界観、というような)、しか打ち立ててはいなかった、ということの一側面ではなかったか? では、この仮定から少し展開してみよう。
@これは詩人連盟が、というより、「言論の自由」や「女性参政権」や「国民主権」や「基本的人権」やらが、自らの闘争によってではなく、敗戦によって「転がり込んで来てしまった」ことによる非切実性、字面としてしかそれらが理解されない、という「日本」の一般的特性ではないのか。
A一九七二年に私が国鉄の駅に就職した時、戦時中は勤労奉仕をしていた世代の先輩たちからは、敗戦の瞬間、軍や工場の物資を、上司に言われて彼らの家まで何度も運んだ話をよく聞かされた。これとまったく同じ話は多くの本の中の回想でも読まされた。また、捕虜になった日本軍人は、戦友がそれによって危険にさらされるかもしれないような情報までぺらぺらと話してしまう、という事も読んだ。要するに、残念ながら戦時中までは、形式的な威力によってのみ「国家」「国民」として束ねられていただけだったために、敗戦直後も自らは公共的な身体として行動できず、公共物の私物化に走ってしまったのであろう。
B問題は、現在に至るも、そのことは変わっていないように見えることだ。イラクで人質になった人々への「自己責任論」は、国家への帰属意識を強調する者たちが、単に他者への恐喝や私利のために利用できるものとしてしか「国家」を考えていないこと、我々が構築するものとして「国家」を考えていないことを暴露した。
C韓国の若い労働運動指導者たちの話を聞くと、軍政を自らの手で倒した韓国社会と、敗戦によって「民主主義」を頂いた日本社会ではまったくメンタリティに差がある、劣等感を感じてしまう、日本では戦前の体制も自ら裁くことができず、そういう闘争は無かったのだ。
D何よりもダメな「日本」、過去をゆがめてしか自らを誇れないこの国、・・・・。
 君もそう思うだろうか。 しかし、これらの意見・感想はおそらくみな間違っている、少なくとも、みな不十分だ。
 本当に我々は足元を見ているのだろうか、形式化された用語で自らについて語っているだけではないのか。
 足元を見るということ、それはたとえば職場の女性差別と闘い、多くの判例を連綿と勝ちとってきた無名の人々の人生を知ること、たとえば古いストライキの映像の中に自らの職場の先輩を見いだすこと、我々の「無力」を繰り返し説明してくれるテレビや新聞の言説を離れ、人々が歴史の中で書き記した言葉そのものを甦らすこと、新聞の小さな判決記事の向うに偉大な勇気と連帯を見いだすこと、職場の理不尽に抗議の声を上げた無名性の、その美と力を讃えること ・・・。
 そのような人生の断面にこそ、そのような闘争にこそ「我々」という名前は与えるべきではないのか。「我々」は闘い続けてきたのである。
間もなく結成六十年にならんとする国鉄詩人連盟は、二百数十号の機関誌、百冊近い詩集を積み上げてきた。今回、私はプランゲ文庫に収められた戦後間もない時期の機関誌と、『国鉄詩人連盟十年史』などごく僅かを足早に覗き込んだにすぎない。しかし、書くという行為の蓄積は、時間を圧縮し、あるいは直列的な時間の流れをバラバラにし、新しい視界と感覚を読む者に生み出すように感じた。すでに現在八十歳を越えた方が二十代で父について書いた作品があった、五十年前、山間のバス車掌の乗務の一瞬をとらえた美しい作品があった、国鉄の、あるいはその退職後の、日々の、歴史の中で生み出された言葉の集積が、確かにそこにあった。書き続けたということにおいて、また集団で続けたということにおいて、一つの職場というものを媒介としていたということにおいて、この蓄積された作品群は、歴史の一次資料的な位置を持ち、そこから様々なものを導き出せるアーカイブス(記録庫)として価値を持ち続けるだろう。
 そして、そこから何が取り出せるかは無限の可能性に開かれたままだ。ただ、この、自らの媒体を持続させてきたということ自体に、すでに、マスメディアとの「闘争主体」を私は見いだす。
我々が足元を見ることのために、 流布される形式化された「国鉄職員」と「庶民」の像を破壊するために 、歴史の中で書かれた言葉の直接性である国鉄詩人連盟の作品群は保存されるべきである、その価値がある、そう私は信ずる。


  

  機関誌寄贈のお願い
 さて、今回、「国鉄詩人連盟」関係資料の国立国会図書館における収蔵状況も調査した。結果は残念なものだった。
とりあえず機関誌について言うと、国会図書館のデータベースでの「国鉄詩人」に関する情報は、 所蔵事項85号(1970.5)〜 欠号情報177号 となっていたが、実際には85号以降多数の欠号があった。すでに遠藤恒吉氏より欠号分の内91冊もの寄贈を頂き、現在の欠号は35冊である。このうち35号までは4頁ないし8頁のパンフ形式だと思われる。
 そこで私は、読者の方でこれらの号をお持ちの方に寄贈をお願いしたいと思っている。遠藤氏の分と合わせて整理した後、国会図書館に寄贈したい。国会図書館の雑誌担当箇所からは各地方の詩話会発行物も受け入れる旨お返事は戴いている。
ぜひご協力頂ければと思う。
(ご連絡くだされば詳細をご案内します。)

※「国鉄詩人」の欠号(通巻で表示)

1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,30,32,34,35,74,131,159 以上各号

※「詩人連盟」の欠号は第3号のみ

 なお、詩人連盟で企画した個人詩集、RPシリーズについては第一次シリーズからすべて収蔵されていることが分かったが、詩人別に現在国会図書館に収蔵されている詩集を一覧にし、漏れている詩集は寄贈を依頼することを次号で計画している。

 

(了)


*1 ちなみに、マイクロフィッシュは紙へのコピーも可能である。前号でお知らせしたホームページで資料名を確認して心当たりのあった方、あるいは当時発行していた「このような雑誌について収蔵されているか確認したい」という方はご連絡頂ければ、調査後コピーの入手方法についてご案内します。

*2 もちろん占領前には当時の日本政府による検閲があった。
まだ連合軍が「本土進駐」する前の一九四五年八月二一日の朝日新聞は次のような記事を載せている。
信書の検閲停止/流言蜚語防止に自戒
戦争終結後の国民生活明朗化の畏き思召を拝した逓信院では
陛下の思召に副い奉るべく大東亜戦争勃発の二箇月間前、即ち昭和一六年十月三日以来実施してきた緊急勅令臨時郵便取締令による信書の検閲を即時停止することとなり、二十日朝全国に指令した、右に関連して逓信当局は二十日次の如き当局談を発表した
天皇陛下の有難き思召によって信書の検閲は二十日全国に指令を出し、即時停止することとなったので一般国民生活もこれによって一段と明朗化すると思う,然し検閲が停止されたからとて流言蜚語をとばすことは国内を混乱させ社会秩序を棄すことになるから、各自は特に現下の時局を冷静に認識して自戒し、国家機密を洩らしたり流言蜚語をとばしたりせぬよう特に注意していただきたい

 何事も「陛下の有難き思し召し」に帰してしまうこの文体からは、敗北を切実には受け止めていない、死者たちには見向きもしていない不気味な無責任さが感じられる。
 帝国政府による検閲実績については「戦時新聞検閲資料15巻」 現代史料出版1997、「内務省新聞記事差止資料集成13巻」 日本図書センター 1996 (国際検察局押収重要文書) 等があるようである。

*3
日本出版法については、「閉ざされた言語空間」江藤淳著 文春文庫 193頁に翻訳文が掲載されている。

*4
『国鉄詩人』は1946年2月東鉄詩話会の機関誌として創刊、6月に「国鉄詩人連盟」が発足し、5号からは連盟の中央機関紙となり、1948年6月までほぼ月刊で通巻26号まで発行してきたが、8頁パンフ型だったためまとまった詩論も発表できないことから、伊藤信吉氏の援助を得て詩誌『詩人連盟』(64頁)を季刊で発行することにして、休刊した。しかし伊藤氏の好意で発行していた『詩人連盟は』3号で続刊不能になり、1949年7月に『国鉄詩人』は復刊した。・・・以上は『国鉄詩人連盟十年史』1959による。

*5
1982年から雑誌『諸君!』に連載 、1989年単行本、1994年、文春文庫所収

*6
具体的にどこの部分でどんな言葉が削除されたのかは確かに「秘匿」されているが、どんな検閲も「削除」・「加筆」といった検閲者による「変更」であり、その「変更前」を見えないものにするものである以上、そのような意味でなら、古今東西のすべての検閲は「秘匿」の別名に他ならなくなる。

*7
これはちょうど、それまでの新聞が帝国政府の政策に沿った内容でしかなかったのと同じように、また、現在の新聞会社や放送会社がその広告収入確保と自らの経営維持のために、様々な規制力とのゲームの中で日々の言葉を散布し続けているのと同じように、である。

*8
「形式」とは、それへの分析を拒絶することにした「諸分節」、による構成のことであり、「実質」とは、常にいかなる分析もそこに導き入れあらゆる方向へ展開可能な空間のことである。

*補1
この検閲については近藤東氏が既に1957年に語っていた。
 「『国鉄詩人』の創期」  「国鉄詩人」 40号 1957年5月 p36〜
  この回想の中で近藤氏は国鉄詩人連盟」組織化の経過について語っているが、この検閲についても以下のように触れている。

CISから削除を命令されてあわてた経験もある。なんでこんなものがと思われるだろうが、当時の占領政策をしのぶよすがとして参考までに収録しておこう。 (--以下削除作品「復員船」の全行引用が続く--)

 なお、この掲載誌は国会図書館へ寄贈するため遠藤恒吉氏(2005年3月死去)から一時お預かりしていた「国鉄詩人」バックナンバー中の1冊である。
  また、「詩の革命をめざして」国鉄詩人連盟 飯塚書店1984刊、p9に「GHQで削除された詩」の項があり、紹介されていた。   

*補2 法一般でもなければ具体的な法でもなく、法解釈の空間にこそ、「政治」としての動態が現れる。「実際に法をつくりだすのは法解釈なのですから、これをひとり判事の手にゆだねておくわけにはいきません。作家が読むべきなのは民法典ではなく、実際の判例集なのです」 G・ドゥルーズ 『記号と事件』 1992 河出書房新社 宮林 寛訳p280 <初出「現代思想」1991.8月号 青土社

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