ある書簡「メタファーと事実の差(前編)」

From: 神木
At: センチメンタルジャーニー BBS
Date: ?
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前回のワタルさんの書簡を拝見して基本的に思うことは、大きく分けて二つ。 一つはワタルさんが言うように話の見方の違い ──
> 神木さんは、優と琴音の二人の関係を軸にしてこの作品を理解しています。
> 他方、私は、以下に述べるように、 琴音の二つの気持ちの存在を軸にしてこの作品を理解しています。
私の言葉で語るとすれば、琴音の眼を通して何を見ていたか、という点が違う。 私は琴音の視線で優がなにをするか、を見て来たのであり、 琴音の心理変化はその結果だった。 ワタルさんは同じ視線ながらその思惟は直接 琴音の心に向いているようだ、と私は感じる。 このワタルさんの視線は、この物語に対しては 「自然ではない」と私は感じるのでその辺の方向性を先に掲げておきます。 のこりは後日。 一度に語れる量では既にないので。しかしこうして宿題が増えていく ...

視点の差から導かれる、語れる内容の差

この話は優の心理については一切、語る必要がない。そして 優の行動が琴音の「信じたい気持ち」を暗喩し、 琴音の行動は「信じたくない気持ち」を暗喩しているというのはいいと思います。 この時、 優と琴音のパワーバランスの推移は「信じたい気持ち」と「信じたくない気持ち」 のバランスの推移でもあり、 この二つの力関係は琴音の心理としては描かれていないが故に 心理を直接考察すると見落とす点ではないでしょうか?
メタファーの描かれ方が主筋からほとんど切り離されて裏筋を形成している 10 話以降と違い、3 話は両者で一体です。 一見どちらで語ってもよさそうなんだけれども、 それならば私は表層で語りたいと思います。

さて ──。

他方、私は、この場面は、「思わず優の後についていこうとする自分がいる」ということに対する琴音の「苛立ち」が描かれた場面であると解したい。
ここまではいいと思います。 ただ忘れたくないのは、もともと優の後についていく必要はなかったのであり、 ついていくことに決めた行為自体の心理的障壁の高さです。 「思わず優の後についていこうとする自分がいる」 ことに苛つくのはいいんだけれども、それは新大阪の駅で「ついていく」 ことに決めた時点で部分的に解決されてしまっている問題です。

葛藤の解決(この場合は放棄ともいう:-)として、もちろん「ついていく」のを止める、別れる、 という方法はありますが、それが実際にできるでしょうか? それは「ついていくことに決めた」 ことに匹敵するほど心理的に難しいことではありませんか? 「きたぐに」の車内において わざわざ介入するような面倒見のよい性格の持ち主ですから、 「雨の中でほっとけない」 というていどの気分でさえ別れない理由になりえそうです。

琴音の心理の問題として語りたくない理由の最大のものがこの点にかかっています。 七瀬優という人物を眺める琴音の葛藤、つまり二つの心の対立だけならば、 そしてこの二つの心が平等に琴音の行動に影響を及ぼすのならば、 琴音は新大阪駅で優についていくことはできなかった。 琴音だけにかかわる心理的な問題では ついていく/ついていかないは対等なんだけれども、 外部の要件からは「ついていく」ことのほうが遥かに難しいのです。
そして逆にいったん同行しはじめると今度は「ついていくのを止める」 ことが猛烈に難しくなってきます。

したがって新大阪で「ついていく」ことに決めた時点では優を支持する側の気持ちが 大きいはずです。と同時に 宮島の時点では「ついていかない」ことの気持ちがかなり大きくなっていても 不思議はないし、そうでなければ苛ついたりはしません。 心理的な葛藤が行為に対等ならば琴音はついて行く他はない、

換言すると、「ピュアな愛を信じたいと思う琴音の心」 と「そんなものは存在しないと主張する琴音の心」という、 独りの人間の中で生じている二つの気持ちの葛藤が描かれているのではないか
だけではなく、この時点で「そんなものは存在しないと主張する琴音の心」、 優に失望する側の気持ちがかなり大きくなっていても不思議はない、それが 「優に対する評価が低くなっている」 ということの真意でした。

「優に対する評価が低くなっているんだけれどもついていく自分が居る、 無意識の上ではピュアな愛を信じたいと思う心があるんだ」 というだけでなく、この時点では再び 「そんなものは存在しないと主張する心」 が相方を潰し始めているのです ──
以下、次回の手紙へ。

話の論理の捻れ

この自覚は、「素直に感動している自分が今ここにいる」という、 流星を観ている「とき」の意識を振り返って生じたものです。 そうした自覚からは、ピュアな愛が存在することの「予感」も同時に生じます。
これでは足りないんです。 「ピュアな愛が(男に)あることの証拠」でないという捻れを覆すには足りない、 感動まではいたらない、琴音自身の心理として葛藤をどのように解決しようとも。

もともとの話としてピュアな愛がどこかに(たぶん女に)存在することは 琴音にとっては自明なんです。 それを自覚したいか、自覚しているかというのとはまた別に。 それは最初の構図として、

「そうよ、ロクなもんじゃないんだから。
おとこにはさー、ピュアな愛ってもんがないの」
という風に自己を合理化していることから明らかです。 ピュアな愛の存在を信じる側がまさったことを明確に自覚した、 とは別種のブレークスルーがここにないと論理の輪が閉じない、 物語として完結しないんです。 ここはものすごく大事なところなので、 説明も難しいんだけれどもやっぱり解ってもらえると嬉しい。 すぐにはうまく書けそうにないので詳細は次回にまわしますが ...

「琴音の思考の流れとして流星を見た時のインパクトから この会話に至るところがキーだというレベルでなく、 観ている「私」に一定のインパクトがあった」という部分が、 私にはまだ明解になっておりません。
ちょっと推敲の手を抜くとこうなるという例 mOm
すでにワタルさんが語られているように、偶然にしろ流星の出来事は琴音の 心持ちを変えるだけの内容であり、それが「偶然」「はい」の会話に繋がります。 ただ、これだけではないのです。上に示したように、これだけでは 観ている「私」(神木自身)には大した意味がない、 つまり前々回あるいは以下で語るように 起こるべくして起きた偶然のできごとでしかありません。しかし「はい」は...
優の土俵でなく、琴音の土俵の上でも優に語れるところがあった
これは「ピュアな心を信じようと思う琴音」と「それを抑えこもうとする琴音」 などの琴音の内心の対立軸からは生まれてこないものです。 優と琴音の対立軸のなかから生まれて来た。
「ピュアな心を信じようと思う琴音」には出来そうにないことを 優(ピュアな心を信じようと思う琴音)にできたということ。 琴音内心の対立軸でなく、まさに七瀬優がそのメタファーを つとめていて初めて成り立つ会話だった (また、優という他人がやってしまった困難さを思う時、私(神木)にインパクトがあった)。

琴音の心理の中に現実の七瀬優が「ピュアな心を信じようと思う琴音」 以上の重みをもって受け入れられた、だからこそ 「ピュアな心を信じようと思う」ことが「それを抑えこむ心」 に一定の優位を占めることができた。
それと同時にこの会話以降、 いままでまったく成り立っていなかった会話がようやく中身のあるものになっており、 メタファー側からはこれがキーになっていて、 対立していた二つの心の間の会話も成り立つ、どちらも正当である、 無意味に信じたい心を抑えつけるのでもない、信じようとあがくのでもないということ、 そういう自然体の流れが最終的に

もしも彼女に逢ったら、私は言えるかな
に繋がるんだと思います。

偶然ということ

もっとも、神木さんの解釈では、琴音のこの内面の出来事は、まさに前後の流れから「独立したもの」としてみなされていますので、文字どおり「偶然」と言ってよいのかもしれません。
というのはさすがにずれているようです。 「ハレとケということ」で書いた
どんな形か知らないけどいつかどこかで起きる筈の事件(ターニングポイント) の一つの具体例として現われたにすぎない
の指し示すところ、 やはり解り難いですかねぇ(まあだからこれをネタに SS が一つ書けるんだけど^_^;)。

真に Random な事象としての「偶然」、つまりルーレットを 100 回ふれば 1 回くらいは 0 の目が出る、といった論理ではなく、 私の自宅からワタルさんの自宅まで行くとすればどんな方法をもってしてもかならず 公共の土地の上を通る、それはどこになるかは知らないけれども ...
実際に起きた出来事そのものは偶然ではあるのですが、 その手の出来事が起きること自体は偶然ではありませんでした。

偶然であるからこそ当事者にとってその出来事に特別な意味が生まれる、
のではなく、なんらかの特別な意味が(偶然!)生まれた出来事だったから 特別視されているだけだと思うのです。だから、
でも、明らかにその出来事によって琴音は、 ピュアな愛を信じる切っ掛けをつかむのですから、 その出来事が琴音にとって無意味であるはずがありません。
これには私も同意するものですが、微妙に解釈のずれを感じます。
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