PostScript なファイルを一つこしらえた。「こしらえた」というだけあって 500MB になった。 そんなに /var/spool/lpd/ が空いてなかったので lpr できず、 lpr -s を使うことになった。 -s(スプールに入れずに印刷) 使ったのは久しぶり。 それはともかく、プリンタの繋がってるマシンだったからいいようなものの、 リモートに 500MB 送るはめになったらどうしよう ...。
最近個人的に評価(estimate)してる python と ruby.
perl と違って行末で文が終わるという事実によって、
どちらにも個人的には問答無用で「使えん」という烙印を押していたりもするが ...
その昔 awk を使ってた時代、BEGIN 節の中で全部書くようになってしまってる事実に気付いて
perl も使うようになってあっという間に perl 一色になったんだけど、
その最大の原動力はなんつーても行末で文が終わらなくなったことだったので、
いまさら行末で文が終わるスクリプト言語で大きいプログラムは書きたくない。
が、逆に one liner としては ';' を打つ手間が省ける利点もあり、
one liner としては awk イマイチなのでその代替として python か ruby ...
ってことなんだけど、どーせどっちも algol の血をひく同族同士、
問題表現能力に大した違いがあるわけでもなかろうと
「なんで幾つもあるんだ」という気分が先に立つのは否めず。
どちらを選ぶことになってもその理由はすんげーくだらないことになりそう
(ごく些細な点で一気に決着がつきそう)な予感があったが、やっぱりどうも
「行列演算パッケージがある(電卓になる)」という程度の理由で Python になりそうである。
TAB によるインデントでブロックを表現する、ってのは昔ちょっと
触った Occam がそうだったが、.... あんまり良い思い出がないんだけど、
読むのには確かに有難かったので、まあ、いいかなあ。
glibc 2.2 の使い心地。
locale が wide char 系含めて定義通りというかマニュアル通り動いている。なかなか感動。
LC_MESSAGES 指定による表示以外に LC_TIME 等などもちゃんと切り替わる。
文字の幅の解釈も正しい。これで内部が unicode なんつうおバカでなければもっと良いのに。
でも sid/unstable というだけあって man がちょっちナンですな。
OUTPUT_CHARSET=euc-jp と指定しないと man で「ただいま整形しています ...」
の表示がバケるのは一見 locale 的にもっともそうだが、
OUTPUT_CHARSET=obaka などとデタラメ指定しても「ただいま整形しています ...」
と「日本語で」出る。
(知らない locale なんだから) デフォルトの C locale になるべきところで
LC_MESSAGES に従ってるらしい。
どーせ LC_MESSAGES の override がかかるなら
OUTPUT_CHARSET 指定なしで動くようにすればいいのに。
『CC さくら』再放送。
今日は #51「さくらと大きなぬいぐるみ」、来週は #57「さくらと小狼とエレベーター」。
#50, #51 と連続したのでちと嫌な予感はあったが、
しっかり飛ばされた未鑑賞の #52 「さくらのひつじ注意報?!」。
52 を含む DVD は 51 〜 54、
「さくらと大きなぬいぐるみ」、
「さくらのひつじ注意報?!」、
「さくらとパニック自転車」、
「さくらと思い出のカレンダー」だから
あんまりもってても嬉しくないんだけどな。
#59 「さくらと知世とボールの罠」のほうもとばされそうな予感があるが、 こちらは飛ばされてもあまり腹は立たない。#58 〜 #61 ときて #61「さくらとカードとプレゼント」 を含むからで、そういう意味でも #52 が飛ばされたのは痛かった。
宮尾岳 『KAZAN』(1) 〜 (5) 少年画報社遥か前に 1 巻だけ読んだことがあった。 次の連載と思しき『並木橋通りアオバ自転車店』を Ours で見て、 「これなら完結してるだろう」と古本屋でまとめて入手 ... 5 巻半ばまできて ヤマに至る雰囲気は見せてるものの完結する様子はなく、「5 巻完結でないのか!?」 と疑ってたらそもそもまだ 5 巻までしかでておらず、完結もしていない。Ours lite に移って連載中 ... ときた、という経緯がある。 しかも 1 冊/年のペースとなにやら FSS なみで、「うぐぅ、だまされた」と思うのも 仕方なしと勘弁してもらうとする。
幼馴染みのエルシィを誘拐され、ついでに村を壊滅させられたカザン(当年 8 才) が はじめてエルシィに繋がる手掛かりを見付け、大陸の反対側まで遠路はるばる ... という話ということになっているが、 ここ 10 年ばかりカザンの本質に変化(成長)がないところからして、 どっちかってーと(その手掛かりの)ゴルディンに向かう途中で カザンに助けられたファーナが主人公的に見える。 こちらを主に粗筋を書き直せば、水を生み出す能力をもつファーナはゴルディンに向かう途中で 人買いに襲われかけ、カザンに助けられた。カザンを連れてファーナは ゴルディンに向かうが、ゴルディン側にもファーナに来て欲しくない勢力があるらしい ... という感じになるか。
この『KAZAN』の話の終わり方として ファーナとエルシィが同一人物か否かってのがけっこう問題で、 ファーナの出自はけっこう明らかになっているが明らかになっている年代 (12 〜 14 才以降?) はエルシィがカザンの村にいた時代 ( 〜 8 才) と重なっておらず、 ぎりぎりで同一人物説を否定しない。
別人だとするとエルシィが救いだされ、
その過程で崩壊すると予測されるゴルディン国を前にして主人公ファーナの処遇に困る :-)
ので同一人物であるべきだが、
エルシィとファーナではエルシィのほうが人物として桁違いに格が上なので
「ゴルディンの教育制度(or ファーナの義父母)ってノウナシぃ」
ってことになってしまい、それはそれで問題がある ...
ここでファーナにエルシィの記憶が無いくらい
問題のうちには入らない。
ンなもん、エルシィに水の力を埋め込む細工だか手術だかでもした時にそのショックで ...
とでもいくらでも理由は付けられる。
完全に人格が異なればむしろ問題は少なかったが、
この二人どうも啖呵のきりかたなど気質が良く似ているので
「劣化」が思い浮かんできてしまうのがやっかいだ。
いや、ファーナも正しく主人公をこなすていどにはいい性格してるし
ついでに十分にかわいいんだけど、
で、ファーナの語る出自からすると両親の教育も十分以上なんだけど、
でもこれがあのエルシィの育った姿だとするとやっぱり幾らかの幻滅が入る。
それは決してファーナの責任でも罪でもないが ...
で、ファーナエルシィ同一人物説を回避しつつ
ラストでのファーナの筋を綺麗に取りまとめるため、用意されたのが
アルビー婆さんエルシィ同一人物説である。無茶苦茶である :-)
時の流れの矛盾位、この話ではどうということもないので掲げるだけは掲げてみたが、
あのエルシィがアルビー....?
と思うだけで夜うなされそうだったので可及的速やかに思考停止したけど。
時の流れといえば、カザン幽霊説、ってのもある。 10 年ばかり成長を止めて同じ思考でグルグルしてるんなら幽霊以外あるまい、って奴。 もちろん『KAZAN』という話を見事にブチ壊しにするような説だが、 エルシィがゴルディンから救いだされたあげく誰に救われたのかを聞いて 「え? カザンって 3 年前に死んだって ...」とでもつぶやいてカザンが自分の死を自覚して 呆然とすればエルシィがファーナと別人でも話を終えるのに困るまい :-)
来月の 6 巻ではゴルディンの崩壊が描かれるはずであり、 7 巻がエルシィの件。そしてこれが最終巻だろう、ってことで 6 巻で エルシィの伏線が張られる前に記す。
「カザン。逢えたら ... いっぱい、いっぱい話したい事があったんだけど ...自分のつくり出した洪水に飲みこまれてカザンと離れ離れになり、 半年後、ゴルディン対岸の街でカザンと再会したファーナのセリフ。 飲みこまれてバラバラになった洪水を反省すべきものだったかどうかは (ファーナは反省してるし、『KAZAN』での作者の主張として そういうあたりにあるんだろうけど) 実は良く分からない。
後にするよ」
それはともかく、ンなとこで 5 巻切るなよ、とか、こういうセリフ言わせておいて なおエルシィとファーナが別人ではもはや話を宥める空間がないんでないのかな。 とはいえ、基本的に伏線ネタの使い方は非常に素直な作者だから、きっと エルシィとファーナは同じ人間なんだろう。
昨夜あたりから Debian potato なシステムを調整していて、
potato/stable の modutils が古すぎる
(既に 2.3.19 以上でないと動かないシステムになってる) という
ところからはじまって順繰りに upgrade していったら woody/testing
を突き抜けて sid/unstable にまで来てしまった。
dpkg -i
と直叩きすることが多かったので Debian の pool システム移行で「ファイルがないぞ」
とかまあひっかかったところはいろいろあるんだが、...
woody/testing と sid/unstable の区別があることを知らなくて、
「XFree86 4.0.x がどこ探してもないんですが」状態に暫く陥っていたりして。
3.3.6 ですめば話は簡単だったんだけど
woody の 3.3.6 (まだ potato 由来) は glibc 2.2.1
と組むとコンパイルが通らんモノが出て来たので
libX11 は XFree86 4.0.x のにしないといけないらしく。
で、その 4.0.2 はといえば、
dists/woody/binary-i386/{libs|x11}/ に無いし、
まさかと dists/sid/ を覗けば空 (ディレクトリが無い)だし、
そのへんうろつくと何時の間にか新しいのは pool/ 下に移っていて
「pool システムでも apt は使えるよ」と Debian 本家は宣うものの
woody な設定で apt-get しても pool に入ってた 4.0.2 を見付けずに
woody/binary-i386/x11/ 下の 3.3.6 を拾いにいくので apt-get 自身の upgrade
が必要かといえばそういうわけでもない
( apt-get せずにさっさと dpkg 直叩きして入れた奴 ...)。
「実は woody/Packages には 4.0.x は入ってない (sid/Packages に入ってる)」って、 woody 使う時は暗黙のうちに sid も /etc/apt/sources.list に入れておくもんなのか? 確かに sid を /etc/apt/sources.list に加えておいたら 4.0.2 が install されるようになったけど。
さて、 ここからが本題。woody ... というか sid に来てしまったところでちょろちょろ遊んでたら locale が効いてない。
glibc 2.2 に入って wide char 系の locale はマトモになった *そうだ*、 という程度のことしか知らないが、woody ならまだしも sid で wide char 系がちゃんと動いてるのかどーか定かでなく、 "woody", "locale" あたりで適当に当たったが、 locale-ja が obsolete になって以後、日本語が使えてないよ〜とかあんまり 面白いのは当たってこない。しかも当然のように使えている人達も居るらしい。 その場(Debian-jp ML だったかな) の議論に上がっているのが /usr/lib/locale/ だが、 自分とこのを見ればほとんど空で、locale database の大部分は /usr/share/locale/ にある。 libc 2.2 の中を strings で覗いてみると どちらかというと /usr/share/locale/ にアクセスしてる雰囲気なので、 「/usr/share/locale/ に移ったのかしらん」 と思いつつ適当に setlocale するプログラム書いて strace すると ちゃんと /usr/lib/locale/ をアクセスしていた。 「/usr/lib/locale/ → /usr/share/locale/ の移行途上という奴か?」 と思いつつ両者を ln -sf して重ねてもうまく動かない。 strace で追うとそもそもこの両者、入ってるものの質が異なる。 share/locale のほうは message catalogue しか無く、share/locale 側のアクセスに入る前に徹底的に lib/locale で locale の存在を検査している。
どうやら lib/locale は glibc と一緒に作られたか置かれたかした locales (って何?) のソースから locale 作らないといけないらしい、 ってのはつまり、lib/locale にあるのはバイナリファイルなので 何か作るプログラムがあるんだろう、きっと。
locales_*.deb を alien で開いて中を覗くと usr/sbin/locale-gen という なんとなくそれらしいものがあった。動かすと ISO8859 だかなんだかのを一つだけ作る。 ja_JP あたりのソースらしきものも locales_*.deb に付属してたので「ケチ ...」 と思いながら、usr/sbin/locale-gen の中を追うと /etc/locale.gen から作るべき locale の名前を拾っていた。 というわけで、/etc/locale-gen の中の ja_JP を uncomment して、無事 /usr/lib/locale/ja_JP.eucjp が出来た。
無事解決して良かったねですめば話のネタになるはずもなく ... 一段落したところで "locale-gen" で検索してみると この件でハマってた人が一杯ひっかかってきた。 しかもそのうちの幾つかはこの件でハマってる最中に "locale" の検索でひっかけて既に読んでいた (((^^;;
「最初は無かったけど ja_JP を uncomment して locale-gen したらおっけー」なる一文はそこら中にあり、ついでに、apt-get install locales すると「ぜんぶ作ると 30MB にもなるのでデフォルトでは作らないよ。 必要なら /etc/locale.gen いじって locale-gen しなさいね」 という文面も確かに出てくる。
.... "locale" で探査してた間は locale-gen なんつう馴染みも へったくれもない keyword にまったく目が止まらなかったらしい (せめて /etc/locales.def とか /etc/locale.conf とか ...)。 検索システムは本当に知らないことは教えてくれないもんなんだな。
ついでだけど。potato から woody になるところで locale-ja パッケージが無くなり、 locale.gen を手でいじらないといけなくなった。ある意味、退化している。 これが諸悪の根源なんだから、woody 用の locale-ja (中身は /etc/locale.gen の ja を uncomment して locale-gen する script だけ) でも用意していただけると嬉しかった。
位置がずれてるのでなく box そのものが狂ってるということなので、 これを直すには graphics package の中をいじるのが正しく、
「なんでこれが問題視されてねぇんだ? 縦組 TeX で図を入れる奴って皆無なのか?」とぶつくさ言いつつ中を覗いて 1 分で挫折した(をい)。
「横組で graphics package 使えばええやん」eps なんだから TeX にとってはヨコとかタテとか関係ないわな。 もし 90 度傾くようなら TeX の外側で rotate してしまってもいい。 ワク空けるだけのことだから、横組の枠を一つ作れば、 その枠は縦組 TeX 自身が正しく配置する。で、その横組の枠の中に置く graphics はもちろん(横組組版の中に置かれたものだから)正しく配置される:
ってな感じ。で、そのつもりで縦組 TeX の入門書見たら、..... 藤田氏ってそーいやぁ化学屋さんでしたか。 当然のように自然に横な図を縦組の文章の中に挿入していた。 最初から自然と解決されている。 どうかすると問題の存在そのものに気付かん(その必要がないの)だろう。\parbox<y>{10cm}{ \includegraphics[width=10cm]{file.eps} }
問題の取り扱いに関する先入観というものと、TeX 縦組の問題の根深さと、 という話でした。まる。
もっとも、2000 年 12 月にカウンタ設置してまだ十幾つと とても企業ページのカウンタとは思えず、ユーザー層のほうは まだしっかり伝統工芸的雰囲気を残しているんだろうと思う ... と偏見は維持されたままである(をいをい)。
ところで、その包丁屋さん家から目的の包丁を探したが、無い。 洋包丁の霞流しが近い雰囲気だが、もう鍛いてないのかなあ。
『犬夜叉』 #? 「タタリモッケと小さな悪霊」 ... だったかな。
掌編として期待の星だった話。いまひとつ尺の使い方にリズムが無かったような感じだが、
タタリモッケの笛の音が綺麗だったからといいことにする。
笛の音はもちろん原作には無いが、それふくめてきっちり話と仕上っていた。
.... 話のリズムはイマイチだったけど。タタリモッケの解説を 2 度やってもいいけど、
やるんだったら煩く感じないようにしてくれい。
『セーラームーン』
最近の CG 画像エフェクトなアニメに違和感のない連中というものが存在しうるんだな、
と思いし。... つまり、『セーラームーン』のような、
ベタ髪、彩色もどうかすると筆跡がありそうな塗り平面の古い表現について
「アニメとはそーゆーもん」という時代があったわけである。
90 年代の輪郭線の細い、髪の風になびく表現ができるようになったところから
デジタル彩色への流れに慣れた目からすると絵の表現力にすこし不満を感じる、
それを逆にして CG 絵をみれば、そういうエフェクトこみでなにごとかを表現するような、
そしてそれを当然視する連中が出て来るということになる ...
が、まあ、まだエフェクトに奥行きがない(たとえば波状にブラす時、
物体の距離に応じてそのブレ方が変わるといったことをせず、
2 次元画像の上のエフェクトになってる)ので
違和感が先に立つのは正しいと思うけど:-)
本題にもどって今回の話の中身はあまりに恥ずいもんだったので感度を思いっきり下げた結果、
見るとこがなくなっていた ... スポ根?
一人ずつ戦力が削られていくのは
遠征する側としては出来るだけ避けたいんじゃないかと思うが、
ってことは防御側の戦略としてはかなり正しいと思うが、
... けっこう多いよねぇ。「ここは私に任せて先に進め」っての。
防御側の陣の敷き方を考えれば、
攻撃側の布陣や論理にかかわらず、誰か(しかも大半)を素通りさせるはずがないと思う ....
『おじゃ魔女どれみ♯』
みいふぁぷーだかなんだかを一度見て、
それの流れとみてたので未鑑賞だった(ちと辛かったので)。
... ぜんぜん関係なかった。あうぅ。面白かった。
デジタル彩色も落ち着いたもんで。
眼の位置を下げて大きめにしたデフォルメの強い絵は ... 「マホTai」あたりの流れ?
ぜんたいにやや説明が煩い(べつに復唱せんでも)が、対象年齢からするとこんなもんか。
ざっと過去の粗筋を google で当たったが、 今回表現された世界観は全体の 1 割にも満たない小さな 部分だったことが判明。うぐぅ。まあ、おかげで人物描写の区別してないとこが さほど障害にならなかったわけだが ...
ところで、魔法でハナの病気を治すことはでけん ... というとこでの 代替策の提案に繋がるあたりの詰めがすこし甘い。 誰一人帰ってきたことのない、呪いの森だかなんだかに 4 人も送りこむくらいなら 禁忌やぶって魔法でハナの病気を治してしまったほうが結果的に安上がり&安全という 可能性があるので、 「危険? でも魔法で病気を治すよかマシよ」的なコメントを女王様に言わせて (ボケもツッコミも揃ってんだし)潰しておかんといけないところ。 ここで葛藤(比較)を挟まないから 後半に入って話の流れに奥行きがなくなった。
それにしても、このハナの声優の演技凄いな。泣いて咳してるだけなんだが、..... ちゃんと赤ん坊の咳に聞こえる。
... と、半分くらい他人事だが、実際他人事だった。
雪の有り無しにかかわらず昨日から外に出てない(出られなかった)から ...。
Linux kernel 2.0.39 登場(Jan. 10)。
... 2.0.38 から 1 年半、2.2.x はおろか 2.4.0
も正式リリース(Jan. 5)された今頃になって。
当然のように誰にも気付いてもらえなかったものの、
ようやく、たま〜に「出てるね」程度ながらその辺の ML で話に出てくるようになった。
ほぼ完成された 2.0.36 以降は 2.0.37, 2.0.38 とセキュリティ対策だけだったが 2.0.39 は
2.4 あたりからのドライババックポートをいくらか含むようである。
2.0 使ってんのはもはや特殊な理由のある人達だけだろうに、
なにもわざわざ 2.4 で汚染しなくてもいいと思う。
汚染されるくらいなら素直に 2.4 使うし。
ちなみに、「ふ、まさかな」と思いつつチェックした 1.2 系列だが、 さすがにこちらは 1.2.13 (Aug, 1995) で開発が終わっていた。
Linux ftpd をターゲットにしたワームが猛威。
... ftpd は外向きに開けてないからどーでもいいや、ってのが本題ではなくて、
「ほほー」と思いながら周辺を徘徊したときに出て来る出て来る「OpenBSD を除く」
という枕言葉。さすがである。
Sound card を ISA (CS4235) → PCI (emu10k1) して PnP が狂わなくなったのはいいんだけど、.... emu10k1 のドライバ、kernel 2.2.18 付属のも Creative 本家のもけっこう瞬断があるなぁ。 X の screen を切替えるとか、ネスケの back button を押した瞬間とかで mpg123 が一瞬途切れる。nice にマイナス指定してもロクに改善しなかった。 こりゃ割り込みハンドラ内で自前のバッファほとんど持ってないな?
ってとこで、今後のこともあったので alsa driver を入れた。
元ネタ同じつうに、こっちのほうが遥かに出来が良い。
瞬断きれいさっぱりなくなった。音質?
ここまでくると区別がつくほど上等なアンプ&スピーカー繋いどらん。
ちなみに、alsaconf で指定したバッファサイズは「0」である。 いや、幾つ指定したらいいのかよくわからんかったから ... 自動確保してるのかハンドラの出来が良いのかどーなのか 0 でもなぜか瞬断はない。なんでかは知らない。 知らなくても困ることはないだろう、たぶん。
しかぁし! ... line入力は動いてんのに録音できねーぞ。なんでやねん(OSS, ALSA とも)。
ところで、ALSA は /dev/dsp などについて audio group 以外からの読み書きを禁止する。 others に読み書きを許可していた OSS より厳しい。 Sound device を扱うプログラムは順繰りに chown root.audio, chmod 2751 化する必要があった。 これが意外にめんどくさかった。 何が sound device にアクセスするかなんて覚えてねーもん。 これって、ほんとはコンソール握ってる奴に許可するのが正道かな? remote で音鳴らしてもしょうがないってことで。
年平均気温がある年まで同じだったとする。ある年から、 毎年、過去10年の年平均気温の平均から 1 度づつ平均気温が上昇していったとする。現実の世界では気象庁は「過去10年の平均気温」は 10 年に一度しか改訂しないそーだが、 ここでは毎年更新するものとして。そうしてみても問題としてはごく易しい。 紙と鉛筆を使ってまず 10分とはかからない問題だろうけど、 昼飯ん時にでた話なので「暗算で」概算するものとする。
── 10 年後には、もともとの気温から何度上昇しているか?
概算なんで「10 度」とでも即答したければしてもいいけど 能無し呼ばわりされることは間違いない :-) ってことで、 もすこしマジメに解こうとして ... 1, 2 分考えて潰れました。はい。
1 年目の様子を記憶したままで 2 年目の計算をしなければいけないわけで、
3 年目あたりからワヤになる。
第一感で 1.3 度位だろうってんで様子を見ようとしたんだけど、
ぎりぎりで感触をつかむとこまでいかなかった。うぐぅ。
紙も鉛筆も要らないので電車ん中での暇潰しにでもどーぞ、ってことで。
『地球少女アルジュナ』#2 「青い光」
今期の本命と目されるも #2 が初見。時間が早いのと、
『ポケモンアンコール』が後ろにくる関係で録画設定に迷ってるうちに初回は見逃した。
激しい動きの透過光 CG 全開で、よくテレ東チェック通ったな。 内容はというと .... 喋り口と人物絵が なんとなく宮崎アニメを彷彿とさせたが、内容的にも宮崎アニメかもしんない。 CG のぶんまわし方も『もののけ姫』だし。
でも。ある意味けっこう度胸のある内容だなとは思ったけど、 べつにストーリー的にも人物描写的にも見るとこなかった、ような気がする。 鑑賞法がよくわからんかった。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」論補足。
東京新聞にもすこし大きい枠で出てた。
ま、それはともかく、こういう時に感情論や道徳論で押すのは考えるだけ無駄だと思う。
そのテの方針は最初から同意してる奴とかそれを受け入れる準備ができてる奴と
「そうだよねぇ」と同意を確認することはできても、
受け入れる用意のない奴を説得するには足りない。
こういうことがデフォルトでの道徳になってないのだから、
モデルとしては外国でのマナー
(生得でないが無意識のレベルでも従わないといけないルール)
の取り扱いと同じに考えるべきで、
つまり、由来とルールの存在理由を教えて論理的に納得させる方向で
ものごとを進めるのが正しいと思う。
それさえ頭に入ってれば、 問われても動揺するほどのことはないと思うんだがな。 欧米人あたりから クリスマス祝って正月にお参りに出かけることを不思議がられてると思えば 本質的に無邪気で素朴な質問である。
それと、基本的に生徒とゆーものは意地の悪い質問をするものであり、 このていどを何気なく凌ぐ位の即応力がないことには教壇に立つ資格はないぞ。 そーゆー質問を綺麗に受け止めてみせて はじめてそれなりの敬意を払うもんである。
ちょい前にふと立ち寄った
録画亭で
月イチのアニメ投票してたので
先月分について投票しておいた。
もちろん『CC さくら』。
で、昨日だか今日だかに結果が出ていた。
僅差で『CC さくら』の一位、12 人抜き。
よしよし。.... まあ 12 人も抜ける位置に居たってことを考えないことにして。
この録画亭、
その月の出来不出来をかなり敏感に反映してる雰囲気。過去に遡って見ても面白かった。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」続論。
ここで「死」というものを「嫌悪すべきもの」という形で直接扱い、
ここから他人の生を尊重することを導こうとする流儀があるらしい。
ほとんど原始宗教。いかになんでも遡りすぎだろう。
.... 「なぜ人を殺してはいけないのか」ということを定義づけようとする
今の哲学ないし法学が「死」に対する感情を直接基にして造られてるはずなかろうが ...
人類の資産というものをナメてないか?
他人の死についてなにごとかを想像する必要はない。相互契約論で十分である。
非対称性 ... 他人を殺してもよいが、自分を殺されてはならない、 というトコに重心をおくものもあるらしい。思惟と行動のレベルの混乱。 もともと「他人を殺してもよい」と考えることは禁止されていない。 このことは「自分が殺されてはならない」と考えることと同等に扱うことができるが、 「他人を殺す」と行動に出る場合は、 同等に扱われるのは「自分が殺される」ことである。 これは「自分が殺されてはならない」と本人がいかに切望しようと(それは思想の自由だ)、 「殺されない」ことの担保にはならない。 何事も思うだけなら自由でありタダである。これは契約よりも優先するけれど、 この範囲を逸脱すればあとは単なる相互契約の問題に落ちる。
自分が十分に強い場合、他者を殺すことができる(殺されないだけの力がある)
とする論点もあるらしい。これは対国家との契約論の入口になり、話のレイヤが少し変わる。
ある人間が常に契約を守らないことのよる不利益が薄い場合、
周囲の人間は彼によって著しい不利益を被る。これを支えるためには周囲もまた、
彼と同等程度に強くならなければならない(強くなれないやつが悪いという考え方)。
これの考え方に基づく社会というものも存在しえる。
そもそも自然界の相当な広範囲に渡ってみられる考え方だ。
しかしこれは一般にその彼を含む集団の利益を最高にしない。
相互に自衛するために労力を食われるからで、
そうなると集団の外側にある連中との競争に負ける心配が出てくる。
これは集団に含まれる個人の生存のための利益にならない。
本人は弱くても周囲に対して生存のための相互契約を守らせようとする権力を
本人に直接由来しないところに用意することによって、
各人の相互に自衛するための労力を省略しようという対国家の契約が生まれる。
各人は自衛するための労力を省略するという利益を得、
国家にとっては、国力を妙なところ(相互の自衛)に割かずにすむようになり、
国家の外側に対してより強い力を有することになる。
契約によってその両者が利益を得た。
したがって、現代の社会では確かに本人が十分に強い場合には他者を殺しても
おそらくは周囲の人間によって直接殺されることはない可能性が高い。
周囲の人間は自分を強めることを部分的に放棄しているから、当然だ。
そのかわり、国家によって周囲の人間が保護される。....
生存のための相互契約を放棄した当人を隔離ないし殺してしまうという形で。
国家が人を殺す権利は天から降ってきたわけではない。
各個人が自分の利益を守るための努力を省略しようという対国家との契約の一部である。
この契約は一般にその国に居住するという権利もコミになっているので、
対国家との契約を放棄したうえでその国に滞在しつづけることはできない。
かくして国家のうちにある人間はその生存を国家によって保障されることになる
... と書いてみたがこの上の 4 パラグラフを読む奴がいたら見てみたいぞ(をいをい)。
少なくとも私なら読まない :-) 読む労力のわりに得るものは少なそうだし。
国家との契約を部分的に放棄した社会というものを考えてみたことはある。
つまり、日本の刑法による保護はうけるが日本の商法の保護は受けない、
アメリカの商法による契約や保護を受けたい、etc. etc.
日本の全ての法でワンセットというのはいかにも選択の幅が狭いので、
せっかくいろんな国といろんな法思想があるんだし、
もすこし取捨選択できたらいいなと思う訳だけど、
特に日本のようなトコではなかなかうまくいくような形がつくれそうにない。
すべての法でワンセットになるように組み上がってるためで、
取捨選択を許せるようには個別の法が自己完結していない。
ついでに、目の前にいる人物がどこの近代刑法の保護をうけてるのか一目瞭然でないわけで、 そういう社会形態に慣れてるのはヨーロッパの人達位なもんだろう。
ちなみに自分の意志によって 個々人がそれぞれ保護されるべき法体系が変えられる社会を描いた (扱った、というレベルだと知らない ...)小説ってものある。 とりあえず ... ハインライン『未知の地平線』だったかな。 いかにも彼の好きそうなテーマってことで。
大爆笑させていただいた。この程度の問いに答えられないような連中が 雁首つきあわせて何事か教育について研究してるつもりになってるというのが。
高校生にもなって こんなもんを問うってあたりもけっこう恥ずい (そのへんの哲学ないし法学系の入門書には大概かいてあるんでないかい。 いかに本読んでないかの証拠みたいなもんだぞ) と思うが、 答えられないようなのが教壇につったって指導してるんであれば そらこう問いかけたくなるものも無理はないし、 かなり適切な問いだったとも言える ... のかねぇ :-)
最初に。 「国家の殺人も許すべきではないのではないか?」という議論が存在し、 かつかなり強い声である以上、 質問者の「国家の殺人は許されるのに、個人のそれは ...」 という論の立て方そのものが成立しない。ってことでまず論の足は払っておく。
殺してはいけないのか ── という本筋。最初にすることはもちろん
「殺していいことにしていいのか?」と問い返すことになる。... こういう問いをするくらいだし、もちろん "yes" と答えが返ってくるはずだから、 質問者さんにはすなおに殺されていただくのが面倒がなくていいなあ、 とふつーは思うわけで、いいかえるとこれをちゃんと論じればしまい。 社会契約論風に書いてみれば、 要は「殺してはいけない」というルールがあるわけではない。 これは演繹の結果であり、 ルールとしては「殺されないことを相互に保証する」という形が本義、 と答えて本文は終わる。
で、ここから 「殺されないことを相互に保証する」というルールが存在する意義が分からん、 という方向に話を進めるのか、それとも このルールから「殺してはいけない」という結論を見出す流れが分からんのか、 で論じる内容は二つに分かれ、 ついでに、 特殊な場合(緊急避難や報復)にこのルールが弱められることがある理由について 論じるべきなのかどうか、ってことでもひとつ話がある。 殺されないことを相互に保証する「ことができるのか」、て問題もありそうだが これは単なる技術論だから今は関係がない(できるようにするのが国家のお仕事)。
殺されないことを相互に保証する契約をもってしても、殺されることはありえる。
契約を守らないバカはどこにでもいるからだ。
この場合、契約を守らない奴は結局は利益を得ることがない(刑罰をうける)
ということが契約遵守圧力になるが、この圧力は必ずしも国家という権力を必要としない。
契約を守らないような奴と何かの契約を結ぶ奴はいない。最低限、担保を余計に取るだろう。
これは結局、契約を守らなかった奴の不利益になる。
他人との契約によってなにがしかの利益を得たければ、
他人の利益も守らねばならない。これが本筋の背景っしょ?
べつに国家という概念はでてこない。死刑論は純粋に別の話。
てゆーかさー、相互不可侵の契約って
人間様の特許じゃねーぞ。
ほとんどすべての生物がこれを守ってんだから、
この基盤に「国家」のような人工的な概念がでてくるはずはない。
... もちろん自分が生存したいと質問者が思う場合にしか、この論点は成立しない。 自殺したい奴が他人を巻き込むことの是非はまた別に論じられることになるが、 .... そーゆー話がしたいわけでもなかろ。
ここからただちに「特殊な場合(緊急避難や報復)」に 「他人を殺すな」という一文が見た目変化する理由も明らかになる。 ルールは長期に渡って自分が生存するのに有利になるための契約なんだから、 「殺されないことを相互に保証する」という契約の本筋を 危うくするような(歪んだ)形では、 (ルールから演繹で導かれた二次的な) 「他人を殺すな」という一文の立場が弱くなるのは当然のことである ── 演繹の小前提が変わるんだから。
ついでにいえば、私的報復による殺人の禁止は
本筋の人対人の相互契約でなく、対国家との契約に由来し、
緊急避難による殺人に至ってはさらに高度な概念である
(ここまでくると人間様以外では存在しなくなると思う)。
「殺されるかもしれないことの防御のために殺してもいい」
という論理をいくらつみかさねようと、
「殺されないことを相互に保証する」という本筋への反論になりはしない。
「殺してはいけない」という形で直接扱おうとするから、
レベルが違うものをごっちゃしちゃってわけわかんなくなるんだろう。
本日 EVA SS 階層 21 万通過。なんもしてへんな ...
Internet Magazine 誌 1 月号だったか、CATV vs ADSL の比較が出てたが、 確かにテレホタイム前後からストンと (単一サイトへの) 速度が落ちてきて、 ほぼ ADSL とコンパラになる、回線速度の上がり下がりが激しい ... ようにみえるが、 相手サイトの混雑と手元の回線が塞がってくることの複合要因であって、 手元の回線が塞がってるわけではないのは 空いてるサイトにむけて ftp かけると 1 Mbps 位どうにでもなることから分かる。
この IM 誌の CATV な人(大原氏だっけ)、東急つかってんだけど、
みごとに 3Mbps で止まってる図を描いていてなんで「上限設定がない (max 10Mbps 出る)」
と思うんだろう。ふつー max 3Mbps と読むとこでないかい。
体感するかぎりでは 1 つのセッションで max 3Mbps, 全セッション計で 4Mbps,
というのが東急ケーブルモデムの性向つうか癖つうか設定のようで、
つまりモデムのほうで 4Mbps、ハブの NAT のほうで 3Mbps の shaper が掛かってる雰囲気
... センターのほうは単に NAT の能力限界かもしんないが。
ところで、本日 NTT 東日本から「Flet's ISDN の工事の希望日のメールちょうだい」 な封筒 (email があることわかっててなぜそこで封筒 ...) が届いた。 まことにもうしわけないがつつしんでおことわりもうしあげるメールを送った。 予定に組み込まれたのは先月 19 日だから、 よくもわるくも NTT 東日本なお仕事ペース。
UPS 購入。
三菱の
FW-F10-0.5K
で、シャットダウン信号のプロトコルが open になってるってとこに惹かれて。
つーか、
せっかく linux/FreeBSD な自動シャットダウンスクリプトのソース用意してくれてんだし、
そーゆートコは少しなりと支援してやらんと、という話。
で、2 台の UPS に分散していた atropos 周辺 をすべてこの FW-F10-0.5K の下に入れ、あぶれた APC の BF250J を suezo に回す。 これで全てのマシンが UPS の保護に入った。 もっとも、もひとつ(ノーブランドな UPS) は est, プリンタ、スキャナを保護してるふりをしているが、 max で軽く 1000W を越えようかというプリンタ + スキャナの大電流に耐える UPS であるはずもなく、まあ、わりとどーでもいい (つーか UPS 外せよ ... 恐いだろうが)。
サンケン、 USA なノーブランド、APC、三菱と使って来たが、 やっぱり日本製は良いなあと思うことしきり。
こういう本質とは必ずしも関係ないとこまで妙に神経が回ってる :-)
というのがいかにも日本製(サンケンも同傾向だった) で、
USA の「(割り切っちゃったのを)理解はできます。でも納得はしません」な造りと好対照。
UPS みたいなクリティカルなトコでこういう心理的不整合は困るので、
日本製は良いなという結論に至る。
もっとも、妙なトコで抜けてて、
この三菱 F シリーズってばサージ対策が入ってないんとちゃうかな。
ノーブランドな奴ですら入ってたんだけども。
「さすが『CC さくら』」と連想がそっちに行ってしまったことよ。 不意打ちの連想だったんで、はにゃ〜んとしかかるのが止められなかった。 男の子のほうでは「翔」だそーだが、..... まさか『ガオガイガー』... なわけない(をい)。
アニメだけとっても「さくら」の名は サクラ大戦、ベターマンなど他にもいろいろあったわけで、 ... まあでも『CC さくら』でしょうねぇ :-) 『CC さくら』のさくらから連想される成分に負のものがないってのがともかく強い ── ということもなく、言われるまで気付かなかった (さくらの性格に押し切られて気付かなかった)が けっこうな問題点がさくらの環境に一つある ... のは明日にでも書くけど、 それはともかくとして、いかに流行ったつうても 「あすか」とか「れい」とか「しんじ」とか名付けるのは度胸が要りそうだってことで。
ところで、コメントにあった「自然回帰がどーこー」だけど、 まあ、付けた直接はアニメからだろうけど、その元ネタ自身は「自然回帰がどーこー」 だったりするとすれば、いちおうコメントも正当性がある ... のかなあ。 「木之本桜」で確かに自然回帰のベタネタと言っていえないことはなく。
昨日の話。そういや、書き忘れてたけど今は Debian 使ってるわけではない。 中断中で slackware の旧システム使ってる。 potato 移行は 3 度目の挑戦 (1 度目は dselect でダウン、2 度目は mule のrebuild でダウン .... 3 度目は freetype の設定でダウンになるか?) だが、 細かいハンドリングの移行がやっぱ難物。
atropos の Debian potato 移行録、その 1.
ふつー NULL の置き換えなんて恐くて出来んと思う。 もちろん NULL の定義衝突できっちりコケてた。#define NULL(x) (XFASTINT (x) == XFASTINT (Qnil))
つづいて 。gtk、alsa の make test と称して xkanon 拾ってきてこいつを make する過程で
pppd の設定はしておらず、ってとこでアサヒネット方面に出てくる元気はなかった。 まだ X の font, freetype, gs, それに lpd のフィルタと印刷関連のヤマが残っている。 インストールだけなら瞬時だが、 ASCII と JIS X 0208 の ascent/descent の差の調整やら、行間の調整やら、 細かいトコで神経食いまくりなのでもすこし精神的に余裕がないと作業できない。
ALSA の設定も未だ半ばで OSS 使ってるやつはともかく ALSA 系のが音がでない。
現時点で dpkg -l | wc すると 250 ほどパッケージが入っているそうだ。 100 パッケージほどで完結した parteno では気にしなかったが、 250 で道半ばだとすると dpkg -l の表示はもちょい整理してくんないと見辛い ... ってことでなんか確かあたらしいパッケージシステムが開発途上だったか?
ところで、アサヒの webpage は電話で直接繋いで ftp で put する。 Internet 経由では書き換えられない。 ppxp の設定に挫折してるくらいだし、 geocities.com か geocities.co.jp に日記(not 日誌)移そうかしらん。 自分でも久しく見にいってないけど、まだあるよな ... と行ってみたら一応あったし。
「不思議な転校生」は再鑑賞に耐える出来でもなかったので、 かわりに(再放送なしになってしまった 2 部の)「ふらふら熱曜日」を ひっぱりだしてきて観た。面白かった。やせてもかれてもさすがミラー 3 部作。
エアカーが走りまわり、曲線デザインの高層ビルが立ち並び、 身体にタイトな、そして光沢のあったりする服を着た人がたくさん居て、 月に定期便が飛び、ラグランジュポイントにはドーナツ型の宇宙ステーションが浮かぶ ──
『火の鳥』未来編、J.P. ホーガンの三部作、その他にある技術進歩の停滞 ... というには確かに PC メモリの値段などの低下は止まっておらず、速度的な問題ではない。
作品論。小説を読む時の姿勢の変化も、最近ある種の変化があった。 書く ── ということをはじめた時に起きた変化につぐ規模のものだ。 聞く耳もたない間はほんとうにまったく理解できないものだ、 ということを久しぶりに実感した、ともいえる。
そんなことを思いながら、風呂ん中で年を越した。考えることは一杯あった。
というところで、最後になったけど、...