Genesis y:13 人柱の重み
"The boat of Karneades II"


15 年前。

「‥‥ ごろ南極にて地震発生。津波の日本への到着予定時刻は明日、 午後となる見込み ‥‥」

その夜。

「予報が修正されました ‥‥ 津波の日本への到着予定時刻は明日、午前 10 時すぎ、 各地の ‥‥‥‥ 波の高さは ‥‥‥‥ 200m ‥‥‥‥ 及び関東地方全域に避難命令が出されました ‥‥‥‥」

翌日。関東平野全域が一瞬、水没した。

この洪水の第一波は日本に届くまでに南半球のすべてを飲み込み、 北半球の春先を支えていた穀倉地帯の南アメリカ、 世界の工業をささえたレアメタルの産地、南アフリカ、 世界有数のアルミニウムの産地であるオーストラリアを死滅させていた。

日本が飲み込まれたのに先立つこと約 5 時間前、インドネシアを洗ったこの波は インドネシア石油を全面輸出停止に追い込んだ。 次いで日本を襲ったのと相前後して中国の新興工業地域の広東省、 江蘇省をほぼ水没させ、北京を港湾都市に変えた。

首都の北京は内陸都市のためにかろうじて被害を免れたとはいえ、 GNP の過半を生み出すこれらの地域の水没の結果、 その年の GNP は 1/3 にまで低下した ‥‥ が、それだけに留まらなかった。
黄河、揚子江の逆流、洪水は周囲の穀倉地帯を水没させ、 翌年までに膨大な数の餓死者をだすことになる。

同時刻の北米大陸。
ロサンゼルス、ニューヨーク等おもな海岸沿いの大都市の水没。 ミシシッピー川流域にわたる大洪水はメキシコ湾岸油田を壊滅に追い込んだ。

ペルシャ湾。
初期の予測ではホルムズ海峡で止まると言われていた津波は オーマン、アラブ首長国連邦をまるごと押し流し、 砂漠を越えてカタール、バーレーン経由で油に汚染されたペルシャ湾に侵入、 そのままイラクのバグダッドまで重油にまみれた海水で水没させた。

さらにその翌日。

ジブラルダル海峡を越えた津波がイスラエルに達し、ヨルダン川沿岸を水没させ、 暫くの間のことではあったがアラビア半島と小アジアを切り離した。

ヨーロッパ。
ビスケー湾を襲った津波はパリ湾をつくり出し、 ヨーロッパ最大の農業国をほぼ壊滅に追い込んだ。 陸軍司令部は洪水で押し流される前日、 フランス陸軍にドイツ国境線沿いに移動する命令を発した。 高地になっていることを理由として。

オランダ。国土の 1/3 が海抜 0m 以下のこの国は全滅した。 もっともベネルクス三国の中で一番の不幸であったかどうかはわからない。

スイス、オーストリア。 洪水到来まで 2 日の余裕があったことはこれらの国を不幸にした。 洪水被害の正確な予測がでると同時に国境は全て封鎖されたが、 受け入れを要求するフランス、イタリア等との間で一時、緊張関係が生まれた。

デンマークを防波堤としてドイツ及び東ヨーロッパはほぼ無傷で生き残った。 もっともカスピ海、黒海の水位上昇とドナウ川の逆流によって、 ウクライナをはじめとする主な穀倉地帯は多大な被害を受けたのだが。

おもに西側に被害が集中した結果として、 ヨーロッパの東西の経済力バランスはほぼ拮抗した。
そして EU は、その参加基準を破棄し(参加国でさえ、基準を満たすものはなくなった)、 一気に全ヨーロッパにその加盟国を広げた。
‥‥ いまやヨーロッパ最強の国家となった、ドイツを抑えるために。

「フランス政府より発表 ‥‥ 核廃棄物処理工場の水没‥‥ を中心として半径 500 km の海域への立ち入りが全面的に禁止されました‥‥」

水没した原子力関連設備も多い。
とくにフランスの核廃棄物再処理工場の水没圧壊が報道された時は インパクトそのものよりも世界を震感させた。 北半球の壊滅が予想されたためである。
一時的な南半球の水没よりも、これから数億年にわたる北半球の汚染の方が 事態が深刻であることは容易に想像がついた。 この恐怖感は翌年の調査で十億に一つ、という偶然をもって完全に 塞がれていることが分かるまで残った。 凄まじい水流、水圧が施設と周囲の岩盤を半ば押し潰し、 ほとんどコンクリートで固めたのと同じ状況になってしまっていることが確認されている。

ところで、この報告書は

「周囲の海水からプルトニウムはまったく検出されなかった」

ということも述べているが、この記述を信じる者はいなかった。
その調査結果を発表した記者会見にて、 調査団々長がコップの海水(もちろん当該周辺海域の海水だ)を飲んでみせたことで その場は一応おさまったが。

「お味はどうですか?」
「実にまずい‥‥‥」

この団長は 1 年後白血病で死亡した。 死因は北海油田の破壊によって重油で汚染された海水の飲用によるベンゼン中毒、 ということになっている。

同様に水没破壊された東海村の原子力発電所関連設備を中心とした海域からは 京都大学のチームによって低濃度ながらプルトニウムが検出されていた。 奇跡の数はそれほど多くはなかったと嘆かれている。


そして無反動地軸変移 ‥‥ 地軸の直立、それに地磁軸の一致。
正確には地理的には地磁軸の位置は動いておらず、 地軸がそれに重なるように移動しつつ地球の公転面から直立するように移動した現象を指す。

一見、角運動量保存則を一切無視したように見える地軸の移動。
セカンドインパクトが隕石によるものであることが公表された後、 地軸の移動という現象から隕石の質量、飛来方向、速度まで精密に逆算されたが、 その空域を探査していたアマチュア彗星探査家のいずれの写真にも それらしいものが写っていないことが確認された。
セカンドインパクトは単なる隕石の衝突ではなく、 それ以外のエネルギーが加わり地軸移動を後押ししたように見える、 この隕石由来でないエネルギーによる地軸の移動分を のちに「無反動地軸変移」と呼ぶようになる。
この原因をめぐって

複数の隕石の衝突説や地球のコアの異変という説に始まって、
宇宙人の侵略説や超能力説に至るまで、
さまざまな仮説が提出された。

また、インパクト原因が隕石でないことを知っている人々の間では 「無反動地軸変移」という語は、 インパクトによる地軸変移全体を指して言う言葉になった。 隕石のような外的運動量に地軸の移動原因を押しつけることのできない彼らにとっては、 セカンドインパクトによる地軸の移動そのものが どうしても運動量保存則に違反する現象にしか見えなかった。

エネルギー保存則はどうなったのか?
それを心の内に秘めなければならなかった苦痛を研究の推進力に変え、 ある種の相転移場の存在が理論的に予測される。 そして数年後、 エヴァンゲリオン零号機の最初の暴走事件によってはじめてその存在が確認され、 A.T. フィールドと名付けられた。
エネルギー保存則の破れは彼らにとって絶対的(Absolute)な恐怖(Terror)の的であったから。


地軸変移の直接的な結果としてアジア側で気温が上昇し、 ヨーロッパ側では気温が低下した。そして急激に植相が変化していく。

インパクトの直接の影響を最も受けなかったヨーロッパにとって、 この急激な寒冷化は痛かった。
洪水の到来が遅かったため、 洪水によって直接溺れ死んだ人はヨーロッパ全体にしてみれば ごく僅かであったにもかかわらず、家を追い出された人々で この急激な気温低下に耐えられた人はそう多くなかった。

逆に地軸変移の結果、植相がたまたま稲に有利になり、 日本のほぼ全域で三毛作、三期作が可能になった。 その後、栄養自給率が 150% を越えることになる日本に国連本部が 水没したニューヨークから移動したことはほぼ必然といってよかった。
‥‥ただし食糧自給率の向上は、 日本の人口がインパクトによる被害で 8000 万強にまで減少していたということも一因である。


いいこともあった。

スエズ地峡、マラッカ海峡、パナマ地峡、の航路の幅が広くなったのは幸いであった。 世界海運のボトルネックの解消である。 しかも、港に停泊中の船舶はもちろんのこと、 航行中の船舶のかなりにまで被害が出たため、航行する船舶そのものの 数が減って、どの海峡も通行に余裕ができ、事故がほとんど起こらなくなった。

中東に平和が訪れた。 聖都エルサレムが海面下 300m に水没し、 隣接するイスラエル、ヨルダンが壊滅したためである。





‥‥‥‥‥ こうして、翌年までに世界人口は半減した。


セカンドインパクトから一年後。
世界のどの国にも他国を援助するだけの余力はなく、 食糧の自給に成功したアメリカ、 カナダ、日本、ドイツを除く全ての国で依然として餓死者が生まれていた。 そして国勢調査を行なう力のある国々でさえ、 死亡原因の十位以内に「餓死」の文字が残っていた、 そんな時代に。碇シンジ、誕生。

その直後、ゲンドウがユイに語りかけた。

「この子はこんな地獄で生きていくのか」
「あらあ、誰だって幸せになるチャンスはあるわ。
だって、生きてるんですもの」
「‥‥‥ そうだったな」

すでに始まっていた人類補完計画。

しかし、その見通しはまだ暗かった。ゲンドウにとって、 「地獄」は比喩ではなかった。 おそらくは十数年後にあると予想されている使徒再来を被害ゼロで切り抜けたとしても、 そのさらに十年後には世界はふたたび死滅の危機にさらされる。 決定的な資源の枯渇によって。

そして、ユイもまたそのことを知っていた。その前に、 その前になんとしても補完計画を軌道に乗せることが、唯一つの希望になっていた。

補完計画の要、LCL はセカンドインパクトを起こしたアダム直接の産物だったが、 ユイはそんなことには頓着しなかった。必要とされる性質をもった物質が手に入った、 それ以上でもそれ以下でもなかった。由来にこだわる贅沢は許されていなかった。
レアメタルの産出激減によってハイテク産業は壊滅的打撃を受けており、 もはや補完計画の必要とする性質をもった化合物を設計、合成、 生産する設備はどこにもなかったから。


そして今。

「こちらへいらっしゃい」
「どこへ行くの?」
「計算機室よ」
「閉じ込められているわけじゃないの?」
「閉じ込められて、‥‥ いるわねぇ ‥‥」

ユイは首を捻りながらミサトを計算機室に連れて来た。

「ここよ」
「どこ?」
「目の前」
「誰もいないじゃない?」

計算機があるだけ。

「ちょっと、これどういうことよ!」

ミサトはユイを振り返って怒鳴りつけたが、ユイは平然としていた。

「みたとおりよ。研究所の計算機 "ヘロデス"。
リツコさんの心そのものを入れた第 7 世代計算機にしてネルフのマギのかわり。 なにしろ、 マギのコピー持ってきたんじゃマギのチェックにならないものねぇ」

ため息の演技を見せるユイの前でへたるミサト。

「‥‥‥ こんなことをして、こんなにまでする、補完計画って一体何なのよ!」

ユイはそんなミサトを冷やかに見下ろした。

「計画の全貌を知る人なんてどこにもいないわよ。
もうあなたは全てを見ているわ。分かろうとしないだけよ。
今、何をしなければならないのか、
今、何ができるのか、御自分で考えなさい ‥‥」
「人柱まで使って‥‥」

まだ理解していない。ユイはため息をついた。 セカンドインパクトそのものを体験する好運に恵まれたのに。

「まだ考えが甘いわ。人柱って誰のこと?」
「リツコや、加持君よ!」
「加持リョウジさんだって助けられたかもしれないし、 そしたらあなただってこれ程までのことはしなかったでしょうけど。
加持さんを助けてこれ以上、ゼーレの人達と険悪になるわけにはいかないの。
リツコさんについては ‥‥ まあ、いろいろあるのよ」

ユイは微かに苦笑い。ミサトには分からないようにするのに少し苦労する。

「だからといって、加持を見捨て、リツコをこんなにしていいの!」
「あなた ‥‥ ネルフにどれだけの金がつぎこまれているのか忘れたの?
補完計画はもちろん、新市の構築、エヴァンゲリオンの作成、 維持にまわされている資金はどこから出ていると思ってるの? 世界の再建の音頭を取るべき国連からよ。
ネルフが資金を吸い上げちゃうから、 どうしてもそれ以外の所には資金が渡らなくなり、 そして世界中の餓死者をそのままにしている ‥‥ その重みに比べれば。いまさら ‥‥」

ユイは一瞬、目を閉じた。そして続ける。

「あなたが立案し、実行したヤシマ作戦。レポートは読まさせてもらったけど、 自家発電も満足に動かせない病院で、あの瞬間、全国で容体の急変が救えずに 約 300 名の人が亡くなってること、知らないとか忘れたとか言わないわよね」

ユイはミサトに視線を合わせた。

「あれは、‥‥ 仕方なかったのよ ‥‥」
「『仕方ない』 ‥‥ 便利な言葉よね ‥‥」

ミサトの言葉に一瞬、ユイは羨望の表情を向けた。
それを批判ととったミサトが見上げて反論。

「じゃあ補完計画が餓死者をうんでいることはどういうことなんですか!」
「だから、『仕方ない』 と言うことについては責めてないでしょ? セカンドインパクトの影響は発表されてるより深刻なんだもの。
復興どころか、計画が一番うまくいっても世界を支えるのが精一杯よ。多分」

しかもみんな自分達のために計画を少しずつ歪めてるし。ユイは口にはしなかった。 人のことは言えなかったので。

「あなたはセカンドインパクトがある種、人為的なものであると思うが それを起こした人は知らない、と前、おっしゃった。
そして、司令がインパクト前日に南極から帰ってきた、という。
もし司令がセカンドインパクトを起こした、か、 あるいは少なくとも積極的に関係していたとしたら、 あなたはどうなさるつもりです?
あなたの言うことを聞くかぎり補完計画は世界の復興のため、 ということになりますね?
セカンドインパクトを起こした本人が、 セカンドインパクトからの復興の計画とかいうものを起こし、 そして世界中に餓死をばらまいているとしたら?」

ミサトは口を歪めた。

「緊急避難? あなたにそんなことを言う権利がどこにあるんです! 笑わせないで!」

ミサトが激昂するにつれ、ユイの言はますます静かになっていく。

「考えたことないわ。あの人、そういうことする人じゃないもの。 誤解されやすくて、ほんとに困るんだけどね」
「じゃあ今、考えてよ!
司令は偶然、前日に帰って来たとでも言うの! 何か関係あるのは明らかじゃないの!」
「関係ない、とは言わないわ。前に言ったと思うけど」

いつのまにかユイの手に銃が握られている。

「アスカちゃんを巻き込んだ罪。 一応、独房にでも入ってもらうことになると思うわ。 ‥‥ 後学のために聞いておきたいんだけど。 どうやってアスカちゃん動かしたの?」
「‥‥‥ 今の敵は使徒じゃないっていうことよ ‥‥ レイは命令ならそういうことは気にしないわ」
「なるほど。うちのシンジじゃ考え込むだけですぐには動いてくれないものね」

ユイは少し複雑な気持ちになる。 シンジの育て方、あってたのか間違ってたのか ‥‥
もっとも養育にかかわったのはシンジが 3 才の頃までだから、 とりあえず 夫のゲンドウに責任をなすりつけて心の平安を取り戻すことに決めた。

「アスカしかいなかったのよ ‥‥」

ユイは力の抜けたミサトの手から電話を受け取って保安局へ電話した。

「現在、本部で葛城三佐のカードを使用中の者は惣流 アスカ ラングレー、 ですのでよろしく。こちらでお説教しますので保護しておいてもらえますか?
それと、 ID カードを貸した葛城三佐を保安条例第 17 項違反として捕らえているので、 人よこして下さると嬉しいですわ」


ミサトに告げた言葉は全て本心からではあったが、 しょせん強者の論理であり、それが免罪符にならないこともまた、ユイは知っていた。
計画を推進する側にすべての選択権があるのであって、 餓死する側が餓死することを選んでいるのではなかったから‥‥

「仕方が無い、か ‥‥ いいなあ ‥‥‥」

ユイにはとうてい口に出来るものではなかった。 影で亡くなっていく人々が重すぎて。
コーヒーに口をつけて気を取り直す。
背後の計算機をユイはぼんやり眺めた。

「葛城さんのこと考えると、そのまま使ったのやっぱりまずかったかしらねぇ」

コピーをつくる時間が惜しかったのは確かだったものの、 多少の私情も入っていたような気もしている。
「ああ、そういえば何時でも戻せる、って言わなかったな‥‥
これ以上、暴れられても困るわね」

ユイは再び保安局へ電話をかけた。

「お手数かけてすみませんが、ちょっと葛城さん出してもらえますか?」

予想外の返答があった。

「‥‥ 逃げられました。拳銃でいきなり撃たれまして。 ボディチェックはなさらなかったので?」

かすかに責任転嫁する様子にユイの声も硬くなる。

「私、素人ですよ。そんなこと期待されても困ります」
「それは失礼しました。 いえ、銃をもつ葛城三佐を 博士が取りおさえられるとは思いませんでしたので‥‥ 明らかに我々のミスです」
「がんばって捕まえてね。 これはペナルティだから ‥‥ そうねえ、 アスカちゃんがぶじ保護されたら、こっちに 電話させてね。これくらいはいいでしょ?」
「‥‥ 分かりました」

電話はそこで切れた。

「ほんとは私のミスよねえ。これ ‥‥」

ユイにとってはそれが見えるところにあるかぎり銃は脅威にならない。 そのため、ミサトが銃を持っていたことを完全に忘れていた。

「逃げ出しました、か。それも一つの選択には違いないわね」


次回予告 世界を知る者、知らざる者、そしてこれから知る者。 次回、知ることの意味
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