ES2000 のオマケでついてきた「読んdeココ」という OCR ソフトを est につっこんで使ってみた。 「読んdeココ」は(スキャナと連動しなくても)自立して動くにもかかわらず、 スキャナ(TWAIN)ドライバ なしではメニューが動かないという仕様(だかバグだか) に頭をひねった。スキャナ繋ってない est にはドライバ入れてなかったし。 まあ、それはいいとして、適当に A4 2 ページ(10pt 2600 文字、5.3kB ほど) のワープロ原稿の縦組プリントアウトを 400dpi 8bit grayscale で吸い上げてから適当に前処理して読ませたところ、 誤字が 15 個あった。認識率 99.4% という数字は もちろん過保護なデータってことはあるにせよ想像より遙かに良かった。 誤字の性質も案外良い。
誤字は "一" の字が余計に入るというケースがいちばん多く(字送り制御ミスですな)、 次いで "・" や "." の位置ミスかな。"、" の認識は正確だけど "。" の認識は "○" とかと時々間違う。漢字が複数ある熟語のたぐいは問題ないが、 漢字一文字 + 送りがなタイプでは稀にミスる、というとこ。
後処理(誤字修正)に手間食われるのはともかく、 前処理(スキャニングの露出&ガンマ補正やらスムーシング、エンハンスやら...) にけっこう手間がかかるので 同一条件の原稿が複数ないとペイし辛いが、けっこうイケるかもしんない。 ちなみに「読んdeココ」自身は 2 値画像専用になってて、 よーするに前処理は「自力でやってね(はあと)」って意味だろう。 grayscale 画像から 文字の anti aliasing を外すフィルタくらいオマケに付属してくれてもバチはあたらんと思う。
それにしても、多忙でちょっとよそ見してるあいだに 自分家のメールサーバがコケてるとはおもわなんだ。 流量が極端に減ったのを不審に思って手で動作確認してみれば、 メールを受け取るだけ受け取ってそのまま闇の中へ、という動作をしている。 これだけだと蒼くなるどこではすまなかったと思うが、 なぜかアサヒのサーバ上のメールを消さない動作に変わってたので とりあえず「蒼くなる」程度ですんだ。
アサヒのメールサーバ(御丁寧にアサヒネット自製)は わりと最新 RFC に追従する傾向にあり、微妙な仕様変更が時々ある。 今回もこれにひっかかったらしく、手持ちの popclient ではメールが取れなくなった (ついでにサーバ上のメールが消せなくなった?)。 (popclient 後継の) fetchmail は裏で sendmail が走っていなければならず、 /var/spool/mqueue に直送できる popclient より使い辛いんだけどなぁ。
ちょろちょろと周りを徘徊してきたら「EVA の全テキストどっかにないか〜?」 と尋ねまわってる方あり。 .... ごく自明のこととして、 そんな重度に著作権侵害なサイトがもし現存したとしても おおっぴらに紹介できる筈はないのである ...。
ちなみに、そういうページは 打ち込みやった某氏のサイトと、そのコピーサイトと、かつて(少なくとも) 2 つあった。 26 話 + 劇場版、ついでに video 化した時の差分とけっこう充実していた。 かれこれあわせて 1 MB くらいか。 そしてアニメの著作権に関するガイドラインがそこらで課題にあがる直前くらいに 本家サイトは閉鎖されている。 コピーサイトのほうは暫くのこってたけども、fj.rec.animation で おもいっきり叩かれまくってたので さすがにもう存在しないだろう ... つーか、今みてきたら無かった。
というわけで、underground なトコでもないかぎり web には落ちてないだろうと思う。
「この話ってば主人公が人間でないのかぁ、などと思った ... が、ぜんぜん違った。途中から読むからそんなことになる。 内容的にはそのへんのふつーのファンタジーで、特に言うこともないように思う。
誰もそんなこと言ってくれなかったぞ、なかなかやるな > 富士見ファンタジア」
馬に化けさせられるなら馬王子になりそーだが、卵王子ってことは 何にでも化けられる卵、くらいの意味でもあるのか?
どっちもほとんどムリじゃねーかなぁ、と思うに、 良く考えたら警察の仕事より難しいのだな。 実世界で別人で暮らすことができるわけだし、多重人格的なものもありえるわけだし。 「Internet を経由しない方法で連絡をとることが可」とした時点で Internet の技術的な問題とはほとんど関係ないや。
『CC さくら』
さくらカード編がそのまま繋がるのですねぇ。良いことです。
かの「笑顔なし OP」にはちょっち異議ありかも〜
それだけの内心からの圧力あるいは気力がなきゃ笑い続けることなんでできない。
複雑な感情そのほかを手に入れたうえで、
笑うだけの気力を維持するようなテーマが欲しかった。
『メダロット』
同じように同じような問題を扱っても切口でいろいろと描きようがあるものだ、
と感心した回。
ヴィクトルって単なるラスボスではなかったのですね
... アンチテーゼを掲げる役だったとわ。
ヒカルが要となった回だけど、役の重要さのわりに声優に力がなかったな。
脚本屋が悪いんじゃないか?
「だめだイッキ君! それでは 8 年前の私の二の舞になってしまうぞっ」レアメダルをもつメダロットを破壊することなしには魔の 10 日間の再現になってしまう。 ヒカルは自分のメダルを破壊するまで 10 日の逡巡があった。 「メタビーは暴走しない」というイッキの言い分は聞けないし、 そう思うからこそ魔の 10 日間が再現する可能性は高い。
『さくら大戦』
アイリス主役の回が続く(訳ではない、前回は紅蘭ってことになってたわけで)
とゆーあたりに贔屓がみえる。
肝心の今話は西洋東洋の文化ギャップをそう使いますかぁ、みたいな回。
わらわかせてもらいました。はい。
マリアさん少し説明がくどいかな。
アイリスの表情とアヤメさんの語りで力押しすべき回だったと思う。
藤田眞作 『pLaTeX 2e 入門・縦横文書術』 Peason Education Japan.購入 ..... したけど LaTeX 製版の縦書きってすっげー気色悪い .... 横組のソースを縦に(縦書きの本文と並行に)配列してるせいか。
「pLaTeX は縦組に対応している」ことになっているが、
実用上の問題点に触れているものは少ない。
通常の横組文書で当然とされるようなことが、
特に TeX 系でこそ当然とすべきことの多くが縦組では通用しない。
たとえば基本的なとこで "A, B" と ASCII で当然のように表記するが、
これを縦組でプリントアウトするとなかなか笑える。
アルファベットを縦にする方法はあれど、ダブルクォートが寝たままだし、
コンマの寝方もヘンだ。TeX にあるまじきことに(!) “A、B” と JIS X 0208
で表記したほうが格段にマシな結果が得られる。
ちなみにダブルクォートを縦組向けにしたダブルミニュートは
標準の p(La)TeX では表記する方法がない(たぶん)。
横組では頭一つ抜きん出る TeX だけど、縦組では並のソフトである。
そういうコトの補助用に買ったんだけど、あんまり役に立たんかも。 奥村晴彦氏程度とはいわんから、もすこし表現に拘ってほしい ... ちなみに 奥村氏特製の style files も縦組は無視してくれるはフォントサイズの調整を mag でやってくれるはと今一つ使い辛かったりする。
「そーいや」と気付いて white さん家に行ったら Progressive 向けの縦組 style file があった。.... が、こちらも紙形の調整とルビ傍点のカスタマイズくらいかな。 よくは見てないけど ...
恐ろしい速度でうまっていたディスクを空け、あっちゃこっちゃの ML を読み直す。 ~/ は 300MB ほど空いた ... が、次の瞬間には 200MB を割っていた。 戦列を離脱していた期間がながく、ML はどーも脱落気味。
今週末は Debian 移行のカナメとなる X の glibc2 化の予定。Xlib は libc5 と libc6 との共存が面倒なので、/usr/X11R6/bin/ 以下がほとんど使えなくなる。 その関係でほったらかしになっていた。
駅アナウンス: ── 本日嵯峨野線は物忌みのため下り線を運休します ‥‥
観光客 A: 「‥‥ は?」
駅アナウンス: ── なお、上り線は平常通り運行されています ‥‥
方違えで目的地にまっすぐ向かえないタクシー
(料金は GPS が自動的にはじき出した最短経路のものを適用)、
コンピューター占いもといコンピューター式風水板(?)装備、
なんてのも連想で思いついた。
あの街は古都と先端技術の融合、とかなんとかキャッチフレーズにしてたと思うが、
ちょうどよかろ?
たまにそういうタクシーがあったりしたら観光客にウケそう
.... よおおおっぽど物忌みでもなんでもいいから寝ていたい、思っていたらしい。
とりあえず忙しいのは今日でヤマこえたのであっちゃこっちゃの宿題をカタづけることにしよう。
麻生俊平 『イェマドの後継者』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 9)剣を遼から盗んだ鷺澤啓那が再び徳水市に復讐を挑む。遼は素手で啓那の説得に向かった ──
これまでの集大成と称して実質的には「ノーブルグレイ」の再演かな。
最後の結論がつまらんかったのでラスト 70 pages くらいは見なかったことにするとして、
前半の 400 ページ位は面白かった。
こういう説得に迫力を出すのは遼のような立場をとりつづけてこそだよな。
万里絵の立場からはそういう迫力のある説得はできない。
さて。
「あの時は必死になって止めた遼だけど、今度はどうするのか。 あの時以上に腹を立てているんじゃないの、遼も彼女も」
いっちゃん読みにくかった台詞。遼に啓那が問いかけている内容を (読者に向けて)解説してるってのはいいとして、 よくわからんのがこの台詞によって万里絵が遼に何を伝えたいのか、期待しているのか、というあたり。 その信条によって万里絵にとっての結論は分かり切っている。 ついでに遼がどう判断したら万里絵からみて遼としてありうべき姿なのか、 ということも分かり切っている。 その判断にたどり着くために遼がどう流れをつけるか、ということしか焦点になってないようにみえる。 これって、万里絵も遼をテストしてるようにしか見えないんだけど、いいのかそれって。 佐波木敬が遼をテストしてるのは別にかまわんが ...
それと、結論優先で論理がすこーし歪んでるとこがいくつかある:
「なあ、遼ちゃんよ。もしも、おまえさんが彼女と一緒にいる時、チンピラに襲われたらどうする? まあちゃんは自分で自分の身は守れるからいいかもしんないけど、 そうじゃない普通の彼女だったら? やっぱり自分の主義を通して、剣は抜かないのか?」いや、そういう条件ではこれまでも問答無用で剣を抜いてるんですけど ... これまでも遺産を持ってない人間にしょっちゅう剣先向けてますがな。
そんなとこで、裏次郎をたたく理由で遼が未来の話を持ってきたのは違和感があった。 万里絵も「次は止めない」と言うてたこともあって確かに止めてないが、それってマズかろ。
ラストはつまらんかったし、細かく記すと罵詈雑言しかでてこないよーな気がするので おとなしめに書けば、
たとえば前回のザンヤルマの惨劇だ。.... 無能にすぎるぞ、二代目の剣士ってば。 みごとに「キチガイに刃物」になってる。少数でテストしてうまくいかなかった(100% 死亡!)のを いきなり全体に広げてどういう見通しがあったんだか尋きたいもんだ。もくろみもなにも 大量虐殺そのものだろうが ... 間違っても事故なんかじゃない。 なんでそのていどのことに遼も敬も気づかないんだ。 遼も他人の意識を読むのが苦痛のくせに意識融合の結果が事前に見通せないってのは問題ありすぎ。 どーもラストにむけて急激にバカになってってるので ラストの結論がどんなもんであっても感動も信用もする気になれんのだな。
なにげに佐波木敬に「友達になろう」と遼は云うてるけど、.... おもいっきり殺戮犯なんですけど。もう引き返せるポイントを過ぎてる。 敬ってば、これからどーやって暮らしてくつもり?
麻生俊平 『ファイナルの密使』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 8)大地震の発生を予告するマヤ峰浦。遺産が絡むかどうかもはっきりしないまま、 遼と万里絵は調査を開始した。背後にある市政の腐敗を知った時、二人は ──
佐波木敬が物語中で活躍し始めたため(すげぇ言い方...)か、
話としては面白いとは言い難い部類に入ると思う。
どーみてもシリーズのデザインミスだろう。
ラスボスとしても無能だったからまるまる居なかったことにしてもあまり困らない。
それが
読むに耐えるのはラストに向けて遼と万里絵の価値観の対立を明確にした話だからだろうな。
『トライガン』でバッシュとウルフウッドの衝突を描くようなもので、
もともと感動を呼ぶに決まっている意味がないでもないが ...
逆に言うとそれ以外に見る点はない。
ここで扱われているのは例によって「カルネアデスの舟板」問題(の変形)。
100 万都市の生命を道連れに自殺しようとしている人物がいたとする。
説得工作はまもなくタイムアウト。都市を救うためにその人物を撃ち殺すのは是か非か ...?
雑感から書くと、ようやく逃げ道を塞いだかね... というところか。 鷺澤啓那に徹底した正義があってこそ、遼と万里絵の衝突が意味をもつ。 これまでの話でよくあったように、単なる詐欺師とか殺人者とかだと重みが半減する。 また、万里絵が遼の敵に回るにあたって、 事前に丈太郎とか水緒美を物語の外に追い出してるのは当然とはいえ、気が回っていた。 大人の庇護下にある状況で対立しても単なる子供の喧嘩になってしまう。
解のほうはというと、是非もへったくれもなくさっさと撃ってしまえ、 ってとこになるしかないだろうからそれはどーでもいいとして。 これ、作者も気づいてないみたいだけど ちょっと面白い問題がくっついているのでそれについて一言。
もし万里絵が本当に被害をくい止めることだけを考えるなら、 妨害した遼を撃ち抜く(どーせ死にはしない。数瞬の時間がとれればいい。 殺気がないから剣にも防御できない)くらいのことはしてもよかった ... つーか撃ち抜かなかったとかぶん殴って数秒でも気絶させなかったとかの理由がよくわからない。 回想でも、同じ状況であれば鷺澤を撃って後悔しないだろう、と振り返ってるけど では遼が妨害してる時にそれを排除するために遼を撃つか、という問題が頭に上ってない。 これは遼を排除するにあたって、 鷺澤啓那を撃つのとは異なったルールがあったことを意味する。 つまり、
できることはぜんぶする、といっても最初から無駄だと思ってることは カケラも思いつかないものだし、実際、万里絵は遼の説得を重要視せずに さっさと鷺澤を撃ち殺そうとした訳だ。 じつをいえばそれが問題だ。.... 万里絵には撃ち殺すことでしか鷺澤啓那を止められない。 みんな助かったのは確かに結果論にすぎないけれど、 遼の説得(口でなくて万里絵を止める行動のほう)がなければ全員死んでいた。 頭の切れ、口のうまさで比べものにならないにもかかわらず、 万里絵が説得したとしても鷺澤啓那は説得されなかっただろう (し、もちろんそんなことは万里絵も理解しているだろう)。 唯一の選択肢を選び取った万里絵を身体を張って止めた、それだけのことをしてようやく 鷺澤啓那の想いを否定するだけのベースが手に入る。 そんな僥倖に賭けてみる発想は皆無なんだから、万里絵にこの問題を解くことはできない。
「僕は、別にそんなに正義感の強いほうじゃない。 だけど、大橋や清次郎には、正直、むかついている。何とかしたいと思っている。 でも、それが、僕がザンヤルマの剣を持っているからって理由だったら、 それは間違いなんじゃないだろうか」「間違いなんじゃないだろうか」じゃなくてきっかりすっぱり間違いだけどね。 力を持っているということは力を振るうという選択肢を手に入れることであって、 それを行使しなければならないということではない。 力を持っているからといってそれが使えるところですべて使うという訳にはいかない。 手持ちの時間は有限なんだから、いずれにせよなんらかの取捨選択がある。 その取捨選択に本人の世界観やらポリシーやらが絡んでくるわけだから、 口を挟むには「持っている」という以上の理由が必要だ。
麻生俊平 『モノクロームの残映』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 7)氷澄丈太郎は自らの自由意志で遼と戦うことを宣言した。 しかし TOGO 産業に捕まってなおも遼は氷澄を信じ、 万里絵もまたたった一人で遼の救出に挑む ──
シリーズ最高作。これより前の巻はこの巻を理解するためだけに あるとしてもモンクは言われまい。だいたいタイトルからして気合いがぜんぜん違うぞ。
力の限りをつくし、プライドを曲げることなく、
それでいて発想のしなやかさを失わず、自らなしたことの罪なるを知って
それを受け止めつつも後悔はない。たとえば丈太郎だ。
時計を奪われたとはいっても手持ちの遺産はまだあった。
時計を持っていた時に比べれば格段に力を失ったとはいえ、
相対的にはそのへんの遺産相続人達とは比較にならない戦力を持ったままだ。
「フェアリースノウ」で時計を失ったのなら、
手持ちの戦力の有効利用ということを優先して
まず手近の戦術アドバイザーである万里絵に相談すべきだった。
ザンヤルマの剣を戦力に加えることができればなお良い。
そんなことをするくらいなら TOGO に身を売ったほうがマシというプライドから
「イリーガル」〜「モノクローム」といらん苦労を背負い込む。
よーするに「こいつバカ」と言いたい訳だが、
それを押し通して精神的に復活したあたり格好良かった。
いらん苦労を背負っただけのことはある。裏次郎の期待の水準も高くてよろし。
ちょっとばかし計画に瑕疵があるかと思う点。
矢神遼を痛めつけるって発想はセンスが良いとして、
その内容が少し問題かも。万里絵を痛めつけるのは
確かに遼を痛めつけることになるだろーけど、
腕の一本や二本折る程度ならともかくそれ以上やったら
計画がうまく終わった時に困るんでないかい。
目的にあわせて屋上での戦いにもってくには美山果林の干渉が不可欠だったが、
これは丈太郎の計画にとっては予定外のファクターだろう
(果林の行動を計算に入れるような複雑な計画を立てられる知恵はなかろ)。
もともとの計画ではどういう流れだったんだ?
万里絵に(次巻のジェネラルよろしく)ブンなぐられてやる、
という発想が丈太郎にできるくらいなら
ここまで難しい話にはならなかったはずだし。
本気でなんも考えてなかったりしたらすごく怖いぞ。
氷澄丈太郎最終講義は、まあ、こんなもんでしょう。 「イェマドと同じだろ」という点は このシリーズでの世界観からして予測されてしかるべきもので、 どうこじつけるかってあたりは適当にこなすとして 誰が何時それを発想するかってとこだけが焦点だと思ってたんだけど、 つらつらと考えてみるに丈太郎が一皮むけたタイミングで語る以外ではありえなさそう。 ... 遼にそんな知恵はなく、水緒美が指摘できるくらいなら遺産バラまきはなかったろうし、 裏次郎が自分から語った日にはその瞬間に物語が終わってしまうし、 んー、万里絵が指摘してみる線はありえるのか? んな無駄なことはしそうにないけど。
そして万里絵。
このテの話において、正義の味方(をい)が情報不足に悩むことはあんまりない。
たいていは「特技」と称してわけわからんところから情報を入手していたりする。
万里絵のように一般人のワクから少々はみ出るようなケースではなおさらだから、
情報不足、人手不足、戦力不足、時間不足を嘆くというシーンはそれなりに新鮮だった。
.... まあ、悩ませてもなんとかさせられるという話もあるんだが。
遼に同じこと悩ませた日にはゲームオーヴァーになってしまう
(そーゆー意味でも、なんて便利なアイテムなんだ > 剣)。
朝霞万里絵は説得をいう観念をほとんどもってない。 これまで「説得」するのは常に遼だったし、万里絵にはそれを冷笑する空気さえある (言葉には出してないが「説得は無駄だ」と言いそうになったらしい描写は幾らかある)。 ついでに「オーキス」でのやりとりのように説得のたぐいを禁忌としているフシもある。 本人が他人を動かすトコってな、マクドゥーガル教官にお願いした例しかでてこない。 「自分の力でやる」ってのは つまり「説得」を経由して他人の力をかりることもしないってことだ。 にもかかわらず、戦力不足を認識した瞬間に禁忌が禁忌でなくなる(ということもない、 ルール違反としてあとまで心に懸かってる)ってのが丈太郎と違う点だな。 神田川明を巻き込まずには果林を動かすことができないことは自覚してたんだし、 表面的には巻き込むことに躊躇はなかったんだから、 どこまでも一貫してる。 使える力はすべて使い、しかも それを大したことだとは思ってないってのは 『ファイナルの密使』でジェネラルに語るまでもなくこの巻だけで分かる。
それにしても「神田川明を巻き込んでしまった」という点でしか遼の価値観と接点がない、 ってーのがとんでもないな。最終巻『イェマドの後継者』でも未解決問題になってるし。
「私を信じると言ったな、ヤガミ? ならば、私の言うことに従え。 桝見主任のレクチャーを受けろ。 それができないというなら、おまえは私を信じているのではない。 おまえが勝手に作り上げた私の偶像にしがみついているだけだ」裏切った丈太郎に こういう言い方をされて詰まるってのが遼の信じ方の特徴なんだろうな。 万里絵の信じ方では裏にあるものを計算しつつ表面はあっさりレクチャーを受けそうだ。 自分のすべてを担保としない。はかりにかけられるのは状況判断だけ。 そういう信じ方が受け入れられるかどうかは別として、 それはそれで遼の信じ方よりは非効率なんだからモンク言ってもしかたないような気はする。 閑話休題。 遼の信じ方もね、相手の行動まで担保に入っちゃってるから、変な形で詰まるんだと思うが。
丈太郎からすれば、 丈太郎の目的の中に遼の意志は関係ないから、この文脈では 遼が信じようと信じまいと関係ないってのがすごい。 「信じろ」と言うておいて「信じる」という言葉そのものを信じていない。
「自分の信じたことに殉じて死ねたなら幸せだ ──」
「そんな言葉は生きている人間の傲慢だ!」
このやりとりをどれだけ上回れるか、が人間の格というものなんだろうと思う。 ここで遼は「死んだら意味ないじゃんか」と叫んでる訳だが、 万里絵からその遼を評して曰く「命を粗末にするような生き方はあたしには認められない」 つうてたりもする訳で。何をどこにどれだけ賭けるかってな、そうそう見通せたりはしない。
y:x でもうまいこと表現できてないけれど、
自分の信じたことに殉じるほどに没入できた奴がやはり一番強いんだろうと思う。
万里絵のように「必ず生き延びること」という付帯条件をつければ
精神力や知恵、体力の一部がどうしても生き延びる担保に取られるから、
全身全霊を投入してくる奴にはヤマ場で勝てなくなる ──
もちろん「全身全霊」の使い方を知らないバカを除くとしての話だけど。
万里絵が遼に抱く羨望はそういう不利を理解したうえでの羨望だ。
「そんな言葉は生きている人間の傲慢だ」と語る遼は
(自分の信じたことに殉じて)死ぬという発想を抱くことさえできない人たちの、
(死んだことにではなくて)死んでしまうほどの没入が可能であったということ
に対する敬意が「幸せだ」という一言に込められていることを理解していない。
字義通り死んだことが幸せだ、と言っている訳ではないから、
遼の反論は的の中心を外している。
麻生俊平 『フェアリースノウの狩人』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 5)デパートを潰した遺産の相続人を追っているうちに、 遼達はその相続人にコンタクトをとっている人たちがいることに気付いた ──
ファンタジ〜なタイトルだが表紙の絵にそんな気分は微塵もないし、 中身にもそんなもんはない。詐欺である(きっぱり)。 この巻は「厭なことからは逃れるだけ、忍耐心も、熟慮も、長期の展望も、多面的な考察、 判断も、何も持ち合わせていない」バカの話が主筋のはずだが、 丈太郎と裏次郎の軋轢のほうが迫力があったため少年の話は霞んでみえた。 なにせ少年の話のほうは作者が何の展望も提示してないので、 読んでてあんまりおもしろいとこはない。ありうべき結論にわりとまっすぐつっこむだけ。 TOGOの筑後があっさりあきらめて殺すことにした、ってあたりが作者の気分だろう。 「オーキス」や「フェニックス」に見られたような相続人に対する作者の愛情(同情) を感じない。遼を苦悩に叩きおとす以上の役目が与えられていない。
ラストで遼が直面する哲学的課題についてはいろんな語り口があるが
いずれにしても遼のような思想の手に負えるような問題ではない。
万里絵の思想でも扱う方法がないはずだ。先制攻撃的防御って考え方に中立だから、
「筑後達を殺す」という発想は
筑後達の職業や立場的なものを理由にする観点からはでてこない。
佐波木や丈太郎の論理だと「さっさと殺してしまえ」ってことになるが。
ま、このへんはすでに 6/1 で書いたことだけど。
しかし .... 『ファイナルの密使』までいけばともかく
こういう状況を「辛い」と形容するもんなんかね。人生ナメてないか、それって。
さて。丈太郎と裏次郎の軋轢つうか裏次郎による教育的指導の方はというと:
「もしも、おまえがイェマドの子なら、 イェマドの人間たちのなかで生きたことがあったなら、 少しは自分を高めようという気にもなっただろう。 技術によってもたらされる無限の力のなかで、 なおも自分を高みに押し上げようとしただろう。すぐあとの「環境に流されるだけの人間に人生はない」といい、言いたい放題言うてますな。 「自分の影法師を ...」の下りに至ってはハードすぎて抜き書きする気もしなかった。 出るとこ出れば資質の違いなんぞ意味はなく、あとは心構え次第ってか ... 裏次郎が日々これ鍛錬なのは次巻の『イリーガルの孤影』で明らかになるが、 まあ、言いきるだけの器量はあると。 『モノクロームの残映』で丈太郎の反撃の一太刀受けてなお楽しそうってあたり人間が大きい。 ... 大きすぎて丈太郎がヒネるのも無理ないという ...
俺はした。おまえはしなかった。それが、俺とおまえの人間の格の違いというものだ」
この直後くらいにある(落ち込んだ)丈太郎と万里絵のデートんとこで
反応がない氷澄と見詰め合っていても時間の無駄ってえのがすげぇ言われようで大爆笑させていただいた。 ... 不憫な奴 > 丈太郎
麻生俊平 『イリーガルの孤影』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 6)氷澄丈太郎は行方不明。矢神遼に TOGO 産業の探索の手がのびる時、 背後に氷澄の姿を遼は感じた ──
TOGO産業篇は大人達(裏次郎、丈太郎、水緒美)の物語、 とくに氷澄丈太郎の成長が主筋であることを宣言した巻にして、 各人の問題解決能力の違いをみせつけた話。 状況を的確にコントロールする裏次郎、もがきながらも視線を定める丈太郎、 事態に干渉して軟着陸をめざす水緒美。 同じ筋で話が展開する次巻の『モノクロームの残映』のインパクトが強くて 影が薄くなりがちな今巻だけど、 丈太郎の高らかな自由意志宣言といい、親バカ裏次郎といい、悪くはない。
.... しかしやっぱり影が薄いのであった。
万里絵をアメリカに飛ばした結果、遼が動けなくなった所為かな。
シリーズ最低作の「ノーブルグレイ」に次いで内容の印象がないぞ。
麻生俊平 『フェニックスの微笑』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 4)頻発する学園祭妨害事件のうらには多彩な才が見え隠れする。 犯人グループの思惑は何か、そしてそこに遺産は絡んでいるのだろうか ──
万里絵が主役張ると外伝的になるあたり、 万里絵は本筋の主役になれない(万里絵の成長はない)ことが示唆されている。 ま、しかたねーな。万里絵は本筋の水先案内人だもんね。 遼が抱える問題の構造を読者に解説する役だから、 本人が説明余力のない状態になる訳にはいかない。
ヤマは遼が牧の弁論にボロ負けして帰ってきたとこで
万里絵が反駁論理を組み立てつつ二重思考的に自分用の行動方針も定めるってあたり、
ここの reflection な万里絵の組み立てが気に入って、
この巻は『モノクロームの残映』に次いで好き。
もっともいくらか論理に本末転倒なところがあってそれに遼が気づいておらず、
悩み方が空回ってて肝心の本論の迫力が感じられないのが残念だな。
たとえば高尾麻紀の成績は悪いそーだが、
このとんでもない勉強家の成績が悪いはずはなく、
「すべての元凶はおめーらだろうが ... > 牧」という感想を持った瞬間にこの話の本筋に力がなくなってしまうのである ... わざわざ万里絵の力を借りるまでもなく、もったいないというかなんというか。
「そのためには、何か守る価値のあるものが欲しいんだよ。 僕たちの毎日が、学校へ行ったり、家で何かしたりすることに価値があるって思いたい。 そうでなければ、あんな怖いことにわざわざ首を突っ込んだりしないよ」感動すべきなんだろうが、まあ、確かに感動もしたけど、いいかげん聞き慣れた論理なうえに 戦争やってる現場の人間も同じようなこと言いながら鼓舞してんだろーな と思うと、ここで止まってる台詞では感動してやんなくてもいいという気にならないでもない。 が、どーみてもこれがこの話の本論のようなのでいちおう抜き書きしておく。
英語演劇部のことは万里絵の責任下にあるが、遺産の問題は どんなにせっぱつまっていようと万里絵の責任下にない。 確かに遼に任せられないという評価もあるが、 それは英語演劇部に対しては理由にならないのだから。 英語演劇部に関わったために遺産のほうが大ゴケした場合は、それこそ ナイフの件が「万里絵の失敗」として扱われる問題の範疇である。
.... とここまで書いて思ったが、かみ砕いて書き直せば遼とおんなじことを言うとるな。
この話以降でも万里絵に「遼に任せてみよう」的な判断がよくみられる (万里絵自身にも解決できるという判断があるっつーか、遼に解決できるのか という不安が ...)が、 (剣のことを抜きにしても)遼なら解決できても 万里絵には解決できないたぐいの問題が『ファイナルの密使』 以降に現れる。万里絵は明示的には一言も認めていないが、それを自覚している描写はある。 ... なぜ万里絵に解決できないのかということを遼が理解することは決してないのだろう。
麻生俊平 『オーキスの救世主』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 3)オーキス・ムーブメント、お互いの心の扉を開く、交流を深める運動。 遺産が関わっていることに関しては回収すればいいとして、 ではその運動そのものは本当に悪なのだろうか ──
扉絵の T シャツな万里絵がいわゆる「修行中」の姿にみえて、
「ほー、万里絵がひっかかったつうのか、それはなかなかやるじゃん > 作者」
と思ったんだがそーゆーのではなかった。
ひっかかるべき人がひっかかってるだけだった。つまらん :-)
主題は主題として、
例によって理由付けに悩む遼に
オーキス・ムーブメント側が次から次へと理由を提供しているつうのがなんとかしてほしい
と思うものである。遼が悩んでるのがバカらしくなってくるじゃん。
マインドコントロール問題が光を浴びる「前」に出た本つうことで その観点から語られることの多い巻だが、そーゆー点を抜きにしても、 プロット優先で沈没していた 1, 2 と違い、 キャラがきちんと立ち話として読むに耐えるようになってきた。 暗黙の一人称が荒れるのもこの巻くらいまでと文章的にもレベルが上がってきている。 書くべきことを定めてそれに集中した感のあるこの 3 冊目、 マインドコントロールをしかける手順も、それを解除していく手順のほうも 手抜きなしでよくできてると思う。たとえば:
「遼については、あとは時間が解決してくれるでしょう」なんてとこがそーだ。カウンターの暗示だよな、これって。
ちょっと澄ました調子で万里絵は言った。
「それらしい理屈を言って、遼を納得させるつもりはないってこと。やるのは簡単よ。 きつい言い方になるけど、今の遼は、何かにすがりたくてしょうがないんだもの。 正しい言葉があれば飛び付くでしょうね」6/1 で似たようなことを私も書いたが、 万里絵の言葉も身も蓋もない ... 遼はおもいっきりぶーたれてたが反論の余地はなさそーである。
ところで、ここでの万里絵のように自分の領分を定めてあたるのは 安全で健康的なようだがそうでもない。 どんな思想、価値観、哲学体系を採ろうとも解決不能な問題というものは存在する。 自分の思想体系を拡大することを原則として禁じる万里絵のような姿勢は 本人にとって問題になるような問題 (遼が抱えたような問題は万里絵の思想にとっては問題の範疇に入らない) にぶちあたった時に弱い ── 自省をこめて。
補足追加(6/17)。
オーキス・ムーブメントは悪なのか、という問題を
矢神遼は個性の消失という観点から論じた。なぜ個性の消失がマズいのか ──
という点を省みれば、遼は神田川明のエージェントという役割しかしていないことになる。
氷澄丈太郎の言うように「酔っ払いと抱き合う趣味はない(= 思考停止は愚かなことだ)」
という観点から否定すべきではなかったか。
剣があってこそ、この問題に関与するだけの力がある。 矢神遼の論理だと 剣がなかった場合に遼がこの問題をどう扱うべきかというときに少し迫力に欠ける。 朝霞万里絵がこの問題に口を挟むべきかどうかに言及しなかったのは そういう意味では正しく、また、こういう思想のいちばんつまらんとこでもあると思う。
麻生俊平 『ザンヤルマの剣士』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 1) 富士見ファンタジア矢神遼はある日のこと風変わりな剣を貰った。 そして、その日から彼の身の周りで斬殺事件が発生しだす。 もしや自分が犯人なのだろうか ──
このシリーズで何がやりたいのか実によくわかる、まさに一冊目、な話だが、 あからさまにプロットに従って登場人物の心理が動き、 まさにその分しか心理描写がないのが難かも。 おびえてる間はおびえてる旨の心理描写、開き直ったら開き直った旨の心理描写、 と状況別に切り分けがはっきりしててその間の変遷の理由つうか裏付けつうか流れが弱い。
「それでもね、最後の最後まで手を差し延べ続けてくれた遼がいたことは、 彼女にとって幸せな、とても大切なことだったと思うよ」.... まあ、万里絵の云いたいことは実に良く分かるんだが。これで納得するようなら たとえばカヲルを殺したシンジはミサトになだめられてるはずであって。 手を差し延べ続けてくれたことが救いになっただろうことは疑いがないが、 救いになっただろうことが手を差し延べた側の救いになってるとは限らない、 ってとこが問題なんだよなぁ。 いちおう責任は回避できる(救いになってんだから自分も救われていいだろうという論理)が、 じつをいえばこのザンヤルマの剣士シリーズで登場する全ての論理が この責任回避可能なタイプ。どーにも作者の気迫が足らん。
麻生俊平 『ノーブルグレイの幻影』 (ザンヤルマの剣士シリーズ 2)超能力を持つと自称し、かつそれらしき力をふるう少年、秋月。 自分は正しいことをなしている、と語る彼は 自分の剣の力に怯える遼の救いとなるのだろうか ──
プロットが収斂していく様は読み応えがあるが、 そっちに力をとられて論旨がボロボロになっている。 この話に不満がなければ最終巻『イェマドの後継者』は必要なかったはずなので、 作者も分かっているのだろう。
「あるいは役立たない才能が引き出されるかもしれない。 それでも、夢を持っている若い人なら、確かな才能が自分にあると知ることで、 きっと夢を実現させるスプリング・ボードにしてくれるだろうと思った。 よもや危険はあるまいと思った。だが、私の買いかぶりだったようだな」裏次郎の観点はたいがいにおいて正鵠を射る。 遼も暴力でなく論理で対抗できるようになっていただきたいものである ...
「バイナリだけじゃイヤだ〜」とゴネたところ夜になって「しょーがねーなぁ、ソースも送るよ」 というメールがきてややうしろめたいながら気力復活。 うしろめたいっつうのは、... だって、今ソースツリー来ても何にもできないもんで ... 忙しいトコあわてて送ってくる必要は、実はなかった。すまん > 某氏。
japan.anime.evangelion.* の続き。
rmgroup 提案はあっさり否決されたようである。
まだまだ活力があるとゆー話。
「.... 使えん -_-;;」時期遅れのバイナリツリーじゃゴミと同義語だろう。 最小限必要な分については手持ちのツリーのほうが新しいし、 ソースツリーと違ってバイナリツリーでは最新追従が難しい。 オリジナルファイルが freeze されている今は ソースの最新追従は potato パッチファイルだけでいいので 追従にかかる負担はソースツリーのほうが遙かに小さい、 というよりバイナリの追従は量的に危なすぎて設定する気がしない。 Debian ってほっとくと問答無用で最新のにぜんぶ追従しようとするから。
んなことだったら linux4u にさっさと注文かけるんだった .... って、おいおい、 今みたら potato snapshot は注文してても向こう側からキャンセルされてるじゃん。
『CC さくら』
ユエ登場。「このねーちゃんのおかげでユエの気配が ...」とケロベロスがぶつくさ言う下り、
このねーちゃん(観月せんせ)、それだけのためにやってきたような言い回しだが、
それはちとつまらん。
『コナン』
昨日の「ごきげんですね、灰原さん」な笑顔を見せたところで
今回の灰原哀なシリーズは終わる。バスジャックの話までしばらくお休みと。
その灰原の笑顔だが、んー、やっぱ少し解釈が違うかなぁ。
ほっとした、なあんだ、という負の打ち消しだけでなく、なにかしらのフリーハンドを得た、
のたぐいのプラスの分が少し混じってるような笑みになってる。
ところで、アニメみる暇があるなんざ、ほんとに修羅場モードなのか ...? というつっこみはもちろん不許可である。 『コナン』なんざ最初の 2 分以外は 5 倍速ですっとばしてる。
ES2000 のそのまた続き。
筐体の厚さから予定されていたとはいえ、こいつの焦点深度ってば、とんでもなく深いな。
力を加えてない本のノドの奥までかっちりピントが合ってる。
12bit ADC というには少しノイズが多いようだ (10bit 強くらい?) が、
テスト原稿のほうが悪いかもしんない。
本日、めでたく(?) 日誌ファイルサイズが今年最大になった。 書く量へってたとこに今月上旬はザンヤルマな話が大きくなったからな。
それは読み方が違うんだろう。主人公バートンのこの心の動きは 物語の設定として与えられている。 物語が宇宙空間として語られていること、舞台が EDS の中であること などについて読者が文句をつけることはないのと同じく、 主人公バートンの怯みからの模索に至る心理についても文句をつけてはいけないんだろう。 .... どのような心理から何をどのように思ったとしても、 自分の命がかかっているマリリンからみてさえも。 誰のどの思考、行動にも注文をつけることがゆるされない、 読者に対しても逃げを許さないところで
わたしは死ぬようなことはしてないわ ── 死ぬようなことはなんにも ──とつなぐ。この心理状態はマリリンに近い。 冷たい方程式の冷酷さに抵抗し抜け穴を探す側ではなく、 冷たい方程式という名の審判者に相対した物語として読むものなのだろう。 クトゥルー神話において、本家ラブクラフトに比べ、 弟子のダーレスの物語は人間による抵抗が描かれている。 『冷たい方程式』とそのパスティーシュ(の多く) はそれと同じ対比で語られるべきものなのだろうと思う。
さて、話を「ザンヤルマの剣士」シリーズに戻す。 主人公の遼に対して感情移入困難であること上のバートンのケースとあまり変わらないが、 では上で使った論理展開と同じく遼の行動原理を物語の設定であるとして捉えることができるか .... つうと、できそうだ。遼以外の人物の行動が(本人の価値観、哲学に基づいて) 合理的だったので感情移入に不自由はしなかったのだが、 ... つまり単に「こいつ(遼)は(よきにつけあしきにつけ)バカだよな」 と唱えるだけで(おもしろく)読めたってことだが、 遼の行動原理をそういうものである(自明としなければならない)としても、話は読めそうだ。 この場合の鑑賞点は .... はて、どこにくるんだろ。
ES2000 な続き。
ちょっと思いついて ep_scan の出力を
バイナリフォーマット (P6 な ppm) からテキストフォーマット (P3 な ppm) に変えたら、
ちゃんと 36bit/pixel な画像でも xv や netpbm (pnmhistmap など一部制限あり)
で大丈夫になった。そーいや昔 16bit grayscale を netpbm で扱ってたんだから、36bit color
くらい使えなきゃおかしい。
気をよくしてマシンの電源を切らずにスキャナの電源のオン/オフができるよう調整しておく。 ちなみにこのスキャナはイニシエータとして働くらしく、 スキャナの電源を入れると周辺の SCSI デバイス (PC 含む) をリセットしてまわってくださる (-_-; PC 以外のデバイスが SCSI バス上にあると、 それらのデバイスは PC の予期しない状態に変化してしまう可能性がある ── というかモーター止めてた HDD が勝手に回り出すんだから 実際になかなか迷惑な状態に変化してしまってる。このため
ところで unix のスキャナドライバの SANE には ES2000 がサポートリストに入ってない。 ep_scan の中を見るかぎり ES2000 specific には大したことしてないので SANE でも動きそう。みたとこ 8bit/plane モノしかサポートしてないふりしてるけど ソース的には12bit/plane にも対応しているし (てーことはつまり test されとらんつうことか ...)。
追伸。
聞いたことはあるような気はするけど、3 つ目は出所がわかんない ... > R さん
一方アサヒネットローカルの asahi.mm.evangelion.* は今んとこ生きている。 恐ろしいことに上位層にあたる asahi.mm.anime.* は存続の危機に立たされたことがあったのに asahi.mm.evangelion.* のほうは その手の危機に瀕したことはない。もっとも Evangelion な関連性は japan.anime.evanglion.* よりも薄くなっているが ...
ES2000 のこと。
とりあえず linux 上で ep_scan でイメージが取れることは確認した。
ちょっくら ep_scan のソースを細工して 36bit/pixel (1 色あたり 12bit)
なデータの取得も出来た ── が、36bit/pixel な画像ファイルを扱えるアプリが少ない
(xv も netpbm もダメ。ImageMagick は未確認)状況では宝の持ち腐れなのであった ...
ちなみに「ザンヤルマの剣士」なサイトのほうはロクなとこがなかった(でてこなかった)。
話がいきなり飛ぶけど『ガンバの冒険』だったか、イカサマがガクシャに向けて、
「あんたは熟考した、俺はサイコロの目で決めた。 その結果が二人で同じ(船に乗ること)なら 考えることにどんな意味がある? (超訳 :-)」みたいなことを言い放つ。 サイコロで同じに決めてもいいようなことを考えるのは理に合わない。 サイコロを振りつづけて得られるのは期待値だ。 バカにならないコストを払って考え込むなら 結果は単純な期待値よりも良くならなければ考える甲斐がない。 シリーズ全 9 巻、しかもファンタジアにしては厚めで、物語中の時間で 1 年にわたって考えつづけて得た遼の結論には不満が多い ... というより その程度のこと、最初から考察の前提においてもバチはあたるまい。
「一足す一はいくつになるか? 七か、八か? 前提となる質問が間違っている時に するべきことは、どちらを選ぼうが間違っている選択肢からの二者択一じゃない。 質問が間違っていると指摘すること、そして、できるなら正しい前提に直すことだ」── と矢神遼は糾弾する。 氷澄丈太郎に言われるならともかく、ろくな自問自答をしない遼に言われたくはないな。 ザンヤルマの剣のような特一級の危険物を自由意志で保持しつづけ、かつ その力を振るうという時点で遼が罰(強烈なプレッシャーと責任)をうけるのは必然のことだ。 常に「剣を使わない」という選択肢があった。 目の前に剣を使うこともできない万里絵がいたんだから、 剣がなければ TOGO や FINAL に対抗できないというのは言い訳にすぎない。
ところで、地震を起こして市を破壊すべく動いたマヤを万里絵が射殺しようとし、 それを遼が止めようとしたシーンがあった。 作者の問題意識の置き方と、二人のスタンスをもっとも明確にした部分だ。
この問いかけにどう答えるか? 万里絵と同じく射殺することになるだろうし、 たぶんそれが読者のスタンスになるだろうことを作者が予定しているのは 万里絵がこの前後の物語の語り手になっていることからも分かる。
私自身は万里絵(not ジェネラル) と同じ立場にたつ、それは確かだけども、
別にそれが正しいとはまったく思わない。
世界のありかたとしては遼のようにこれに反対する立場の人間がいて、
それとの闘争状態になっていることこそが世界を健全たらしめている要点だと思う。
100 人中 99 人しか救えないトコで 1 人を(心苦しくも)見捨てれば、
次は 98 人しか救えないのを当然のこととするようになるだろう、という話があった。
闘争状態にはこれを防ぐ効果もちゃんとある。
「ホームページってどのページのことなん?」アサヒネット内だけでもリンクフリー宣言してあるとこが 4 階層、 アサヒ外でさらに 2 つのページが同じメールアドレスを連絡先にしてあるんである ── 「あの、その、ホームページってどのページ?」 と訊きかえすことの間抜けさよ ...
ちなみに、その「ホームページ」とやらが (メールアドレスから導き出される) 定義通りのホームページ <http://www.asahi-net.or.jp/~bg3k-ysd/> であることはたぶんない。なにせリンクフリーになっているトコでは いちばんカウンタの歩みが遅いページである :-)
もちろんメールの内容的に分かることも多かれど、 メタレベルの話題(ページ更新せえよ、とか)が主だとどれのことか分からん。 やっぱページ別にメールアドレス変えとかないとマズいかなぁ?
TeX の縦書きの整備からスキャナ、手持ちのレーザプリンタと合わせると 同人誌でも作るのか、みたいな装備が一通り。コピー誌つくるくらいなら 直に打ち出したほうがランニングコストでも有利ってのがコワい。
1 週間後には帰るとのたまうていた方が戻ってこられたようである。
おひさ (^^/~
R さん
はいぱーはこないだ終ったらしー ...
EVA は 5 巻まで。なぜか 4 巻までしか並んでない本屋が多いが ...
LaTeX な続き。
Plamo (Slackware 系日本語環境) CDROM 持ってるんだわ ... そーいえば。
イチから platex 入れる必要ぜんぜんなかった。
最近の CDROM としては RedHat 系、Debian 系しか無いもんだとばっかり (をいをい)。
とりあえずちょいちょいと xdvi から postscript が見えるようにしておく。
TeX が更新されればさずがに aout なバイナリは激減したろうって file /**/bin/*
してみたらまだ山ほどあった。ううむ。
Ng な話の続き。... って、いつだっけ、前回書いたの ...
誰もやりたがらなかった「Ng に undo を!」がよーやっと
日の目を見たらしい。
これまで間違えた時は quit して立ち上げ直してたからなぁ。
ずいぶんとマトモなエディタになった。
atropos の購入と同時にインストールした tex が
(dualboot の) DOS, Linux で pk や sty, fmt を共有した関係で
けっこうトリッキーな設定になっており、それを DOS 側を破棄した今でもひきずっていた ...
なにぶん tex や xdvi はもちろん gs や jdvi2kps, lpr などシステムの 1/3 に影響するので
おいそれと触れず、latex や xdvi はインストールしてから一度も version up していなかった。
インストールん時に設定したっきり恐くてもう触れない、
というファイルは他にもまだ幾つかある(情けないのお ...)けど、
TeX はその中でも最大級 ... (^^;
1 日がかりだろうと見たところ、やっぱりきっちり 1 日かかった。 内訳としては、tex 自身のインストールに 10 分くらい、 tex の環境設定に 1 時間くらい、xdvi のデバッグとインストールにくじけて debian のバイナリでごまかすまで 3 時間くらいか。 dvi2ps は kpathsea のデバッグ法を見付けてからは速かったが、 縦書きが何故か縦書きになってくれず、gs が悪いのか dvi2ps が悪いのかの 区分けに手間取った。... わざわざ jdvi2kps 入れなおして gs は悪くないことを確認するハメになった (jdvi2kps は日本語フォントの並びが dvi2ps ほど麗しくないので実用には使いたくない)。
xdvi が (Debian 由来なので) libc6 、そこから起動される gs が (今回 version up してないから) libc5 を使ってるので起動に失敗し、xdvi の中で postscript が見られないのがちと悲しい。
つれづれなるままに日暮らし硯にむかいて消化した本 :
ブラッドリー『ホークミストレス』(下)、
横田編『日本 SF 古典集成』(2)、
あもい潤『@テンション!』(2)、
橋口隆志『ウインドミル』(6)、(7)、
... あ、コリンウイルソン『迷宮の神』まだ読破してねーな。
読破組のいずれもとりたてて書くべきことはないが ...
『@テンション!』のサイバースペースでのフリーマーケットって観念は
面白かったかも。基本的に元手ゼロだからねぇ。
1 ヵ月ぶりのテニスなんぞす。
グループ内の対戦で大きく勝ち越して 6 ヵ月ぶりの A グループ復帰。
今年からルールが変更され落ち込んでいたところで
ようやく勝ち方を覚えたということが大きい。
Psion5 の電池をしばらく交換してなかったら電池切れでデータの幾つかがふっとんだ
;_;
30 時間かそこらもつマシンであっても、
連続稼働時間を過信してるとそんなもん何の意味もないのであった。
で、ちょうどいい機会だったので久しぶりにカーネルいじって make したら起動しない。
... 以前のカーネルだと起動するのに、ん〜、他んトコもおかしくなったかなぁ?
「問題」とゆーものは 3 種類(解かなければいけない問題が 2 種、そうでないのが 1 種)あって、
もう一つ、「解かなくていい問題」ってのがある。これまでの二つを悪性腫瘍 とすれば良性腫瘍みたいなもんで、 ほっといても特に害をなさず、かつ解いてみても特に利にならない問題だ。
さて、ザンヤルマの剣士シリーズにおいて、矢神遼が 「イェマドの遺産を受け取った人物達に干渉し、彼らの遺産を破壊する」権利あるのか (矢神遼もまさにイェマドの遺産を受け取った一人物にすぎない)? もちろんターゲットが遺産を使って他人に被害を及ぼすような使い方をするなら、 それを理由に咎めればいいとして、まだ被害を及ぼしていない、 あるいは将来も被害はないであろうケースに関して干渉していいか ── という問題意識を背後に置いている。
「解けない問題」的に見えるが「解ける問題」であってほしい、ってのが遼の悩み方なんだが、 これって「解かなくていい問題」だよな。 干渉していいという根拠を得ることも、干渉することはできないという根拠を得ることも、 遼の利にも害にもならない。 干渉していいという根拠を適当に組み上げることはすぐにできるが、 そうしたところで遼は納得しないだろうし、まだ納得しては *いけない* ── この問題意識は遼の行動規範になってるから、今納得すると剣が暴走する。 干渉してはならない、という理論付けもするだけ意味がないのは明らかだ(覆水盆に返らず)。 したがってこれは「解ける問題」ではなく、「解けない問題」の一種だが、 解かなくてはいけない問題かってーとそんなことはなく、遼とターゲット二者間の 精神的位置付けにすぎないので解かなくても誰も困らない。 解かないことでほっとくと精神的に遼が困るわけだが、 どーせ「解けない問題」なんだから解いた形が目の前にあっても困ることには違いがない。
ぜんぶひっくるめてこういう問題を「考えるだけムダ」という訳なんだが ... これを「解けねーよ...」と泣いたりするのでたまに笑ってしまうことがある。
問題が与えられたか生まれたかした時、 (問題を解く前に)問題が解かれた形はどんなものになるかと考えたりは、 あんまりしないもんなんだろうか ...?