ある書簡「琴音のことなど」

From: ワタルさん
At: private mail
Date: Sat, 18 Jul 1998 21:54:00 +0900
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こんにちは、ワタルです。 せっかく盛り上がってきたのに、一週間近くも間があいてしまって残念です。 このまま終わらせるにはもったいないと思い、自分の思うところをまとめてみました。 中心のテーマは、琴音の内心です。 ただし、その後に続けて論じている「天使」と「優の表情」については、あまり踏み込んでいません。 今回は、琴音の内面の心的状態をめぐってお互いの類似点と相違点を際立たせながら書いてみました。 ところで、場面の切れ目に関しては、神木さんの起こしたセリフの区分に従っています。 それによると、優の話は、14の部分に区分されます。

本題に入る前に、書簡「ハレとケということ」の記述をもとにして視点の相異を確認したいと思います。 神木さんによると、「一人旅なんて無理しちゃって〜二人だと安心でしょ」というセリフが言われた時点では、琴音のほうが優位にあり、「証拠見せてよ!」と言われた時点では、「対等な関係」にあるとされます。 「勝った……」という言葉は「琴音の最後の抵抗」であるとされています。 私が思うに、ここには、私と神木さんとのこの作品に対する見方の決定的な違いが語られています。 つまり、神木さんは、優と琴音の二人の関係を軸にしてこの作品を理解しています。 他方、私は、以下に述べるように、琴音の二つの気持ちの存在を軸にしてこの作品を理解しています。 これは、お互いの観点を私なりに整理したものなので、神木さんのほうから見ると、その観点の相異はまた違って見えるかもしれません。 もし違って見えるなら、私自身そのことに興味がありますので、言及してください。

また、もう一つ、決定的な違いがあります。 それは、「流星時の琴音の驚き」の位置づけに関する問題です。 神木さんは、琴音の驚きを、作品の本筋の理解(優と琴音の関係)からは「独立なもの」とみなしています。 他方、琴音の驚きを名場面として選んだ理由を述べたときに簡単に触れましたが、私は、この驚きの場面を、この作品の理解にとって重要な場面であると解します。 細かいところは度外視することにして、大雑把には、以上の二つの問題に関してお互いの見方に大きな違いが認められると思います。

後者の点に関しては、神木さんが、「流星というのは、出現が分かっていても感動的に奇麗なもんです。 見慣れるという気がしません。 だから琴音くらいの表情変化は何の条件もなくても当然という気持ちがあって」と述べていることから、琴音の驚きを重要視しない理由も理解できます。 ただ、神木さんの述べておられる次の部分、すなわち、「琴音の思考の流れとして流星を見た時のインパクトからこの会話に至るところがキーだというレベルでなく、観ている「私」に一定のインパクトがあった」という部分が、私にはまだ明解になっておりません。 ここでは「インパクト」と二つ言われていますが、最初のインパクトは琴音のものであって、二つ目のは「私」のインパクトなのでしょうか。 「私」とは神木さんご本人のことでしょうか。 こうした点がまだ明解ではないので、後者の問題にはあまり深く論じることはできませんでした。 ですから、今回は前者の問題に絞って述べてみたいと思います。

──琴音の内心について──

>琴音の優への評価が一変するのはここからで、ここから旅の一連の優の行動を
>評価しなおすといったことが行なわれる。 それは「こんな子ほっとけばいいの
>に」「なおさら嫌だった」などという同行中の評価の低さから窺えます。
(神木さんの『ある書簡「ハレとケということ」』から引用)

「こんな子ほっとけばいいのに」というセリフは、確かに、琴音の優への「評価の低さ」であると言えるでしょう。 それでは、どうして琴音はこのようなセリフを吐いたのでしょうか。 優を低く評価したことを述べただけなのでしょうか。 私は、このセリフは、琴音自身が自分のとった行動(こんなところにまで優の後についてきたという行動)について理解しかねている状態の気持ちから発せられたセリフであると解釈します。 ですから、琴音は、このセリフを発した後で、高台に向かわずに引き返そうと促しますが、その意に反して、優の後についていってしまいます。 そして、次のセリフが言われます。 「……なおさら嫌だった」と。 前回述べたように、やはりこのセリフは、「ピュアな愛が存在しないと言った自分こそがそれを強く求めている」という自分の本当の気持ちを、琴音自身が意識し出したことの表われであると思いました。 ただしその気持ちは、まだ明白な意識にまでのぼっていません。 琴音本人にとっては、その気持ちは、「理由のない苛立ち」に感じたことでしょう。

ここで述べられた一連のセリフ(琴音の内心の独白)は、神木さんのおっしゃるように、確かに、優に対する評価であると読むこともできます。 他方、私は、この場面は、「思わず優の後についていこうとする自分がいる」ということに対する琴音の「苛立ち」が描かれた場面であると解したい。 換言すると、「ピュアな愛を信じたいと思う琴音の心」と「そんなものは存在しないと主張する琴音の心」という、独りの人間の中で生じている二つの気持ちの葛藤が描かれているのではないか、と思いたい。 でも、こうした点にまで触れられた作品の内容の解釈に関して言えば、それぞれの視聴者が、自分独自の見方をしても許される範囲になると思います。

では、一連のセリフで締めくくりに当たる最後の言葉、「……私に信じる気持ちを起こさせるために。 それがなおさら嫌だった。 」という言葉について、お互いに共通したところと、違うところを、もう少し明確にしてみます。

>いうところの reflection (自分の気持ちを相手の行動に投射する)ですから
>優がどう思ってるかは全く論じる必要がないですね。 琴音自身がどう思っているかと
>いうことにのみ意味を持ちます。 「信じる気持ちを起こさせるため」なんだから
>「>信じたい」という叫びがまずあり、「それがなおさら嫌だった」んだから
>そういう方法では信じるには至らないぞ、ということの宣言でもあるでしょう。
>この防衛線は「あまりの奇跡」に一時うちやぶられますが、
>忘れた訳ではなくて以下上記、という風に私の解釈では繋がっています。
(同上)

「[優が]私に信じる気持ちを起こさせる」とは、琴音の思い込みです。 ですから、もちろん「優が[実際に]どう思ってるかは全く論じる必要」はなく、このセリフ自体は、琴音の内心が表れたものです。 この点に関してはお互いの理解は共通しているようです。 また、「自分の気持ちを投射」しているという理解の仕方に関しても共通しているようです。 違いが見られるのは、その琴音の内心についての解釈、つまり、投射された気持ちの内実についての解釈です。 神木さんは、そのセリフを、「そういう方法[流星を観るという方法]では信じるに至らないぞ」という宣言であると解釈します。 これに対して私の場合は、そのセリフを、琴音が自分の本当の気持ちを「意識し始めた」ことによって生じた「苛立ち」であると解釈します。 以前(7月11日のカキコで)、私は、このセリフについて次のように述べました。

>このセリフは、ピュアな愛がないと言っている自分の方がピュアな愛を求
>めている、ということを、優に悟られているのではないかと思って発言さ
>れたセリフだと理解できます。

私がこの部分で言いたかったことを図式化して言うと、琴音を苛立たせている要因は二つあります。 その一つは、「過去の経験からピュアな愛はないと主張する気持ち」と「その存在を信じたい気持ち」との間の葛藤です。 もう一つは、「こうした葛藤の中で苛立っている自分の存在」と「ピュアな愛を信じているかのように琴音には思える優の存在」との間での拮抗です。 前者の葛藤は、琴音がもともともっていたものです。 後者の拮抗は、優と出会うことによって生じたものです。 言い換えれば、ピュアな愛は存在しないと主張したのに、それを自分は懸命になって求めている、ということを、琴音は、はっきりと意識しているのではありませんが、「何となくそういう自分の気持ちの存在を感じている」のです。 そしてまた、そうした気持ちの存在を、明白に自覚していないながらも感じているために、優の存在は琴音にとって苛立ちの対象ともなります。 私はそう理解しました。 そうした苛立った心理状態が、「それがなおさら嫌だった」というセリフに特に表現されていると思われます。

琴音はこうした心理状態にあったと私は解釈します。 ところが、流星を発見するという場面(神木さんの場面区分に従えば、12番目の場面です)で、琴音の内面は、劇的な変化を遂げます。 その瞬間、琴音は、「星が流れたことに素直に感動している自分がいたということに気づきました」(7月11日のワタルのカキコからの引用)。 このことに関して、神木さんが適切に以下のように言及してくれています。

>琴音が救われたと自分で思ったのは、もちろん高台で流れ星を観ることができた
>ときだけども、しかしそれは「ピュアな愛が(男に)あることの証拠」でもなんでもない。
(7月10日の神木さんのカキコから引用)

琴音の驚きのシーンを理解するに当たって、この指摘は正鵠を射ていると思います。 けれども、この場面に関する見方は、神木さんと私との間では若干の違いが見られます。 神木さんは「証拠」ではない点を重要視しています。 「証拠」でないことは確かにそうなのですが、それよりも、私の場合、琴音が救われたと自分で思ったのは、流れ星を観ることができた「とき」であった、という点を重要視したいです。 正確に言うと、琴音は、流れ星に感動している時点では、「救われた」という自覚にはまだ至っておらず、「素直に感動している自分が今ここにいる」という意識しかもっていません(と私は考えます)。 もう一度言いますと、「ピュアな愛はないと無理にでも自分を説得させたい気持ち」と「その存在を求めてやまない気持ち」との間の葛藤、また、「こうした葛藤の中で不安定な状態にある自分の存在」と「ピュアな愛を信じて安定した状態にあるかのように琴音には思える優の存在」との間での拮抗、この葛藤と拮抗は、どちらも琴音の内面の問題です。 ところがこの葛藤と拮抗は、流星が現われた「とき」、琴音の内面で一瞬にして払拭されてしまいます。 つまり、流れ星を観ることが即ピュアな愛の存在の「証拠」となることはできませんが、しかし、流れ星を観た「とき」の「自分の存在」はピュアな愛の存在の証拠につながっているのです。 だからこそ、私は、流星を観た「とき」に葛藤と拮抗が払拭された、と考えます。

このように考えてきますと、「証拠」となるものについても、ある程度見解を述べることができそうです。 では、その「証拠」となるに値するものについて考えてみましょう。 琴音は、第五の場面で、「だったら、証拠みせてよ!」というセリフを投げつけます。 しかしその次の場面では、琴音みずから、「みせろったってみせられるわけないもんね、そんなの」と言って、そうした証拠の非実体性をあっさり認めてしまいます。 もし仮にそうした証拠があったとしても、それは、目で見たり手で触ったりできるものではないというのは明らかです。 敢えて言えば、「証拠」に値するものは、流れ星を観た「とき」に感動した自分の心であると言ってよいと思います。 実際、自分の心は、自分にとって最も身近なものであるにもかかわらず、目で見たり手で触ったりできませんからね。 流れ星を観たことが即「証拠」ではありませんが、観たことが「誘因」となって生じた感動において存在する自己の意識が、ピュアな愛の存在を「暗示」させます。 先程、端的に「証拠」と言わずに、「証拠に値するもの」と言ったのは、あくまでその存在の暗示にとどまるからです。 驚異的な自然現象を前にすると、そのときの感動によって観察者は、何か純粋なものの存在を感じ取るように導かれます。 もちろん、「驚異的な」とは言っても、その自然現象とは、「恐怖の感情」を引き起こす地震などのような破壊的な現象のことではなく、「崇高の感情」を引き起こす流星群などのような現象のことを指します。

これまでは、場面10〜12を中心に考察してきました。 では、その考察を踏まえて、次の13番目の場面、すなわち、「勝ったつもりでいるだろうけど、偶然だからね。 偶然」というセリフで始まるシーンを見ていきたいところなのですが、この場面に関しては、私と神木さんの見方の違いを考慮しながら述べることは、今の段階ではできません。 なぜなら、お互いの視点の相異について上の箇所で言ったように、神木さんの述べておられることがまだ自分なりに理解できていないからです。 ただ、わかる範囲で簡単に触れておきますと、神木さんは、このセリフを、「琴音の最後の抵抗」であると解します。 この見解は、優と琴音の二人の関係を軸にして作品を理解する仕方と大いに関連します。 他方、私の理解の仕方は、琴音の二つの気持ちを軸にしています。 確かに例のセリフは、「[優が琴音に]勝った……」ということを意味しますが、これまでの私の考察、すなわち、上記の「葛藤」と「拮抗」とに関連づけて、このセリフをあらためて捉え直してみると、次のようになります。 「ピュアな愛を信じたいという気持ち」が「ピュアな愛はないと主張する気持ち」に勝ったということ、また、「ピュアな愛を信じていると琴音に思われた優」が「葛藤で苛立っていた琴音」に勝ったということを意味します。 つまり、見た目には、現実の優と琴音の二人の勝負ごとのようにも見えますが、正確には、先程も述べましたように、その二つの勝敗はどちらも明らかに琴音自身の内面での出来事です。

この勝負の結果に関して、琴音は、「偶然だからね、偶然。 」と言います。 論理的に考えても、確かに、琴音自身の身に起きた感動は台風の目に入ることができるかどうか、という点にかかっていたのだから、勝負の結果は偶然によって引き起こされた結果であるとも言えます。 でも、この勝負の結果は、琴音にとっては、ピュアな愛が存在する「証拠に値するもの」の発見、言い換えれば、その存在の暗示につながっています。 ですから、出来事が「偶然」と言われていても、単なる偶然ですまされる事件だったということではなく、偶然であるからこそ当事者にとってその出来事に特別な意味が生まれる、ということでなければなりません。 出来事の偶然性が、その前後の出来事との関連が全く見出せないという事態のみを意味するのであるとすれば、流星を観たときの琴音の「内面での」出来事は脈絡のない無意味なものとなってしまいます。 でも、明らかにその出来事によって琴音は、ピュアな愛を信じる切っ掛けをつかむのですから、その出来事が琴音にとって無意味であるはずがありません。 もっとも、神木さんの解釈では、琴音のこの内面の出来事は、まさに前後の流れから「独立したもの」としてみなされていますので、文字どおり「偶然」と言ってよいのかもしれません。

神木さんは、このセリフに関して、「セリフとしてはこの部分がいちばんこの話を象徴している」(神木さんの7月10日のカキコから引用)と述べています。 この点は私も同意見です。 また、このセリフをめぐっての琴音の内面について、神木さんは、創作した小説でこう述べています。 「分かってはいたんだろう。 私にもようやく少しずつ感動が広がった。 まだ言葉にはしたくない想い」(神木さんの小説『七瀬優』から引用)、と。 この点に関しても同じです。 ただ、おそらく、その「感動」あるいは「想い」の中身は、私と神木さんとでは異なっているようです。 私の場合、このセリフは、上記の「葛藤」と「拮抗」において、ピュアな愛の存在を信じる側がまさったことを明確に自覚し始めた琴音の内面を表わしたものであると解します。 この自覚は、「素直に感動している自分が今ここにいる」という、流星を観ている「とき」の意識を振り返って生じたものです。 そうした自覚からは、ピュアな愛が存在することの「予感」も同時に生じます。 これが、私の言う感動の中身です。

最後に、もう一度、お互いの違いを確認したいと思います。 「勝った……」のセリフは、神木さんによると、「それがなおさら嫌だった」と言われたときの琴音の心境からつながっています。 そして、琴音は、このセリフを述べる前に、「「証拠」、その他のロジックを思い出した」と解釈されています。 このことが、そのセリフを「最後の抵抗」であるとする根拠の一つとなっています(違っていたらすいません)。 他方、私は、今述べましたように、流星を観ているときの意識とつなげて理解します。 例のセリフを何とつなげて理解するのか、という点に、二人の理解の仕方の違いをはっきり見て取ることができます。

さて、琴音をめぐってお互いの見方を対比させながら述べてきました。 このように対比すると、また第三者の人も加わりやすいのではないかと思います。 ところで、神木さんは、事実の考証について述べた箇所で、「描かれていないことについて何を「自然」とみなすかによって結論はいろいろと変わりうるのは当然のことだ」(「七瀬優はどこに住んでいるのか」から引用)と述べてます。 もちろんこれは、心理状態の推測についてもそうなのですが、違いをこうして整理してみると、お互い何を「自然」とみなしているのかが、おぼろげながら見えてきます。

──天使のこと──

>さて、ここまでが準備で(おゐ)、
> 「天使ってたぶんいる。 ……」
>ですが、ラストが
> 「私は言えるかな」
>ですから、... というあたりはまたそのうち別稿にしましょう。
(神木さんの『ある書簡「ハレとケということ」』から引用)

そうですね。 私の考えは、まだまとまっていませんので、別稿にしましょう。 私がここまで述べてきたことも「準備」であると言えるかもしれません。 だって、琴音のことしか述べていませんからね。 『センチ』であるからには、「七瀬優」こそが語られるべき存在です。 天使の問題を語ることは、優について述べることにつながります。 私は、天使の問題を考える上で以下の三点を手掛かりにすることができるだろう、と思います。 第一に、主人公の男の子との関係、第二に、最初と最後の対応箇所、第三に、優の「天使」に関する言及、の三点です。 また後になって、数点加わるかもしれません。

<第一点>
優と主人公の男の子との出会いは、設定資料によると7月から8月の夏休み中です。 これは、他の女の子達とは際立って異なった状況です。 子供にとっては日常である学校という場から切り離されたところで、二人は、出会って付き合っているということ、この点が他の場合と異なっています。 また、サンライズの思い出の資料によると、「夏休みがあけて学校が始まった時、転校生として優の学校にやってくるはずの主人公の姿はどこにもありませんでした」(引用)とあります。 つまり、日常という場が始まる時点では、二人の関係は終わっています。 別な言い方をすれば、日常という場が二人を引き離したと言うこともできます(できますよね)。

<第二点>
最初の場面(1番目)
「あれは、女の子の姿をした、もしかすると、ううん、きっと天使。
── そう、確かにいた。
ある夏の夜に、私はその子に出会った。 」
最後の場面(14番目)
「ただの、変わった女の子だったのかもしれない。 でも私には彼女
が愛を信じて旅をつづける天使のように思えた。 」

<第三点>
優の次のセリフ、「正確には、今夜から明後日にかけてなんですけど、月が隠れ始めた夜明けごろ、空からまるで天使が何人も降りてくるみたいに、光が流れるんです。 はじめまして、こんばんはって」(八番目の場面)。 優のセリフの中で「天使」という言葉が出てくるのは、唯一この箇所です。

第二点にあるように、琴音によって優が天使にみたてられていることにだけ注意が向きがちですが、第三点の優のセリフにあるように、優によって流星が天使になぞられられている、ということにも注意したいと思います。 そうしますと、次に論じる「流星を待つときの優の表情」について理解する手掛かりは、すでに与えられていると言えます。 ところで、この第三点に関しては、神木さんも注意を向けておられることがわかります。 なぜなら、小説の中で、流星が流れた時の描写で、例の優のセリフを引用しているからです。 「はじめまして、こんにちは」。 あれ? 「こんばんは」ではないのですね。


──流星を待つときの優の表情──


> 神木さんへ。 優の数ある表情の中で、唯一緊迫感の伝わってくる、雨の中
> で流星を待つときの優の表情についてどうお感じになりましたか。
>
>尋ねる方は 2 行かもしれないけど応える方はいったい ^_^;;
(同上)

優の表情に萌え萌え、とおっしゃっていたので、どうしても上記の場面の表情についてうかがいたくなりました。 優の話の構成は、琴音の回想の部分と、その回想から独立した部分とに分けることができるでしょう(他の分け方も可能でしょうけど)。 そして、話の流れは琴音の回想を中心に進められていると思います。 そうしますと、この七瀬優の回の主人公は、琴音であると言うこともできます。 理解の仕方によっては、優を中心に据えることも可能でしょうけど、琴音を通して七瀬優を描いているということで、琴音を「普通の意味での主人公」と受け取りました。 しかし『センチ』という作品の性格上、本来描かれるべき対象は七瀬優のほうです。 こう考えたとき、優が最も生き生きと描かれた場面はどこかと考えた場合、流星を待つときの優の真剣な表情しかないのです。 私には、そう思えるのですが。

そして、流星が優によって天使にたとえられていたことは、この場面での優の表情に対して何らかの意味づけの役割を果たしていると思われます。 この意味では、やはり第三話の中心は琴音ではなく優であると言うことができます。 ただし、優を主人公とみなすにしても、「普通の意味での主人公」としてではなく、「特殊な意味での主人公」としてです。 「普通の意味での主人公」とは、その主人公を中心に話が進行しているという意味で言われた主人公のことです。 読者あるいは視聴者は、その主人公を話の中心に据えて物語を理解します。 他方、「特殊な意味での主人公」とは、その主人公を中心に話が創作されているという意味で言われた主人公のことです。 作家あるいは脚本家は、その主人公を中心に据えて物語を創作します。 前者の意味では琴音が主人公であり、後者の意味では優が主人公であると言えます。 こうした主人公の二つの在り方は、分離させないで一致させるのが一般的です。 優の回の話は、それが分離していると言えます。 この点では、かなり特異な作品であると言ってよいでしょう。

本来描かれるべき主人公である優は、「特殊な意味での主人公」として描かれており、その描き出し方に関しては成功していると、私は判断しています(優を「天使」のように描くには最適な方法であると、個人的には思っています)。 この意味では、優の話は、『センチ』という作品の元々の目的から外れてはいません。 それゆえ、この回の話は、全12話から構成されている『センチ』の中の一作品であると位置づけることができます。 第三話に関して、優と琴音のどちらが主人公なのか、本来描かれるべき優が描かれていないではないか、という疑問や非難が提出されるのも当然です。 上に述べたように、主人公とは、「普通の意味での主人公」として描かれてこそ、主人公であると呼べるからです。 ただ、こうして主人公の在り方を二つに区分して論じる方法がどれだけ一般化できるのか、今のところわかりません。 この区分は、優と琴音の役割を特徴づけるために便宜上私が考え出したものなので、他の作品の分析には通用しないかもしれません。 また、第三話そのものの分析においてさえこの区分がどれだけ有効なのかも、はっきりしていません。 ただし、こうした理解の仕方はもちろん唯一のものではありませんし、あくまで、多数ある理解の仕方の中の一例として受け取ることはできるかと思います。

>一瞬ぞくっとしたのは確かですが、予定調和の中に留まり、
>それをもったいないと思うべきかどうかは良く分かりません。
(同上)

この点に関しては、どう考える「べき」か私にもわかりません。 私の場合は、予定調和の中に留まらないほうが作品をよりいっそう楽しく享受できる、と考えます。 ただ、この問題は、アニメに限らず、映画でも小説でも、作品の享受の在り方を探る上で重要な論点を提出していることだけは確かであると思います。 結局は、作品の見方はそれぞれ個人の趣向によるというのが結論になるのでしょうけれど。

>しかし私はあのシーンに対する敬意の払い方としては、
>どちらかといえば語らない方向を選びたいです。
(同上)

優のこのシーンに関して、神木さんは「敬意」という言葉を使っておられますが、ということは、上で私はお互いの差異に注目して記述しましたが、おそらく、二人にはそれほどの違いはなく、かなり酷似していると言えるのかもしれません。

ではまた……

From ワタル

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Wataru Sawamo
E-Mail w-sawamo@tcat.co.jp
URL    http://www.tcat.co.jp/~w-sawamo/

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[付記] 上に述べたことは、もちろん最初のカキコをしたときから考えていたのではなく、神木さん、尾島某さん、みなさんのカキコを読みながら、少しずつ考えを深めていった結果です。 ですから、私自身は首尾一貫しているはずなのですが、……

神木さんの言っていることをちゃんと理解しているつもりなのですが(ようするに、わからなかったところには触れませんでした)、例えば引用の仕方にしても不本意な引用をしているかもしれません。 むしろ、私の経験からしても、大抵、引用は元の執筆者にとっては不本意のことが多いです。 おそらく、全体から切り離して部分のみを取り上げざるをえないという、不可避的な事情によるとも考えられますが、ご容赦を。


神木さんの『ハレとケということ』から刺激を受けて、上記の文を書きました。

尾島某さんのセンチメンタルジャーニーBBS(SCRAP☆Factory)へ。

神木さんのHP


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