Genesis e:2 ファースト
"The First Children"


暫くしてレイの身体がシンジから浮かび上がり二人の融合が解け、 彼女がシンジを後ろから抱きすくめる形になる、その腕に力がこもり、 びく、とシンジの呪縛が解ける。

「あ、綾波 ‥‥ も、帰って来てたんだ ‥‥」

振り向きもせずにつぶやく。
その高台からは新横須賀を望む。 ゆるく凹にカーブする海岸線、やや荒い岩のごつごつした海岸。 どす黒く濁った海。 ビル街が並ぶことはシンジも期待していなかったが、 人家の残骸らしきものさえ見当たらない。 のっぺらぼうな地形が足元から落ち込んで海岸に至り、左右に見渡す限り続く。
アスカが消え失せる何の理由もそこには見出せず、 まさに何もないことが理由になる、と推測する他はない。 シンジは何もないその光景から目を離すことができなかった。

レイが腕を解き、立ち上がる。シンジは座りこんだまま振り返った。 シンジと同じく第一中学校の制服に身を固めた彼女は 彼と視線が合うと僅かに微笑んだ。動悸がおさまり、喉の乾きにいまさらのように気付く。
アスカの最後の叫び、それに綾波の言葉からして二人が無関係では有り得ない、 それが自分の思い込みかもしれないとは自覚しつつも すがりつきそうになる心を抑えこむ。自然と表情もこわばったが、 かろうじて微笑む形を整えた。

「綾波は知ってるの?」

彼女は微笑みを消し、

「あの人は還った。もう一度」
「‥‥ 何故?」

彼女が口を閉ざす。 無表情ながら唇は微かに動き、シンジには逡巡が感じとれる。 彼は土を払って立ち上がった。

「ねえ、綾波。言いたくなければ言わなくていいから、聞いてくれる?
僕が ‥‥ そう思うだけじゃだめなんだろうか」

つと顔を上げ、レイが瞳で先を促す。

「僕は違うと思った。だから、今ここにいるんだよね?
でもアスカは違ったみたいだ」

彼は笑おうとしたが、乾き切った喉からは吐息の音が洩れただけ。 彼女は一歩も動かず、ただ彼の言葉を静かに待つ。

「一度は戻ってきてたのに。
綾波は違うというけど、やっぱり僕のせいなのかな ‥‥」

シンジは少しだけ眼を瞑った。

「違う、僕のせいであって欲しいんだ ‥‥ まだその方がいいんだ ‥‥
あのアスカが、怒鳴りもしなかったんだ」
「気は済んだ?」

彼女の声は硬い。まっすぐ見つめる赤い瞳からは、 また感じられるようになっていた柔らかみの一片もなく。

シンジにとって綾波との関係は概して良好であった。 二人とも外に手を伸ばさない性格であったために、会話こそ短く途切れ勝ちではあったが。 綾波を「恐い」と思う時期を抜け、 補完世界での繋がりを経た今は彼は特にそう思うところが多い、 今のアスカとの剃刀を噛むような関係でなく ──
シンジは再び知った。罪がまた一つ。

「ごめん。逃げちゃダメだね。もう言わない、あ、でも一つだけ教えて。
‥‥ どうして僕達しかいないの? みんな戻ってくるんじゃなかったの?」
「戻ってきてるわ」
「じゃあ、とりあえず、そこに行こう? 」
「‥‥」
「綾波 ‥‥?」
「眼を閉じて」
「え、うん」

眼を閉じる。額にひんやりとした掌があたり、 その瞬間、上空から眺めた地球が彼の脳裏に思い浮かぶ。

「え、なにこれ ‥‥」
「地球」

彼女のいらえはごく短い。 視野一杯におおいかぶさるように広がった半球の中央に アジア大陸東岸の形が絹層雲の下に横たわる。 視線を日本列島のあたりに動かして、晴れ渡る日本の今の変わり果てた姿に 綾波の見せたかったものはこれだろうとシンジは思う。

「そっかあ、‥‥ あの爆発で ‥‥」

旧東京から岐阜、新潟を包み込むあたりが茶色く変わっていた。 日本を中心に同心円に広がる輪、多分、吹き出した土砂が降り積もったものも 良く見ればアジア、太平洋に見て取れる。 その中心に眼を凝らせば 箱根を中心として半径 20 - 30 kmほどの真円の湾が出来上がり、 伊豆半島が切り離され島となっているのが観察できた。 ジオフロントが箱根の真下から飛び出した影響だろう。

「あれ?」

今いるはずの新横須賀は湾の中。

「ここ ‥‥ どこ?」

いつのまにか潜り込んでいたらしい手首が額から抜ける感覚がある。 イメージの消失とともに彼はゆっくりと眼を開けた。

「新横須賀」
「海の中だったけど ‥‥」
「碇君が新横須賀だと思ったから、ここは新横須賀」
「よくわかんないけど、これだと人、近くにいそうにないんだね。
湖まで戻ろ? あそこならなんとか生きていける」

「食べ物と、住むところと、着替える物」、アスカの言葉を思う。 と同時にシンジは自分がどう在りたかったのかに思い当たる。 足手纏いにならないとはどういうことか。アスカの言う「生意気」の意味。 彼自身が考え、動かねばならないということ。彼の手が止まる。
レイが口を挟む。

「行く?」
「え、あ、何処に ‥‥?」

二重に聞こえる言葉に彼はうろたえた。 会話を追ってみれば湖畔しかない筈だが、 彼女の問いかける表情は単純にそれを指しているような気がしない。

「‥‥‥。湖」

その「間」。彼は右手を握り締めた。
言葉の表面的な文字通りの意味と、自分がいま解釈している内容との離反。 彼は思索の海に沈んだ。思い返してみれば、逆も多い。 伝えたかったことと語った言葉の違い。 心の壁が無い時に孤立した魂を思うその甘さと、いま心の壁が無い時のことを思うこと。
彼の父親と、おそらくは母親も関わっていた計画を最終的に拒否したのは彼自身。 今もその決心は変わらないが、 計画が立てられたその心情をシンジは少しずつ理解しはじめた。
彼が帰ってきてからまだ二日。 補完世界に単なる違和感を感じて戻ることを宣言してから、たかだか三日。 そして出会った人は僅かに二人、たったそれだけの間になした悔いの数々と知り得たこと。 誰にも責任転嫁できない強迫観念の下とはいえ、その胸の内を語りはじめた世界に、 彼は耳を塞いでいたことの罪を知る。

彼は眼の前の少女に目を戻した。 アスカが消えた、ちょうどその時に彼女が現れたことに意味があるか? もちろんその筈だった。 最初の言葉がアスカのことだったのだから。 彼がレイを感じとったのは、この世界で意識を取り戻してからのほんの一時にすぎないが、 彼女の方は彼を見守っていたのだろう ──
間違うな、彼は歯を食い縛ってそう自分の心に語りかけた。彼女は彼の母親では無い。 恐ろしく無意味なほど大きな懐を示したユイでなく、彼の幸福を保証するものではない。
彼の意志はどこまでも自由。 いかなるアドバイスもないし、誰も何も語ろうとせず、そして何も保証されず。

彼は右手をゆっくりとひろげた。 彼女が語らなかった言葉を、 彼が「教えてほしい」と頼んで素直に云うとは限らない。 自らを鑑みれば自分から云えなかった言葉は、 請われたからといって告げられるものではない。
ましてや、そもそもいま彼が思ったとおりの意味を彼女が告げていたとは限らない。 彼が勝手に思い込んだだけの可能性は高い。

それでも。
シンジは再び右手を固く握りしめた。一つ息を吸う。

「アスカにあいたい。どうしたら、いい?」

彼女が目を瞠った。彼は慌てて手を振って、

「え、あ、違った、ごめん、‥‥ でもその、綾波は知らない?」
「会いたいの?」
「‥‥ うん」

その瞬間、彼は意識の断絶を感じた。


目眩がおさまる。周囲を見回すとあいからわず赤い土が広がる荒野。 ただし場所は多少、移動したらしい。海が見えない。

「え、何 ‥‥ 今の?」

そして気付く。 短い期間だったにもかかわらず、すでに親しみはじめていた補完世界の空気の香。 さまざまな感情が彼の頭を突き抜けて、そして消えて行く。 周囲には人影がないのに、ざわめく人々の声が浮かぶ。 彼を満たす感情で一番おおきなものはすぐ目の前からのもので、困惑、親愛、安堵、後悔。
そよとした風が彼の背後から前へ頬をなでるように抜ける。

「綾波、‥‥ ありがとう」

安堵と感謝への応えは苦笑と孤独と焦り。 彼が戸惑うと目の前に分厚い鉄の壁が落ちた。 その壁を通して「注意」が空に浮かぶ。

「うん、分かった ‥‥」

曰く。彼の決断によって補完世界は死の瀬戸際にある。 補完世界を支える求心力の源は亡び、 心の補完に無意識にも反発する人々は既に元の世界に戻りつつある。 今はただ補完を望む人々の心で世界が維持されている ── ことを彼は知った。
そしてまた。
元の世界では亡くなっていた人々の場合はだた消えるのみ、 それは現世界では赤い雪となって現れたことを知る。
心に浮かぶ疑問に答えが返った。肯。

時間がない、その焦りは目の前の黒光りする鉄の壁に跳ね返り、 シンジの頭の中で反響した。
アスカが何故この世界に戻ったのか、その理由を彼は知らない。 そばにいた彼を気に入らなかった、 あるいは現実世界が気に入らなかった等という理由もあるだろう。 シンジが心配しているのは、 こちらの世界にいる筈のアスカの母親と加持リョウジのことだった。 二人は死者であって、今はもう再び消え失せる運命にある。 アスカがたとえこの世界で共に住み続けることを願ったとしても、それは叶わない。
背筋を崩壊の予感が走る。
と同時に地面が二つに割れて崩れ落ち、その漆黒の奈落に彼は落ちていった。


強烈な狂気をたたき込まれて彼はとび起きた。 うっすらと白い光に満たされた砂漠。光の色のわりにはやや肌に痛く、 空気は乾燥し、 小麦粉とも思える白く細かい砂がさらさらと、地に突いた掌の脇でえぐられていく。 湖の岸のと同じものとも思えた。
人影に見上げると、アスカが胸を反らして見下ろしている。 彼女は初めて出会った時と同じ黄色のワンピースを着ていた。

彼が戸惑いと、次いで喜び、緊張と恐怖を浮かべて手を差し伸ばす。 彼女は手を伸ばすでもなく、よけるでもない。
そのまま触れたとたん、凄まじい激痛が彼を襲った。 物理的な痛みではない。精神的なそれ。

死の恐怖、孤独、恥辱、劣等感、蔑み、憐憫、
忌、劣、虚、辱、恐、禁、避、死、憫、独、恥、苦、蔑、憐、怖、姦、‥‥

シンジの心に感応して彼が踏みしめる周囲の砂が次第に白から黒へ色を変えて行く。 原油が染み込んだ砂のような。 そして最後に絶望が彼の腹に突き刺さる。
彼がその波に弾かれ地に打ちつけられると、彼女が声に出して告げた。

「分かった? あたしはもう戻らないの」
「じゃあ、なんで戻ったんだよ」
「戻れると思ったからよ」

それに言葉を返すまでもない。再び、否応なく開いた心が繋がり、 加持リョウジが既に消えたこと、アスカの母親、惣流 キョウコ = ツエッペリン はいまもって彼女の側にあることを知る。 そして ‥‥

個の意思がまもなく消えること。

人々は感じていた。第三新東京市を中心とした惨状ばかりではない。 たった一日とはいえ、世界から何の予告もなく人々が消え失せたことによって、 社会を支えるインフラストラクチャーが大打撃をうけたことを。
交通網は全壊した。 運転手がいなくなった車の迷走と追突で道路は塞がり、 飛行場では 上空旋回中の飛行機がオートパイロットになってはいたものの結局は燃料切れで墜落し、 着陸あるいは離陸間際の飛行機はオーバーランして炎上。 入港途上の船舶は衝突破損、転覆していた。
多くの工場でラインが破壊され、 電気の異常な供給過剰から発電所が緊急停止。停電の波及した地域では、 自家発電に切り替わる設備も多かったが 消費する側が切り替わらず電力を消費しつづけたために 限界を越して崩壊するところが相次いだ。 ウオッチドッグタイマの掛かっていた一部の軍事基地では自爆しはてたものさえある。

サードインパクト自体はシンジの意志によらず無くなったことにならなかった。

背水の陣から、生き延びようとする人々の意思は一つとなる。
補完計画を司った人々のうち、ゲンドウ、ユイ、ナオコ、リツコの意思はすでに消えた。 植物的な冬月の意思はキール ローレンツの意思に拮抗せず、 世界は縮小を続けながらも次第に変色して行く。

心の壁が消えて後、互いの感情の侵蝕は激しく、そして速い。 薄々知っていた世界の惨状を受けて生存の意志は強まり、共鳴する。 母体となった綾波レイがシンジの決断で補完世界と切り離されて 制御を失っていた補完世界は 全身に浸みわたる唯一の意志、生存本能によってようやく一つの生物たる資格をもつに至る。

アスカに感情で問いかけるや否や応えがあった。肯、肯、否認。
悟(これがミサトさんの言う第十八番目の使徒か)? イエス。
寂(アスカは参加するつもりか)? イエス。
哀(キョウコさんが参加できないことは知っているのか)? 認めない ──

シンジが再び問う前に彼女が耳を塞ぎ、眼を瞑る。 拒否の意志がほとんど物理的に感じられる嵐となって彼を襲う。 額、腕、腹、脚にうちつける重い風に彼は必死になって耐えた。 シンジには何時間にも思えた数分、‥‥ 実際にはおよそ十秒ほどの後にスイッチが切れたかのように凪ぐ。

ざらついた白霧がおちつくにしたがって 彼の足元の黒い砂が白く輝きを取り戻し、真夏のぎらつく空気が和らいでいく。 彼女がすっと幼く見えるようになり、その表情から刺が失せ、 苦笑と宥める感情が二人を包む。さらにその外側に寂しさを彼は感じとった。 アスカから溢れ流れて来る感情で彼女の母親のものと悟る。そして消えた。

再び襲う嵐にふいをつかれて彼は気絶した。


ふと気付くと、彼は見覚えのあるビルの屋上で立ちすくんでいた。 立ち入り禁止の帯を張った向こうにアスカが顔を伏せ膝を抱えてうずくまっている。 その背後にはエヴァ弐号機がビル街の中に放置され、 その周囲をクレーン車、ヘリが取り囲んでいた。
彼は思い出す。ここは第三新東京市、 綾波がロンギヌスの槍を使って高空の使徒を叩いた後のこと。 アスカがプラグスーツなのはもちろんとして、彼も当然のごとくプラグスーツ。 カヲルを握りつぶしたことを思い出し、彼は軽い吐き気を感じる。 二度と着ることはないと思っていたもの。

用意された舞台に説明書きはなく、彼はその中でどう踊るものかと首を捻った。 昔も今も彼自身は変わらない。出来ること、出来ないこともそう大きく変わるものではない。 かといってそのまま演じるのは既に知る罪に突き進むことになるのは明らかだった。
当時のなりゆきはある意味で必然である。彼にサイコロを振る余裕はなく、 あの成行きが「仕方なかった」ということだけは彼は自信を持って言えた。 だからといって誰が救われるという訳でもないことも今は知っているつもりでいたが。

「ママ」

微かに届く彼女の呟き声に彼は時が戻った訳ではないことを知った。 アスカも先程迄のアスカ。おそらくは惣流キョウコが消えたことを知るアスカ。 そして心も繋がっていない。 彼は意を決して帯をまたいだ。

「こないで!」

アスカが鋭く叫ぶ。一歩近付く。彼女からそれ以上の言葉はなかった。 そのまま 2 m ほど離れて並んで同じ格好でうずくまる。

「あんたなんか大っ嫌い」

補完世界での暴風と違い、その言葉は彼に辛くあたることはない。 言葉の意味としても、それは彼に受け止められる程のものでしかなかった。 「無視」では無かったから。

「‥‥ なんか言ったらどう?」
「‥‥ ここにいるから。ここがどこだか知らないけど、いられるだけ」
「‥‥ あの女は?」
「綾波? 綾波は、‥‥ 知らない。あの世界までは連れてきてもらったんだけど」

実際には無かった光景の一つのピースとして、彼はここにいる。 そのことに意味があるかどうかはともかく。 そして返す問いに意味は多分なく、彼は話の接ぎ穂に僅かに顔を綻ばせ、‥‥

そのまま彼は睡魔に襲われて眠り込んだ。


知らない少女が霧の中に独り、静かに佇んでいる。 シンジがふと、都会の街角に佇む人待ちと思うと、 何故かその思いに沿って周囲か形作られていく。 アスファルトの路面が姿をあらわし、 淡く広がった排気ガスとそれを通してくすんだ陽の光。 人通りの喧騒が響きわたる。
ただし、誰もいない。彼と少女以外には。

年の頃は 3 - 5 才か、青白い、色素の抜けた髪は綾波を彷彿とさせる。それに赤い服。
どこに行くでもない。ただ、じっと何かを待ち続けている。
恐ろしく忍耐強く、ほとんど動かない。人形とも思えるほど。

彼の視線に気付いたのか、振り向く。赤い瞳。‥‥ 綾波。
彼に興味を持ったのか、そのまま見つめている。

「‥‥‥‥‥‥」

間が持たない。彼は少女に歩み寄った。

「どうしたの?」
「みんな居なくなった。
一つめの私、二つめの私、三つめの私、‥‥‥ みんな、みんな。
また、一つになりたい。それが私の心」

彼は首を傾げた。

「‥‥ また、行くの」

問い掛けとも説明ともつけがたいイントネーション。彼を見上げる瞳には 確かに感情の色があった。けれど、それがなんなのか彼には分からない。 彼女の手は降ろされたままで何かを求める意志はない。
シンジはしゃがんで目線をそろえた。

「また?」
「覚えてないの?」

疑問、忘れられた悲しみから非難へ。しかし諦観の波がすぐに表情を薄く覆い、 解き放たれた感情は錨に再び繋ぎ止められた。

「あの人達はまた居なくなる。あの人はそれを知らない。私も居なくなる」

ユイとの別れの時、シンジは直観的にもう会うことはないのだろうと知った。 ミサトのペンダントもいつやったのか湖の岸辺の廃材に打ち付けてある。 一昨日別れた時のこと、それに補完発動直前のミサトとの別れは 思い出したくもないほどよく覚えていた。

「それは、悲しい、ね」

しかし、それは第三者的でもあった。

「君は?」
「くすくすくす ‥‥ 私は私、私は、他の誰でもない。
唯一人の、綾波、レイ ‥‥」

知らないことを知っている幼い子特有の得意満面の笑み。 そしてシンジを見つめる微笑み。
「三人目の綾波」が覚えていないのならば、彼女は「二人目の綾波」。 少女が、綾波自身もシンジ自身も持たなかった笑みを浮かべる。

「綾波、綾波なんだ ‥‥」
「私は死んだの。エヴァと共に」
「綾波、いっしょに戻ろう」

彼が手を差し出すと、それを避けるようにすっと軽くはね跳んで彼女が宙に浮く。

「駄目なのに、もう間に合わないのに ‥‥」
「あ、あやなみ ‥‥、綾波?」
「欠けた半分は私の中に居るわ。 ‥‥
さよなら。もう二度と言わなくてすむ ‥‥」


再び気付いた時、そこはアスカが消え失せた筈の丘の上。新横須賀の浜も見える。 先の岩の上にアスカが立ち、海を見下ろしていた。

「‥‥ 夢?」

彼女の突然の消失はどうしようもなく理不尽で、現実にあったこととも思えない。
そして、「綾波」との別れ。夢であれと願う心は強く。
渦を巻く時の流れの混乱の中で、 しかし、それが現実かどうかはともかく夢でないことはアスカの後ろ姿が示していた。 プラグスーツは着ておらずワンピースにかわり、頭にも右腕にも包帯を巻いていない。

「あんな女に助けられるなんて ‥‥」

緩やかな潮風にのって届く声に自己嫌悪の刃はない。

彼女が何を取り戻したのか、彼に知る方法はなかった。 心が切り離された世界ではもちろんのこと、 繋がった世界に於いても彼は知り得なかった。
補完されつつあった世界。他人との心の壁が否応無しに消え失せ繋がった世界。 「個」が結局は個人の歴史とそれに基づく価値観によって成るのであるなら、 たとえ互いの歴史を知り尽くしたとしても価値観が異なる「個」の間で 真に解りあえることはない。 歴史と価値観を等しくしてしまえば、補完が完結してしまえば、 そこにあるのは「個」々ではなく単一の「個」である。 そこでは相互理解すべき相手は「個(全体)」の外側に求められることになるだろう。

結局はどんな意識も孤独から逃れることはできない。

最初のレポートを記した碇ユイはもちろんそれを知っていたし、 冬月も理解していた。 「計画」はそれ自体では有意義なものでなく、時と場所を選ばねば何の意味もない。 原案の立案者である彼女が計画の否定を受容したのは、 結局は彼女が追求したのは幸福であって その容れ物ではないということも意味していた。 ただシンジが母親と交わした言葉はごく短く、 彼の理解がそこまで届くことはなかった。
拒否の時にも彼女が微笑んでいたのが分かった、彼には今はまだそれでよかった。

彼は目の前のアスカに考えを戻す。 つまり、彼は彼女のことを知らない。 彼女が取り戻した調和の中に彼のおさまる場所があるかどうか。 自分が気付いた(か、この世界に戻った)ことを彼女に知らせる。

「アスカ?」

彼女が振り返っていきなり水筒を投げてよこし、 彼は一、二度お手玉してかろうじて手に収めた。

「どんくさいわねぇ、なにやってんのよ」

彼女の呆れる声を甘受しつつ彼は受け取った水筒をぼんやりと眺める。 そして気付く。 注意深くなっていたことの恩恵、 投げてよこしても落して無駄にしないと彼女が思っているということ。 非常に些細なものではあるが、信頼のひとつのかたち。 彼は顔を綻ばせた。

「水、補給しとかなきゃね。近くに人は居ないらしいし。
ここの海岸の泥は食べられるのかなあ?」

彼女が目を見開いた。

「あんたバカ? その水筒、誰のだと思ってんのよ」
「誰の?」
「ファーストのよ」

全ての疑問が氷解した ── とはいかない。彼女の説明は短すぎて。 いきなり消えたり現われたりが可能なら、服のひとつやふたつすぐに換えられるのなら、 水筒のひとつくらい突然でてくることはいくらでもありえた。
アスカがレイのものと知っているのは何故か。
彼女がアスカの前に現われ手渡したのなら今いないのは何故か。
水筒がレイのものだとどうして彼の質問に意味がないのか。
不承不承、彼は分からないことを表情で認めた。

「泥が食べられるのも、水筒があるのも、 みーんなシンジとファーストがやったのっ!」

吐き捨てるように彼女が告げる。
同意反復で分かれというのが無理だと彼は思う。 心の断絶とまではいかなくてもコミュニケーションの不全には話す側の責任もある、 彼は暫くためらったあとで提案した。

「いま気が付いたばかりで良く分からないんだけど、 綾波が来るのを待ってるの? 綾波なら、どこにいても分かると思うけど。
こんな荒れ地は岐阜あたりまで続いてるみたいで、とても歩けそうにない。 目立つところで救助を待った方がいいと思うけど、アスカはどうしたい?」

一気に喋って息が切れる。呼吸を整えつつ彼女を窺う。

「‥‥ 別に無理しなくてもいいわよ。
まず第一に、海岸の泥は食べられるわ。湖のよりマシらしいわ。
第二に。二日ほどすれば救助のヘリがこの海岸に着く。
ファーストが夢枕に立つんだってさ」
「あ、そう ‥‥」

分かったことは彼女が喋ったつもりになったことの半分にも届かないだろうと 彼は想像したが、最低限のことは知ったので彼は気を殺がれつつも押し黙った。
どんな決心をしようと、何をどれだけ深く誓おうと、 現実はすぐには変わらない。もっともそれは、目の前の彼女にもいえた。
ふと気付いて尋ねる。

「でも、あんまり怒ってないみたいだね」
「ふん、約束だからね。レイとの」

やや不満そうな、しかし口にしないあたりが今までと違う。 彼は少し興味を抱いた。

「約束?」
「あんたには関係ないわ」

にべもないあたりはどこまでもアスカだったが。


彼らがヘリで救助されたのは、それから三日後のことである。
その間に世界情勢は一変していた。


次回
これから

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