Genesis y:17 第二の LCL 化都市
"Muenchen, the second LCL-city"


ミュンヘンでの作業はなお続いていた。
第三新東京市と違い、LCL 化を前提としていない都市のため、 交通網や通信網の調整等には時間がかかった。
昨日ようやく最初の新ミュンヘン世界へのエレベーターがいくつか完成したばかり。

今日は、アスカは三日ぶりの新ミュンヘン市の散歩に来ていた。
車やバイクの持ち込みは誰も許してくれなかったので、自転車。

「自転車だけなんてふざけてるわよねぇ」

まだ電車もバスも動いてない。

「これじゃ、どこにも行けないじゃない」

もっとも、どこに行ってもまだ大したものはない筈。

「別に工事をやってる様子もないのに、来る度にちょっとずつ景色が変わってる、 というのも変な気分ね。暑かったり寒かったりするのには慣れたけど ‥‥」

ミュンヘン市はいまも雪が降っているはずだが、 こちらはまるで第三新東京市のように暑い。

「ふうん。あれね ‥‥」

市街境界のアウトバーンが見なれた方向ではなく、一度、不自然に丘に向けて曲がり、 トンネルにもぐっている。
新ミュンヘン市の場合、 ミュンヘン市の外へ向かうアウトバーンは境界でいったんトンネルをくぐる。

「ということは、境界はどうなってるんだろ」

新市にいるときは興味をもったことはない。あまりに風景が同じだったので、 ついその先も同じものがあると思っていた。

「ああ、なるほど」

山の形が微妙に変わっており、市全体が盆地の中にあるようになっている。
そして立ち入り禁止の柵。しかし ‥‥

「日本語で書いてあったってしょうがないと思うんだけど」


「新ミュンヘン市の下地はどうなりましたか?」
「いまのところ、あなたの事前予測範囲内のようですよ。伊吹博士。
やはり、気候の問題はあるようですが」
「それは仕方ないですね。四季を経験したことはないんですから」
「その点に関する修正と、 その他、二、三みつかったバグの修正にそろそろ入りたいのですが、
彼女の精神状態に問題はありませんね? アレク?」
「元気いっぱいに私に反抗してますよ。問題無いでしょう」
「バグの修正に 2 日、悪く見積もって 20 日。気候に関する修正は ‥‥」
「そのバグというのを止めてもらえませんか? アスカの心象風景としては正しいのですから」
「しかし我々の希望した仕様からは外れる。ま、いいでしょう。
確かに現ミュンヘン市と繋ぐための施設が現ミュンヘン市にある訳ないですからな。
‥‥ インターフェースの建設には明日から?」
「そうですね。今日は、残念ながら無理でしょう」
「それにしても、これなら一から自前で造った方が簡単だったのでは?」
「‥‥ 君は体験したこともないハリケーンの渦に巻き込まれたいかね?」
「いや、けっこうです ‥‥」


ミュンヘンに戻って、アスカはマヤに柵のことを告げた。あまりに間抜けすぎる。

「臨時の柵だから気にしなくてもいいんだけど。
‥‥ でも、日本語? アスカ、日本の立ち入り禁止柵に何か思い入れでもあるの?」

マヤが首を傾げている。

「‥‥ 別にないと思うけど ‥‥ なんであたしが?」
「だって、新ミュンヘン市は、もともとアスカの心の中にある街だもの。
アスカがミュンヘンをどういう街だと思っているか ‥‥
そういうアスカのイメージそのままの街になってるはずなの。
立ち入り禁止柵も ‥‥ だから、本物と違う、 そういうのはアスカの意識か深層心理が働いてるはずなんだけど」
「‥‥ あたし、ミュンヘンが盆地の中にあるなんて思ったことないわよ」

境界を山で囲むという考え方はアスカの気にいった。けれど、 決して自分で考えついた訳ではないと思う。

「あ、それは私達が臨時に造ったの。 柵もそうだけど、境界がある間の臨時のものだから、気にしなくていいの」
「境界がある間?」
「新市で、境界を見に行ったことある?」
「ないけど」
「でしょ。ちゃんとそうなってるの。 街が出来上がってしまえば、境界のことを気にする人は居ないはず」

良く分からない。こんど新市に戻った時に見てみようとアスカは思った。

「それにしても、新市 ‥‥ 新第三新東京市を造る時もこんなに面倒だったの?
あたしは入院してたからよく知らないんだけど」
「旧市自体がね、それを前提にして造られてたから。
そのかわり、新市を造る時は秘密裡にやったから、 さりげなく通信網とか置き換えるのに苦労したのよ ‥‥」

マヤの言葉の調子にその時の苦労が伺えた。

「新ミュンヘン市もね、 アスカがこっちに引き上げた次の日くらいには出来上がってたんだけど、 アスカのイメージと、本物のミュンヘンってやっぱり少し違うじゃない? それが気に入らなくて直してるのよ」
「つまんないところに拘るのね」
「こういう細かい所に拘るのが、ミュンヘンでやっておく実験なの ‥‥
新市で記憶について実験したように。あ、ごめんなさい」
「いいわよ。別に」

口を手で抑えるマヤに、アスカは手を振った。もう終ったこと。

「都市レベルで出来る実験は、このミュンヘン市で最後になるの。 新ミュンヘン市はアスカがいるかぎり割と簡単に造り直しがきくから。
次の都市からは、ちょっといじって破綻させちゃったら、 白紙から造り直しになるのよ。そういうのはちょっとね ‥‥
だから物理的にどれくらいいじれるか、という実験は、この街でやっておくの」
「ふうん」
「本質的には ‥‥ 同じことなんだけどね。 街自体が心の中のイメージだから、 街を変えるのと心を変えるのは同じことなの」
「あれ? 新市は誰のイメージ?」
「ユイ博士がマギからのデータを眺めて作った街、みたいよ。
あたしが実験に参加したのは新市の骨格ができた後だから良く知らないのよ。
でも、 新市のデータは全部マギに入ってるから誰が作っても同じになったでしょうね」

新市でアスカは思い出した。向こうはトータルで一ヶ月の工事期間だった。
こちらは、なにやら余計な工事が入ってきたという不安材料が増える。

「ところで、いつまでかかるの? この工事 ‥‥ だか実験だかは」
「工事そのものは 3 月中には終らせるわよ」

やけにきっぱりとした言葉。の割には、 日本での人達はみな言葉を濁していたはずなのがアスカは不思議に思う。

「‥‥ 何で?」
「4 月の頭に『春の祭典』やるから、それに間に合わせるって約束なの」
「‥‥ 何よ、それ」
「17 年前 ‥‥ セカンドインパクト前まではあったお祭りよ。 もとは『復活祭』って言ってたらしいわ。
この辺はもともと寒い地方だったんだけど、春がきてあったかくなるのを、 楽しむ、っていうお祭りがあったの。
LCL に沈めてしまえば、外の気候は関係ないものね。インパクト以前の 4 月らしい気候にして、おまつり楽しもうってことで市の人達説得したのよ。
インパクト前の気候を知らないアスカが作った街を、わざわざ作りかえてる、 っていうのはつまりそういうことなのよ」
「‥‥ 無っ駄ぁ ‥‥」

つまり余計な工事で帰るのが遅くなっているということになる。
迷惑そうなアスカの表情をみてマヤがたしなめた。

「被選挙権を持つほとんどの人が インパクト前のこと覚えてるってこと忘れちゃだめよ。
まだ世界はインパクト前のこと懐かしみながら動いているの」
「そう言うマヤはインパクト前のこと覚えてるの?」
「‥‥ 日本でも時々雪が降ってたとかそういうことはまだ覚えてるわ。
雪を見るのなんて 16 年ぶり」
「ふうん」

四季、あるいは季節。気温、湿度それに天候などの一年を周期とする変動。
そういう言葉はアスカも知っていたし、
一日の平均気温が 20 度も変わる (場所によっては 50 度以上も変わることがあったらしい)、 といった大規模な変動があったことも知識の上では知っていた。
ただ、アスカにはどういうことなのか想像できなかっただけで。 ましてや有難味に至っては。

「半年ごとに気温がおおきく変えるなんて、 なんでそんな面倒なことをわざわざやるの?」

マヤはまだ小さい頃にはあった四季を覚えていたが、 どういうものであるかを四季を知らないアスカに説明できる自信はなかった。
少し考え込む。

「そうねぇ、アスカ。
ドイツに戻ってきて、ドイツの雪をみて懐かしくならなかった?」
「やっぱり降ってるな、とかなら思ったけど」
「しばらく降ってなかった雪が、1 年たってまた降ってきたら、なんとなく 『おひさしぶり!』って感じにならない?」
「んー ‥‥」
「逆に、うんと寒い日がつづいてたところへ、半年ぶりにあったかくなって、 半袖とかノースリーブの服で外へ出られるようになると嬉しくならない?」
「あ、それなら分かる。 でもそれって、半年後には、また寒くなるってことでしょ?」
「こんどは地元でスキーができるようになる」
「ふうん」

金と時間と手間をかけてまでやることかどうかを別として、 それを嬉しく思う人々がいることは、アスカにもなんとなく理解できた。

「で、それをエサにして釣った訳ね。 日本を発つ時になんでそのこと教えてくれなかったの?」
「こっちに来てから決まったことだもの。日程、詰めてるのよ ‥‥」

要するに日本ではみな黙っていたのではなく、 誰も知らなかったということであるらしい。
あまりの無計画性にアスカは呆れた。


新ミュンヘン市の建設の報告は新市にも届いていた。
順調ということ。
ゲンドウは久しぶりにアダムの前に立った。

「アダムよ。我らはお前との賭けに勝つ。我らは生き延びる。
セカンドインパクト ‥‥ あれは我々の過ちだった。それは潔く認めよう。
死海文書の記述、もはや我らに従わせるだけの力はお前に在るまい?
使徒すでに無く、ロンギヌスの槍は誰の手にも届かぬ宙にある。
インパクト起こせしゼーレはすでに罰を受けた。
その場より逃げし我はいまだ煉獄にありて、その身を焼く ‥‥
アダム最後の自由意志タブリスの言、
まさに我らが生き残るべき、との返答確かに受け取ったぞ」

ゲンドウにはアダムが微笑み返したように見えた。

「‥‥ そうか。まだ認めぬか? ではそこで見届けるがいい ‥‥ 我ら人類の繁栄を。 そして、新たなる神の誕生を」


「まもなくだ」
「ミュンヘンはどうする?」
「ほおっておけ。第三新東京市に向けておけば十分だ」
「そうだ。奴の居る所に向けなければ、なんの意味も無い」


「冬月」
「その顔は ‥‥ なんだ、またゼーレか?」

ゼーレからの電話を切ったあとのゲンドウの顔つきにはある種の特徴があって、 すぐに分かったものだが、 ここのところ、鳴りを顰めていた連中のことを きれいさっぱり忘れていた冬月はその表情が示す意味を一瞬思い出せなかった。

「そうだ。またぞろ死にぞこないが騒ぎ出したな」
「ゼーマン副議長の取りまとめが案外うまかったというところか?
意外に有能だったんだな、あの男。 お前も意外だろ? キール議長以外は雑魚扱いしてたからな ‥‥
で、今度は何だ」
「槍だよ。ここに落す、と言って来た」
「‥‥ 早いな。こちらの予定より半年というところか?
どうするんだ」
「延期してもらうさ。ドイツの連中もそれほど無能ではあるまいよ」
「間に合わなかった時は?」
「その時か? その時は仕方あるまい」

冬月は顔をしかめた。

「向こうにはちょうどセカンドチルドレンが居る。 エヴァ弐号機を送って支援させたらどうだ?」
「ロケットに体当りでもさせるのか? 冬月。 それにエヴァの遠隔地運用技術を他の連中に渡す訳にもいかんさ」
「では、ドイツ支部がうまくやるのを祈るだけかね?」
「こちらも準備はしておく。問題は無い」

そのこちらの準備の内容が問題だ。冬月は思ったが、口には出さなかった。
槍が落ちて来る場合、まだ彼女を逃がすことができないのも確かであり、
取れる手段はそう幾つもあるものではなかったから。
‥‥ 人道に悖る方法を含めたとしても。


攻撃予告の報はドイツにも届いた。阻止せよ、との命令付きで。
それをたまたま耳にしたアスカは、アルの部屋に殴り込みに向かった。

ノックもせずに飛び込んで来たアスカを、アルは見もせずに、 向かっていた端末のディスプレイの電源を落して、振り返る。

「いけないなあ ‥‥ ノックもせずに諜報部の人のところに入るのは」
「だったら、ちゃんと鍵くらい締めときなさいよ。危ないんなら。
‥‥ ごまかすんじゃないわよ。槍が落ちて来るって本当なの?」
「あれ、なんでアスカが知ってるの?」
「あんたが教えてくれないからよ!」
「しょうがないなあ、‥‥ そのとおりだけど。それで?」
「それ、どういうことよ!」
「‥‥ だから、
宇宙にあるロンギヌスの槍を第三新東京市にぶつけるぞ、
って予告があったんだってさ」
「誰が、どうやって!」
「それは知らない。
そもそも、どうやって月軌道の近くをうろついてるようなものを 持って帰ってくるのかどうするのか知らないけど、 どうしたらそんなに精密に落とせるんだろう。
大気の密度変化があるとそこですぐ跳ねちゃうと思うんだけどねぇ」

アルが首を捻るが、 その辺については幸か不幸か問題無いとアスカは思う。
成層圏の使徒を貫くことができるなら、 逆に成層圏から地上の物体を貫くこともできるだろうから。
ただ、誰が、という問題はそのまま残る。

「‥‥ そういえばそうね。ネルフだって槍、いままで持ってかえろうとしてない、 ということは、ネルフにもそんなことできないってことでしょ? そもそも例えばロケット飛ばす力のあるとこ、ってあるのかしら ‥‥」
「だから知らないって。うちの連中 ‥‥ 1 課や 2 課が なんかあわただしくしてるから、 こっちで何か情報集めでもするんだろ?
本部がこっちに指令をだしたんなら、 向こうよりはこっちの方が対象に近いってことだろうし、 そのうち何か分かるよ」

ふと、新市でのエヴァの襲撃のことが頭に思い浮かんだ。
あれは使徒ではないという。あれを送り込んだところと同じ?

「まさか ‥‥ ね」

エヴァンゲリオンを造るのは、全てネルフの管理下であったはず。 ネルフ本部と、それに多分ドイツ支部を除いたネルフ支部が、 本部に秘密で何かやっている、とか?
しかし、本部に出来なかったことが他の支部で出来るとも思えない。 このドイツ支部でさえ本部ほどの資金はないとアレクは漏らしていた。
とりあえず、アスカは目の前の人間に意識を戻した。

「で、3 課のあんたはいいの?」
「それは秘密です」

唇に人指し当てて微笑むアルを、アスカはそのまま張り倒した。


「ええい、なんでうまくいかないんだ!」
「どうもアスカの調子がおかしいようですね」
「しかし ‥‥ そもそも、もうかなり彼女の心象風景とずれていますので、 そろそろ頼ってもしかたないのでは?」
「地理についてはそうだが。
気候条件を設定するときはやはり、 もともとの気候にすぐ戻れるようになっていてくれないと、 いつなんどき街が竜巻か何かで破壊されるか分からん。
心象風景そのままの所がいくら破壊されても大したことはないが、 こちら側とのゲートが破壊されでもしたら修理が面倒だ」
「それはそうですが ‥‥ それにしても何故?」
「どうやら、例の噂を聞いて動揺しているらしいですね」
「それは困りましたね。確かにあれも問題なんですが ‥‥
そもそも、槍はこちらには向いてないんでしょうね? こっちに向いてた日には、せっかく作った街がもう一度作り直し、 ってことですからね」
「そんなこと私に訊かれても知らんよ。作戦部の連中がなんとかするだろ」
「あれが一段落するまで、こちらは中断しますか?」
「そんな時間の余裕は無い。
本部の連中はこっちの事情なんか斟酌してくれる筈なかろう」


「ああ、もう、なんであたしはこんなとこでこんなことやってんのよ!」

アスカは髪のインターフェースクリップを床に叩きつけた。
ころがっていくクリップを拾い上げた人が居る。アル。

「落ちたぞ ‥‥ それが仕事だろ?」
「だいたい、なんであたしが居なきゃいけないのよ! 別の人のイメージから造ったっていいじゃないの!」
「ミュンヘンを知ってて、LCL に馴染んだ人ということで、 アスカということになったんでないの?」

クリップを拾ったわりには返すでもなく、 少し離れた壁にもたれて、クリップを弄んでいる。

「アル ‥‥ あんたは他人の八当たりにいちいち口挟んでないで、 さっさとロケットだかなんだか止めてきなさいよ!」

アルが返してくれないので、 アスカはもう一方のクリップも髪から外してポケットに仕舞い、髪を整えた。
最近、稀にはすることだったけれど、 まだ慣れるというところまでいかない。

「いやなに、アスカを宥めるのも仕事の一つでして。 とりあえず、発射台がどこにあるかは分かったんで、こちらの連中が向かったよ、 安心していいよ、って位は報告しとこうかと思って」

一応、仕事はしているらしい。 「宥める」方の仕事はともかく。
声を落として聞き返す。

「‥‥ そんなこと大声で言っていいの?」
「こっちが知ったことが、昨日、向こうにばれた。 だからアスカに喋っても、もう大丈夫」
「ちっとも大丈夫じゃないじゃない!」

どうしてそこで微笑みかけてくる気になるのか、 アスカにはさっぱり分からない。

「うーん、これくらいではしずまってくれないの? うちの連中もそんなバカばっかじゃないって ‥‥ 多分」
「‥‥ あんたがそういう一言つけ足すから、信用できないんでしょうが」
「‥‥ 嘘とはったりばっかりとどっちがいい?」
「そういうのは嫌」
「だろ? だから正確に、精密に、評価したことを話してるんだけど」
「じゃ、きくけど、打ち上げを無事防げる確率はどれくらい?」
「0.1% くらいかな」

あまりに自信満々だったため、 アスカは、一瞬、よっぽど成功率が高いのかと勘違いしてしまった。
しばらく数字を頭の中で転がす。
その意味するところが浸みわたって、アルを睨む。

「どうやって信頼しろって?」
「おや、0.0001% ‥‥ ところで、今、僕の言ったゼロの数あってる? ‥‥ の確率の作戦を成功させた人の言葉とも思えませんね」
「あたし以外の人のやる作戦の 0.1% なんて失敗するに決ってるじゃないの」
「ふむ」

いかにもそのとおり、という顔でアルが頷くのを見て、 多少はまともなことが聞けるらしい、とアスカは期待したが、

「では切札。アスカ」

突然真剣になる、この切替えの速さがアスカには苦手だった。
どうにも調子が狂う。

「この作戦が失敗するとする」
「う、うん」
「その時、アスカはどこにいたい? このドイツに居たい? 日本に戻っていたい?」
「日本に居たい」
「じゃ、一刻も早く戻れるよう、新ミュンヘン市の建設に素直に参加するように。 余計な雑念に気を向けずに」

髪止めをアスカに手渡しながら、アルが告げた。

「ん、分かった ‥‥」

アスカはそれを握りしめた。
言いたいことは良く分かるとはいえ、まだ、どこかに不満があったけれど。


ドイツ、フランス国境線。

「旧フランス軍司令部も迷惑なことしてくれるよなあ ‥‥」

ライン河の向こう岸に見えるのは、フランス陸軍。
フランスという国家がヨーロッパ列強の地位から滑り落ちて 15 年以上たつ。
しかし、ラインに並ぶ軍の規模は、 こちら側のドイツ陸軍に匹敵する規模を持っているらしい。
ちゃんと維持されているとは思ってもみなかった。
陸軍の温存のために高地に移動させたのはまだいいとしても、 なにもわざわざドイツ国境線沿いに置かなくても、と彼は思う。

「長年のいがみ合いのツケかね、こりゃ。 国境を越えると戦争になるぞ。いいのかなあ ‥‥ 上の連中」


アスカは、こんどはちゃんとノックしてからアルの部屋に入る。
アルが手早くディスプレイ上の幾つかのウインドウを閉じるのが見えた。

「で、どうなってんの?」
「国境線で睨み合いやってる。 フランス軍をネルフが指揮下におけなくて難渋してるらしい。 どうもフランスが敵にまわったような ‥‥」

後ろから話しかけると、 アルがディスプレイに向いたまま答えた。

「それで?」

たかがフランス。アスカにはそれがなぜ問題になるのか分からなかった。
その空気を察したらしいアルが、僅かに退いてディスプレイを指し示す。
そこに示されたフランスの戦力をアルの脇から覗き込んでアスカも納得した。

「‥‥ つっこむと戦争になる訳ね」
「そういうこと。
ネルフの権限はバカみたいにデカいけど、 戦争のタネになっていいと思う?
一応、槍の件を知ってるのは当事者だけということになってるからね。
うちの支部長はそういうとこ、平和主義者だから」
「で、どうする訳?」
「さあ?」
「発射場は分かってんのよね?」
「うん」
「じゃあ、あたしを連れて行きなさい」
「ちょっとまて!」

アルが驚いて振り返ってきた。
アスカは、驚いたアルが見られて内心で少し満足感を味わった。 なかなかお目にかかることのできないしろものだった。

「こんなとこにいたって、平静でなんかいられないわよ。 あたしを宥めるのも仕事なら、協力しなさい」
「一応、戦場の向こうなんだけど?」
「いままであたしが何処にいたと思ってんのよ」

アルが椅子を回転させてアスカに向き直ってきた。
真面目に説得するつもりらしい。

「アスカ。それは戦場にいたとは言わないよ。 確かに戦いの現場にいて、しかも実際に戦争してた訳だけど、 その付近で一番、安全なエヴァの中に居たわけだろう?」
「‥‥ あんたね ‥‥ 使徒との喧嘩ってそんなもんじゃなかったわよ。
中に浮かんだ球体ではなく、その影が本体の使徒だとか、
エヴァの両腕を一瞬にして切り落とす奴とか、
成層圏から直接攻撃してくる奴とか、
そんなんばっかり相手してたのよ。
エヴァの中が安全だなんて一度たりとも思ったことなかったわよ」

二人の静かな睨み合いが続く。先に折れたのはアル。

「行って、何するの?
僕を説得できるようなら連れてってあげよう。
念のため言っておくが、
説得に時間がかかるようだとロケットは出てしまうかもしれないからね」
「行ったって出来ることなんか無いわよ。それくらい分かってる」
「で?」
「でも、ここに居たって、出来ることなんか無いじゃない。 それなら、この目で見る位、いいでしょ?」
「それだけ?」

失望気味のアルに、アスカの心の中に焦燥感が広がる。

「第三新東京市が無くなるなら、‥‥ どうせあのバカが逃げる筈ないんだから、 一連托生で死んじゃうなら、‥‥ その元凶を、目で見たいと思うのがそんなにいけない?」
「ふむ。東京で防げる可能性、 あるいは東京の交渉の結果、落ちて来ない、 といった可能性を完全に無視した論法だな」
「だから、あたし以外の人のやる作戦の、 少数コンマ以下の成功率の作戦とか、交渉の妥協に期待してどうすんのよ!」
「正論だね。いいでしょ。行くよ」

突然アルが端末の電源を落して立ち上がった。

「ちょっと ‥‥ いきなり切って大丈夫なの?」
「いきなり切れないような端末を諜報部が使う訳ないだろ? 余計なこと言ってないでさっさと用意しなくていいのか?」

一通りの用意をして駐車場に降りる。

「余計な時間を食った。飛ばすからな」

アルが「飛ばす」というのを聞いて、アスカはシートベルトを締める気になった。 確かアルの運転はミサト仕込みのはず。

その道筋。アルに電話がかかる。

「はい? ‥‥‥ 分かりました」

アルの表情が変わったのを見て、アスカは目で尋ねた。
アルがその表情に答える。

「もうすぐ発射されるそうだ」
「え?」
「しばらく口きくなよ」

その直後、車の速度が上がった。
ミサトの運転は、口を開けるのが恐いが、 アルの運転は、口を開けるどころではない。速度計を横目で見てアスカは目を剥いた。
針が一回転以上、回るように改造されている!

何時間にもわたる口もきけないドライブの後、

「ここまでだな」

アルが突然、山道でブレーキをかけた。
気絶する前に何処かに着いたのにはほっとする。
周囲に目をやれば、前方に視界は開けており、 風景を楽しめるところではあるけれど、今はそういう気分になるものではない。

「‥‥ なんでよ」
「まだ死にたくないからなあ ‥‥ ほら、あれだ」

アルの指す谷間を見ると、たしかにロケット発射孔らしきものが開いている。

「昔の ICBM 発射孔を改造したものらしいんだけどね」

アスカは車から降りて、よく見える位置に移った。崖ぎりぎり。
アルが首だけ車から出してくる。

「落ちられると僕が困るんだが、その辺は分かってるね?」
「分かってるわよ ‥‥」

地震。一歩引く。 足を滑らせかけでもしたらアルに何を言われるか分かったものではない。

「ちょうどのタイミングかね」

アルがつぶやくのを聞いてアスカは振り返った。

「じゃ、これ ‥‥」
「ほら、出てくるぞ」

アルが視線で発射孔を示す。アスカも向き直った。
ロケット。ICBM というには太い。
アスカは上空に昇っていくロケットの煙を見上げながらつぶやいた。

「エヴァ ‥‥」

この場にエヴァがあれば、ロケットの発射直後なら蹴りの一つでもいれれば終り。 ロケットの爆発程度でどうにかなってしまうようなエヴァではない。
しかし弐号機はまだ日本に置いたままだった。
ミュンヘンの LCL 移行にエヴァが必要なわけではなかったから。
アスカはエヴァに乗らなくても、もう良いと思っていたけれど。

昔、道具としてのエヴァに乗る事が自分の存在意義だったころとも違う、
昔、エヴァの力を自分の力と錯覚していたころとも違う、
昔、ママとしてのエヴァを欲したころとも違う、
エヴァに乗らなくてもいいと思うようになったころとも違う、
今、本当にエヴァを欲しいと思ったその瞬間に、エヴァは無かった。

「何でエヴァがないのよぉ ‥‥」

エヴァなくしての無力さ。
自分自身の非力さ。

そういうことを実感させられた、その象徴があのロケット、だった。


アスカが車外で、空を見上げて呆然としている脇で、 アルは通信機をセットしたあと、 車の外に出てロケットの煙に目をやって手をかざした。

「行った、か」

眺めるのにも飽きて、アルが背伸びをすると、 その声にアスカが振り向いてきた。

「あんた、あれ、止める方法ないの?」

そういう無茶を期待されても困る。アルは憮然とした。
確かに作戦部のお仕事はこれからだが。

「そんなの、ある訳ないだろが。
槍について一番詳しいのは本部の連中だ。 お手並み拝見というところでないのかな」
「あんたはそれで良いかもしれないけど ‥‥」

うなだれているアスカをそのままにして、アルは車に乗り込んだ。
帰ったらこれ見て徹夜になるんだろうな ‥‥ と思いながら、
手元のレーザー通信機をしまう。
本命のロケットについての情報がもぐり込んだ人達から送られて来ていた。
軌道要素あるいは槍の回収手順その他は、 これから分析してみないと分からないが。
エンジンをかけたころ、ようやくアスカも助手席に乗り込んでくる。
なにやらまだ思い詰めた表情。

「アル。槍が落ちて来るまでどれだけかかるか知ってる?」
「ロケットが槍のとこまで行くのに、最短で 3 日だけど、多分、二週間かかる。 槍が落ちて来るのに、‥‥ やっぱり 4 - 5 日かかるんじゃないかねぇ。 あのロケット飛ばした連中が東京と何を話すかによってさらに延びるだろうが、 最短で二週間、長くて一ヶ月とみとけばいいんじゃない?」
「二週間 ‥‥ アル。あたしはいつまでここに居なきゃいけないの?」
「それは僕に訊かれても困る。伊吹博士あたりに訊いてくれないとね。 何考えてるか良く分かるけど、二週間以内に帰れるってことは無いと思うよ」
「そう ‥‥」
「あ、それからね。たった今からアスカの監視は強化されたから。 抜け出して帰ろう、って考えても無駄だからね」

アルは車を出した。帰りを急ぐ必要はなかった。
ロケット打ち上げまで、まだ一週間もある。


軍による直接制圧、工作員による破壊活動に続く、 三段構え最後の作戦にして本命。成層圏下でのミサイルによる迎撃作戦。
諜報部の入手したロケット軌道要素を基に、 高々度での迎撃作戦を立てた作戦部では、
静止衛星からのリアルタイム監視像を見守っていた。

「ば、ばかな」

ロケットに当たる前に次々と爆発していくミサイル群。
作戦課の人々の間に動揺が走った。

「なんでたかがロケットにミサイルが当たらないんだ!?」
「‥‥ 分かりました。
事前に地球周回軌道に上がっていた巡行ミサイルがロケットをガードしたようですね。 向こう側の残存ミサイル数は ‥‥ あと 17 発。 AICBM も足りなくて、巡行ミサイルってあたりが向こうも苦しいようですが」
「一週間前のロケット打ち上げは単なるダミーじゃ無かったのか」
「こちらのミサイルの最後の一発も ‥‥ 迎撃されました」
「ICBM の監視はしてたんだがな。ちょうど盲点だったか」
「本部に迎撃を要請しますか?」
「‥‥ それくらい見て知ってるだろ。放っておけ。
あとは本部の仕事だ。俺はボスに叱られに行ってくるよ ‥‥ ったく」


次回予告 ロンギヌスの槍。 それは力を持ちすぎたゲンドウへの怒りの刃となる。 次回、最後の敵
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