Genesis y:26 力
"Shadow in the darkness"


竜宮城から戻った彼は、村のあまりの変貌に驚きました ──
アルがそれを目にした時、まず思ったことがこれだった。

「『ウラシマ効果』 ‥‥ なはずないな」

一週間前に、初めてこのマンションの前に立った時は、 建設途中で放棄されたビル以外のなにものでもなかった。 今はタイルもきちんと張り付けられ、一人前の姿になっている。

「外装工事、終ったのか」

よく考えてみれば、一週間もあればこれくらいの工事はたいしたことはない。 それが非現実思考にまで走ったのは、工事が再開される様子がなかったのと、 工事の順番が非常識だったからである。

「人が住んでから外装工事やるとは思わないよなあ」

彼がそう自分の思考を分析しながら見上げていると、後ろから声がかかった。

「あら、アルじゃない?」
「おや、アスカ?」

アスカが手に抱えているのは、食料品の袋。 それに目を止め、アルは意外に思った。 アスカが綾波レイのために買いだしに出かけた ‥‥?
彼の不審そうな目に、アスカが口を尖らせた。

「‥‥ そんなに変?」
「いや、他人の面倒見が良い、という覚えはなかったから。 それ、手土産としてアスカが持つには意外だったからね」
「手土産? ああ、アルは知らなかったの? こっちに引っ越したのよ ‥‥ って」

彼の言葉の意味するところに気付いて、アスカが目を細める。
状況を把握したアルは顔色一つ変えはしなかったが、僅かに口ごもった。

「‥‥ っと」
「‥‥ アル ‥‥?」

数秒見つめあったが、 アルが先に折れる。彼女の頭を一回、軽くなでて。

「でも、事実だったろ? ‥‥ 今は別として」
「ん」
「で、どこに住んでるって?」

アルは話題を変えて、入口をくぐった。
アスカもその後に続く。

「403. レイの隣よ。 そういえば、アル、あなたレイに用事?」
「ちょっとな」

チルドレンが二人も住むとなれば、 外装工事くらい、それはそれは真面目にやるというものである。 彼は内心で頷いていた。
エレベーターのドアが開き、アスカが先に乗り込んで振り返る。
アルが乗りこむのを待ってドアを閉めながらアスカが口を開いた。

「アル、あたし、まだ礼言ってなかったわね」
「へえ? ‥‥ 特に何かした心あたりは無いが」
「あなたでなきゃ、あたしはここに戻ってこれなかったと思うから。 ‥‥ ありがとう」
「‥‥ それはどう解釈すればいいんだ? 僕が無能だということか?」
「今もまだドイツから呼び戻しの命令が来ない。
これは、あなたがやってくれたんでしょ? 違う?」

アルは苦笑した。しっかり読まれている。
エレベーターの壁にもたれ、アスカに向き直って告げた。

「この貸しは、そのうち返してもらうさ」


4 階でエレベーターは止まり、二人は降りた。
最初のドア ‥‥ 401 の表札に「碇」とあるのを彼は目にとめた。 チルドレン三人ともをここに集めたらしい。 一昨日あたりから始まった保安局内のチルドレン誘拐対策の評価との関連だろうか、 一種の戦時下にあることをそれは示していた。

「見れは分かるけど、そこは」
「碇シンジ君の家、というわけだ」
「そ」
「彼は在宅?」
「さあ? 知らないわ」

それにしても碇シンジまでここに住まわせなくてもよさそうなものである。
碇シンジがもともと住んでいたところは司令の自宅であり、 防御監視とも最高水準にあったはずで、 どちらかといえば綾波レイを二人の家のそばに住まわせる、 というのが方針として正しい。
アルはそんなことを思いながら、402、「綾波レイ」の表札のドアの前に立つ。 呼び鈴も直されただろうか、押してみる。

ピンポーン ‥‥

「鍵、掛けてないのは相変わらずよ」

彼の行動をドアに手を掛けたまま眺めていたアスカが横から口をだした。

「建物は変わっても、人の心は変わらず?」
「‥‥ そうでもないわ。いろいろと変わったもの ‥‥」

目を伏せたアスカをアルは少し不思議に思ったが、 その場で問い返すことはしなかった。
‥‥ 中からレイの返事があったので。


「驚いた?」
「驚いた。もしかして、今まで虐待されてたのか?」

チルドレンの残り二人が引っ越して来たことによって改装されたのであれば、 今までは無視されてきたということに他ならない。
アルはレイに、半ば本気で尋ねた。

「別にそういうことじゃないと思う。
ここがこういう風になったのって、 二人が引っ越してくる前だもの。
ここが住めるようになったからって、 引っ越してきたのよ」
「‥‥ そりゃ酷い言い草だな」
「そう? あなたもそう思ってない?」
「正直言って、そうかもなあ。前来た時は驚いたもんな」

それは、どう考えてもスラムの住居だった。 ネルフ最重要人物の一人が住むところでないことだけは確かである。 綾波レイ、のことについて彼は一通りのことは知っていたから、 そのマンションの現実は予想の範囲ではあった。 しかし、まさか内装までコンクリートむき出しのままとは、 家具といえば冷蔵庫とベッド位なもの。 見通しが良すぎてカメラも盗聴器も置く場所がない。
どちらも近付けば コンクリートに埋め込められたカメラで記録されるのは明らかだった。

「じゃ、なんで突然?」
「私が頼んだの」


突然、彼は悟った。
これは一週間かけての工事で改築されたものではない。 綾波レイ自身による、再構築。デザインもなにもかも。

一度は感じる、ネルフへの畏れ ‥‥ 彼が今まで一度も感じず、 そういう感想を述べる他人を嘲っていたそれを、アルは今初めて感じていた。

「碇博士。この街はよくないよ。もし他の人が気付けばそれは麻薬と同じだ。 想像を現実として生きていけるなんて」

相対立する「想像」、 つまりは欲望の利害調整などで結局は新たなバランスが生まれるだろう。 しかし、そこまでの道程も、そして生み出されるだろう世界はどんなものか?

「連中も部分的に正しいのかもしれない」

アメリカ支部のプロパガンダ。
補完計画は、ネルフ本部の覇権への道そのものであり、 それは修正されるべきものである ‥‥
寒気。彼は自分の腕にちらと目をやり、鳥肌の立つのを見て舌打ちした。
本部の力の深淵。を覗きこむ。想像を絶するという形容では足りない、 その力の一部を垣間見た。彼は人知れず震えていた。


「‥‥ あの人、どうしてここへ?」

世界の狭いレイにとって、アルは渚カヲル以来のひさしぶりの「新しい他人」だった。 そして無関心と好奇心がレイの心の中で現在のバランスに達してからの、 初めての他人でもあった。

「‥‥ アスカ」

予定外の加速要因。
碇司令、ユイ、シンジと自分の関係が切れてしまっている今、 そろそろと試行錯誤する暇が欲しいが、 彼女はシンジにも自分にもそのような機会を与えずに 物事を明らかにする方向に動くだろう。

「司令 ‥‥」

「綾波レイ」が養育者ゲンドウから見て必ずしも必要でない、 ということを知ったことは、レイにとって一つの転換点でありえた。

自分が唯一の「綾波レイ」であることはレイ本人も時々忘れる (というよりたいてい忘れている)が、 碇司令がそれを忘れて自分に何かを要求する訳はないから、 良く考えてみればレイ個人のみならず、「綾波レイ」そのものを危機に晒しても、 という意図が司令にあったことは確かである。
この違いはレイにとって大きかった。

レイ個人そのものはレイ自身にとって重要ではなく、 当初、この命令を問題とする意識はレイには無かった。 レイのメンタリティとして「綾波レイ」の存在意義には興味があるが、 自分個人の存在意義には興味がない。 そして、従来「綾波レイ」の存在意義が揺らいだことは一度もない。
ゲンドウの命令はレイが唯一の「綾波レイ」である今 「綾波レイ」そのものを対象とした命令である。
それに気付いた時、それは レイが唯一の「綾波レイ」であることを実感すると同時に、 「綾波レイ」といえどもその存在意義が揺らぐことがあるという、 レイの中で一種、神格化されていたことを意識するきっかけとなった。
「‥‥ 恐い」

闇の中、独りレイは震えていた。
ふと顔を上げる。
いつもなら第三者を装うその質が、レイに立ち入らない安心感を与えていたはずの コンクリート剥きだしの壁や天井が、ひどく冷たいものに感じる。
レイは初めて、この壁が皆に驚かられていた訳を理解した。

「変えよっと」

多分、それはそれで皆は驚くだろう。 枕に顔を伏せながら、レイは少し、微笑むことができた。


第 27 話 次回 道標

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