Genesis y:24 唯、母親として
"Mother is the first other."


始業式の朝。
アスカは久しぶりに中学校の制服に身をつつみ、 シンジの家のドアの前に立っていた。

「ん ...」

昨日は本部での事情聴取やら ID カードの書き換えやらで丸一日潰れ、 シンジとは顔をあわせていない。
喧嘩別れ、というほどのことは無いにしても少し、気まずい。

「すぅ ...、 はあ ...」

深呼吸ひとつ。
呼び鈴を見つめる。

「... よし」

ぴんぽーん ....


アスカがユイに招き入れられて家の中に入ると、シンジはすでに食卓についていた。 パンを片手にしたまま、アスカと目が合う。

「あ、アスカ、おはよ」
「.... なんであんたが起きてんのよ ...?」
「あ、だって、.... えーと、ごめん」

シンジが起きている場合に恒例化したやりとりにアスカは思う。 もちろん彼女がシンジを起こしにいくという習慣は例の実験以後のことで、 これも実験の影響の一つには違いない。
しかしアスカには、これを頭から否定する気は無かった。 実験が終った後にユイから頼まれて起こしにきている訳であり、 実験からの影響というなら止めるのはいつでもできる。

「... なんでこれでいけないのよ」

パンを慌てて飲みこんでいるシンジを眺めながら、アスカは思った。
ぼうっとしているアスカの前に、ユイが紅茶を置く。 微笑むユイに礼を言ってそのカップを取り上げる。... ほとんど無意識に。 手に取ったカップを口につける直前、そのことに思い当たるアスカをシンジが見つめる。 アスカもそのままカップからシンジに視線を移し目が合う。
お互い、目が笑っていない。無言のやりとり。
シンジがようやく目の前のパンをすべて片付けたのを一瞥し、 カップを置いたアスカはユイに振り向いて微笑む。

「ごちそうさまでした。
.... ほら、シンジ、行くわよ!」
「あ、まってよ、..... いってきます」
「いってきます!」
「いってらっしゃい」

いつもながらの風景が、そこに再現されていた。
心の中は別として。


ドアの音にヒカリが振り返ると、そこにはアスカの姿があった。
黒板消しの手を止め、親友を見つめる。
目を丸くするヒカリにアスカが微笑みかけ、手を上げる。

「ヒカリぃ、おはよ!」
「.... アスカ!? お帰り!」
「ただいま! 元気してた?!」
「向こうはどうだった?」
「ものすごっく退屈だった!」

アスカの後から教室に入って、 シンジも席についた。前の席のケンスケが椅子ごと振り返る。
新しい教室での席の配置はとりあえず名簿順ということになっていた。

「惣流、帰ってきてたんだな」
「うん。おとといか、その前くらいに」
「ていうと、元箱根の爆発絡みでか。... 相変わらず大変なんだな」
「.... うん」

組替えは無く、その理由をシンジは知っていた。
もっとも、去年ならともかく今年は組替えをやっても良いはずだと思わないでもない。
シンジは少し寒気を感じた。
フォース、フィフス。そして、この教室の中から将来のシックス。

「トウジは?」
「ああ、あいつはまだだ」
「へぇ、珍しいね」
「... 全くだ。シンジより遅いなんてな」

シンジは苦笑を返した。
教室の教卓の横では、まだアスカとヒカリの立ち話が続いている。

「‥‥ でね、さっさと帰って来た訳!」

ヒカリが声を顰めて、軽く咎める。

「あら、誰かさんに早く逢いたかったからじゃなくてぇ?」
「あ、もちろん、ヒカリに会いたかったからにきまってるじゃない!」
「‥‥ 碇君は?」
「なんでシンジがでてくんのよ?」
「アスカってば ... また、逆戻り?
遠距離恋愛はいい雰囲気だったみたいなのに」
「.... 違うわよ」

たった一週間前が物凄く遠く感じる。

「ヒカリは ‥‥ いいや」


‥‥ エヴァの起動の安定化は関係者の悲願だった。 実験終了時の環境激変のショックの処置は難関だった。 肯定的なものの見方を継続させるのは、 今回の被験者ほどに精神に手を入れた場合、不可能と言ってよかった ‥‥
精神の再建そのものが「実験の後遺症」の一つであって、‥‥


帰り道。
風が舞い、アスカの制服のスカートを舞い上げる。
上を見上げれば、空は蒼い。... 偽物の空。
この街には絶対君主が居るのだと、アスカはあらためて思う。 反抗する者の記憶、感情を奪うことができるなら、 その権力は計り知れない。

「でも ....」

しかし、シンジと違い、アスカは一度はユイを許していた。
半年もの間、事件であると認識しなかったシンジと違い、 アスカの場合は 当初からこれは「洗脳」の名で呼ぶべきものであることを知っていた。

「バカシンジ。人の話、ぜんぜん聞いてないんだから」

退院したその日のうちにユイを追求し、それ以上のことはしないと約束させた。 退院祝いの宴会だったから、シンジはその場にいたはずだった。

「... 今ごろになって、なんであんたが怒るのよ」

それが自分に与えた影響が、悪くは無かったと考えたからこそ、 その場で許すことができている。
しかし、... アスカは思う。 自分はほんとうに考えたのだろうか。 シンジの言うように、自分さえも信じられない時に、考えるということは どういうことを指すのか。

「我思う。故に、我在り」

考えているのが自分でないなら、自分はどこに在るのか。

「シンジ ... 分かってる? どういうことだか ...」

一度は許したのだと、ゆえに追求するのは間違いだと、言うこともできる。
しかしそれは、本当は、自分が「恐い」から、あとからつけた理由にすぎない、 ことも、もう分かっている。半年前、いや今も、... アスカにとって、思い出したくもない事件ではあるのだ。 それを、シンジは揺さぶった。

今になってシンジが言い出したということはさておいて。

「レイも知っている、.... のね、もちろん」

そうでなければおかしい。 レイは今日、学校を休んだ。アスカはレイのマンションに向かった。


「コードネーム P-001-c: Ayanami, R. ‥‥ つまりレイちゃんからさきほど驚くべき電話があった。
『力を使っていいか』というものである ‥‥
理由を尋けば、部屋の改装。 私は 20 秒だけ警報の回線を切ることでそれに答えた」


アスカは内心の驚きを押え込んでいた。
レイの方は、そういうアスカの表情を楽しそうに眺めている。

「あんた、学校休んで何やってんのかと思ったら ....」
「どう?」
「どう、じゃないでしょうが」
「ユイさんに許可とったもの」
「あ、... そ、そう。おばさまも何考えてんのかしらね ...」
「アスカ?」
「... あんたは何でシンジがおかしくなってんのか知ってんのよね?」
「... 知らない」
「とぼけなくてもいいわよ。 あたしも知ってんだから。バカシンジが口滑らして」
「そう」
「で、あんたはどう思ってるわけ?」
「私は私よ。一人目も二人目も、今も昔も、私だった私はどれも私。 .... 私が恐いのは、まだ知らない私が居るかもしれない、ってだけ。
明日、このベッドから起き出す私が私でないかもしれないってことだけ」


「LCL 内への干渉ができることは以前から分かっていた。
精神汚染という現象がそれである。 私は赤木リツコ博士の報告書に目を通しただけだが、 第十六使徒「アルミサエル」がファーストチルドレン(綾波レイ; P-001-b) に対してエントリープラグごしの安定な干渉に成功したらしい。 現在はアルミサエルが行なった干渉経路は塞がれ、 この方法による外部からの干渉は防御されている。
これに対して、第十五使徒「アラエル」がセカンドチルドレン(惣流アスカ) に対して行なった干渉は未だ解明されていない。 いまのところ、 人が干渉できるのは、LCL 内でシンクロ率が十分に高い場合に限られ、 当時シンクロ率の低かったアスカに対して空間を隔てて干渉が行なわれたことは 驚異に値するとともに、将来の形而上生物工学の先行きの明るさを 暗示させるものである」

「新第三新東京市(現 第三新東京市) の完成とともに行なわれた都市規模精神干渉実験の成功は、 外部からの精神干渉が実用化段階に入ったことを示していた。
理論上、同時に多数の人々の心に干渉できることは知られていたが、 それが実用になるかどうかは別問題である。 洗脳プログラムにはバグが潜むだろうし、干渉には雑音が混じる。 時間が経つにつれ、誤差が指数的に大きくなっていくことは、 いかにもありそうなことだった。
記憶の想起性と記憶相互の論理関係の自己修復能力が 誤差の拡大を抑える方向に働き、その効果が有意であることが確認されたのは、 この実験の成果である。
人は、自分の思考、感情、記憶に多少の疑問が生じたとしても、 周囲の人々の経験、記憶、記録に合わせて自らの記憶を再調整する。
『裸の王様』効果と名付けられたこの性質は、 破綻に至るまでの時間を、実に 9.7 倍に引き延ばした。 その引き延ばし率も事前の推算値の誤差範囲に収まり、 基本理論の検証は済んだと考えていいだろう ‥‥」


  「... そもそも、どうやるつもり?



パァーン ....

  「それくらい知ってるわよ! 分かってないのはあんたよ!
   あんた! ほんとに分かってんの! 自分で何言ってんだか!」
  


  「違う、あんたのことよ」

  「あたしはっ、.... それでも良いって、言ってんのよ。
    あたしの、コトでしょ ....? あたしがこれで良いって言ってんだから ....

   「あんたバカ...?
     思い出すのが恐いたって、たかが知れてるわよ .... あたしが恐いのは ...
   「...?」


被験者 Sohryu, A. L. ‥‥ つまりアスカちゃんの場合、 あの忌まわしきロボトミー手術等、‥‥」 「当時、私の能力も不安視されていた時のことではあるが、 拒食症で衰弱死に至ることが確実視されていたアスカである‥‥ 『セカンドチルドレンを再生する』といった大義名分に反論できる者は どこにもいなかった‥‥ 」


「で、時間を逆に回して昔に戻りたい訳?」
「でも、しょうがないじゃないか! 」

そう、もちろん、そんなことは分からないよ。 でも、どう変わったのか、それを知るだけならなんとかなる。 洗脳。 やめて。そんなこと言わないで。 アスカなら、できるんじゃないの? どう違うか、も知らなくて、 アスカ、ごめん。僕が知りたいだけかもしれない。


「被験者 Ikari, S. ‥‥ つまりシンジの場合、
罪悪感はさらに少なくてすんだ。
彼に行なわれた調整は、本質的には他の大多数の人々のそれと同じだった‥‥


アスカの表情を眺めるにつけ、シンジも怯みそうになる。
アスカが「恐い」というそれは、シンジもまた恐かった。 「どうしてそれでいけない?!」というアスカの叫びもまた、一つの真実であって、 シンジにはそれを否定するだけの理屈を持たなかった。 ただ、綾波の顔が思い浮かぶのみ。 自然とアスカに手が伸び、アスカを引き寄せる。 シンジの握った手の力は意外に強く、 アスカにはふりほどけなかった。

「放しなさいよ!」

言葉とは裏腹に、その(アスカの)腕には力は入らない。

「なんでそれじゃだめなのよ!」

半狂乱になっていくアスカ。

「嫌。‥‥ 恐い、シンジは知らないでしょ? 病院で、独りじっとしてる恐さ、 だから、そんなこと言えるのよ‥‥」

アスカを抱き寄せた。

「僕を、信じて。んと、信じなくてもいいから、 アスカの、自分の強さを信じてあげて。 僕はアスカを信じてるから ‥‥」
「そんな無責任なこと言わないでよ ‥‥
あんなことがあって、 どうして自分を信じていられるのよ ‥‥ あたしなんかを」
「ごめん、アスカ。僕はもう、どう言ったらいいのか分からない。
僕は、カヲル君を殺したよ。今でもその時のことは夢にみる。
カヲル君を殺した罪は罪として、僕は生きていく」
「でもね、アスカ、僕が今も恐いのは、‥‥ あの時、掌を閉じるか開けるか‥‥ 考えるのが嫌で殺しちゃったかもしれないことなんだ。
アスカ、‥‥ お願いだから、自分のことから逃げないであげて」

アスカはシンジの手を握ったまま、壁にもたれて目を閉じた。 最初はいぶかったシンジも、アスカの額から汗が流れおちはじめるのをみて、 何が始まったのかを理解した。
「アスカ ‥‥」


「こうして、精神干渉実験の、最後のステージが終了した。 現在、碇シンジ、惣流アスカの両名は、旧住所を離れ、 綾波レイが『改築』したマンションの、 彼女の部屋の両隣 2 軒に移っている」

「アスカちゃんがいきなり引っ越しの挨拶に来た時は驚いたものだ ‥‥ たぶん、表面は平静にあれこれ面倒をみてやれたと思う。 私は、ただ、最後にひとつだけ聞きたかった言葉が聞けたことに満足するしか ないのだろう ‥‥」


「‥‥ 私のことをどう思ってる?」
「大好きです。今も」


第 25 話 事実と真実の狭間に揺れる思惑! 「敵」として信頼するからこそできることもあった。 次回 信頼の名の下に
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