Genesis y:3 在るべき心
"Who are you?"


「何これ?」

アスカは自分の手元をまじまじと眺めた。今はたしか英語の時間。 アスカは英語がそれほど得意でない。しかし、今やたらとすらすら作文ができた。

「これ ‥‥‥ もしかしてドイツ語?」

ノートの文を眺める。 日独ハーフの母親のなぐり書きを見る関係でこれがドイツ語というのは分かるが、 小さい頃から日本に住んでいる自分は日本語しか使ったことがないはずだった。

「どこかでママが書いていたのを思い出したのかしらね」

それにしては記憶に無いが、授業中でもあり、とりあえず気にしないことにする。

これだけですめばそれだけの話だったのだが、 この日以来、 アスカは無意識のうちにドイツ語の文章を書くようになってしまっていた。

「ママの影響かしら。 いつのまにドイツ語の読み書きできるようになったんだろ?」

突然書けるようになった、というのはいいにしても、 だいたいノートがドイツ語で埋まるとシンジが困るだろう、と思う。
その上、 たまたま抜き打ちに行なわれた英語の小テストにはアスカ自身も参っていた。

「あ、またやっちゃった!
‥‥ まったくちょっと調子いいとすぐドイツ語になっちゃうんだから‥‥」

テスト時間の半分を消しゴムを使うことで消費している。
今もまた、消しゴムで 'Ich' の 'ch' を消していた。 これで 5 度目。
人が困っている時に英作文ばっかりだすんじゃないわよ、まったく!
このところ英語の時間には恒例となった愚痴がまた頭をよぎった。

「なんかここのところ変だけど、どうしたのかなあ ‥‥」

シンジはテスト中にもかかわらず、その様子を横目で眺めていた。 やたらに書き間違いが増えているように見える。
授業( 半分はテストだ! )が終った後。

「ちょっと、ほんとにアスカどしたの? なんか調子悪そうだけど」
「‥‥ 大丈夫よ。ちょっと何か疲れてるだけだから」

元気がない。シンジはアスカの顔をのぞき込んで、

「やっぱりあんまり大丈夫でもないみたいだよ? いつもなら『あんたに心配されるようじゃあたしも終りね!』 くらいはいうのに‥‥‥」

なかなか的確な読みにアスカは感心した。
シンジに話してみるかなぁ、でもそれでどうにかなるようなことでもないしなぁ ‥‥
などと思いながら、ぼんやりシンジを眺めていると、 本当に疲労感がでてきてそれどころではなくなってしまい、 ついに机につっぷしてしまった。

「あ、アスカ?」
「ちょっと休む ‥‥‥‥‥」
「え、えと、保健室行かなくていい? 委員長! ちょっと来てくれる!」

ヒカリはアスカの方を見ると、顔色をかえてすぐとんで来た。
アスカが具合悪そうにしているのは、ヒカリにとっても初めて見る光景だった。

「アスカ!? アスカどうしたの?」
「具合悪そうだから保健室に連れてく。 次の授業に間に合わなかったら連絡よろしく」
「わかったわ」

結局、次の授業には二人とも帰って来なかった。

「洞木さーん、保健室見にいこ」

授業後、レイはヒカリに声をかけた。レイの席はシンジの隣で、 アスカとは反対側。口こそ出さなかったが、事の次第は良く見ていた。


保健室。

「ん ‥‥‥ 」
「あ、アスカ起きた?」

シンジはアスカに向き直って声をかけた。とりあえず顔色はかなり良い。

「えっ、‥‥‥ あんたシンジ?」

アスカが初めて見るような目でシンジを見る。シンジは戸惑った。
丁度そのときレイとヒカリが入って来た。

「アスカ、大丈夫? ‥‥‥ あ、夫婦でみつめあっちゃってるぅ」
「綾波さん、まだ寝てるかもしれないから静かに‥‥」
「え、もう起きてるよ?」

アスカは声のほうへ顔を向ける。 なにあれ? あれがファースト? アスカはベッドから飛び起き、

「あ、あたし具合悪いから帰る!」

ひとこと叫んで保健室を飛び出した。

「あ、アスカ?」

シンジはちょっと手を伸ばしたが、あっさりおいていかれた。
なんか今のアスカ変だったな‥‥‥
シンジ、レイ、ヒカリの三人は互いに目をみかわした。


アスカは走りながら自問した。
これは何? あたしが惣流アスカラングレーであることはまちがいない。
なんでシンジがおさななじみなんて思い込みをしているの?
あんな奴を!
シンジも変だ。ファーストなんか別人。
これは夢? ‥‥
おちついておちついて ‥‥
朝起きてそれから ‥‥
シンジを叩き起こしにいったのね ‥‥
で、おばさまに挨拶して‥‥ って、おばさまって誰よ?
碇ユイ? あの人はすでに死んでいるはず。まえにシンジにそう聞いた。
ではあれは誰!?

アスカはそのまま靴を履き変えて外へでた。そしてそのままシンジの家へ走る。
今日はおばさま? は家にいるはず‥‥
だんだん思い出してくる。

ドイツから日本へ向かったこと、
水中で使徒を倒したこと、
熔岩の中で使徒を倒したこと、
停電の本部の縦穴で盾になったこと、
‥‥
‥‥

突然心臓と胃が痛み出してその場に崩れ落ちかけ、塀に手をつく。

「そういえば今日あたしは体の調子がおかしかったわね。忘れてたわ‥‥」

そして吐き気。油汗が頬をつたう。

「あの、大丈夫ですか?」

とおりかかった人が尋ねてくる。

「ものすごく辛そうなんですけど‥‥ 病院に行きますか? 救急車呼びましょうか?」
「いえ、‥‥‥‥ もう大丈夫です。ありがとうございます」

かろうじて笑顔をつくると、再び走り出した。

「‥‥痛ったぁ‥‥」

どうやら、最近の事を思い出そうとすると、心臓や胃が痛くなるらしい。

「しょうがないわねぇ、じゃあ、昔の事は?」

‥‥
ドイツでのエヴァンゲリオン搭乗訓練のこと、
大学での生活のこと、
セカンドチルドレンに選ばれたこと、
‥‥
こんどは強烈な頭痛に見舞われた。

「ったく、もう‥‥なんだってこんなんになるのよ」


ミサトは 2-A でいま行なわれたばっかりのテストの採点をしている英語の教師と、 採点はどうやって行なうのが効率的か、ということについて雑談していた。

「やっぱり、記述式の問題は採点が面倒よねぇ」
「でも記号式の問題は解答用紙つくるのが大変ですよ。 選択枝いっぱい作らなきゃならないし」
「問題を手を抜けば、採点がきつくなり、 採点でラクしようと思えば問題作るのが大変か、 よくできてるわよね。選択枝つくるのがまだマシかしら」
「そうですね。でも、記述式の問題だとたまに笑えて楽しいんですよ、 ほらこの子みたいに」

と惣流アスカの答案をミサトに示した。

「こことか、ここ。これドイツ語ですね。たしかこの子クオーターだとかききましたが、 親が家でドイツ語使っているんでしょうね。最近、ときどき混じるんですよ」
「なるほど」

ミサトもそれに同調してかるく笑った。
キーン‥‥‥コーン‥‥‥カーン‥‥‥コーン‥‥‥

「さて、授業っと」

ミサトは自分の机のところに戻った。この時間には実は自分の授業はない。 ミサトは一旦学校の外へ出、研究所へ電話をかけた。

「副司令。そろそろではないかと思います」
『わかった。博士はいま自宅のはずだ。そちらへ今転送する』

プルルルル‥‥

『はい。碇ですが』
「葛城です。惣流アスカのことについてなんですが‥‥」


シンジの家にかけこむなりその場にへたりこみながら、 ユイの姿をみつけてアスカは怒鳴りつけた。

「あんた誰!」

ユイは電話を置いてアスカの方を向いた。

「あらアスカちゃんいらっしゃい。学校はどうしたの?」
「いまさら中学校いったってどうにでもなるもんじゃないわよ。 それよりあんた誰よ!! 碇ユイはもう死んでるはずよ!」

アスカの様子を見てコップに水をつぎながら、ユイは答えた。

「あら、生き返っちゃったのよ。覚えてない? とりあえずこれ飲んでおちついて」

アスカは差し出されたコップを振り払った。

「つまんない冗談言ってんじゃないわよ。 あたしやシンジはなんであんたのことを碇ユイだと思ってたの?
‥‥ まさかとは思うけど、 あたしとシンジがおさな馴染みっていう思い込みもあんたのせいじゃないでしょうね!? あたしとシンジが会ってからまだ 1 年もたってないわよ。 ちいさいころのシンジなんて知らないわ」
「あら、覚えてないの? 10 歳くらいまで一緒の布団で寝てたこととか‥‥
ごめんなさい。冗談よ。そうね、私が碇ユイだってのはホントよ。 アスカちゃんとシンジがおさな馴染みだっていう記憶も私が用意したの。 よくそこまで分かったわねぇ。
辛そうだし、とりあえず水飲んでおちつきなさい。ちゃんと話したげるから」

しばらく睨んでいたが、ようやくアスカはコップを受け取った。 とりあえず嘘ではないらしい。

「ふう‥‥」

一息つく。

「で、どういうことよ?」
「ちょっと長くなるから、こっちで話しましょ」

ユイは玄関口にへたりこんだままのアスカを居間にさそった。

「ここの本当の名前は、新第三新東京市というの。まだ仮称だけどね」

ユイはアスカが落ち着くのを待って話し始めた。

「そろそろ一ヶ月になるのかな。第三新東京市全体を LCL に漬け、 LCL 内で再構築したのがこの街。
人類補完計画の一部でね、 人の活動の中心を地上から LCL の中へ移そうという計画なの。
LCL に漬けて LCL 内に移る時にね、オリジナルそのままでなく、 ちょっと記憶なんかをいじることができるの。 というか、LCL 内にいる間は想いが物理的な力を持つのね」

話について来ているのを確認して、ユイは続けた。

「これ以上は、まだ機密なんで話せないんだけど。
それでね。想いに関する実験として、 人の心をすこしいじったのが新第三新東京市の実験。
多少、つじつまがあわない所があるからいずれ破綻する。 その破綻までのプロセスを調べるのが目的だったの」
「まさか‥‥」

その先が分かった。アスカ、瞠目する。

「ごめんなさい。アスカちゃん、あなたの心と、 あなたに関わる条件をすこし変えたのが今回の実験なの‥‥
アスカちゃんが一番にこの虚構に気付くのは事前にわかってた。 本当の心から大きく離れた心で生きているんだものね。
免罪符になるとは思わないけど、 アスカちゃんに有害になる記憶はいれてないはずだし、 取り除いた記憶はアスカちゃん、 あなたが思い出したくもない記憶にできるだけ限ったはずなんだけど。 漢字いっぱい記憶させてあげたからそれでかんべんしてくれない? もちろん LCL から外へでると漢字わすれちゃうけど」

アスカはユイに掴みかかった。これはとうてい許せることではなかった。

「あんた、ばかじゃないのお、 どんな嫌な記憶だって、思い出したくもない記憶だって、 全部あたしの大切な記憶よ! ‥‥
勝手に、いじ ‥‥ るん ‥‥ じゃ、な、いわ、‥‥ よ ‥‥‥‥」
「ほんとうにごめんなさい ‥‥ 見ていられなかったのよ ‥‥」

ユイはアスカを抱きしめて言った。

「あなたの本体は今、 拒食症で死にかけているわ‥‥ それほどの苦しみを一時的にでも取り除くのは、 私にはこれしか方法がなかった‥‥‥‥ でも、あなたならもう大丈夫ね ‥‥
記憶を取り戻せば、また一時的には落ち込むことになるでしょうけど。 でも、忘れないで。この世界でシンジがあなたを頼ったということ、 この世界も確かに一つの現実であったということ。このことは忘れないで」
「なんのことよ?」

けげんそうなアスカを見てユイは微笑んだ。

「じゃ、記憶戻しに行くわよ。それと一旦、第三新東京市に戻ったほうがいいわ」
「って、どこに行くの? 」
「人工進化研究所」

ユイは告げて電話をとった。


アスカの怒鳴り声は電話を通してミサトにも届いた。

『じゃよろしく』

ユイがそれだけ言って電話を切るのを聞いて、

「これも終りかあ‥‥ けっこう楽しかったんだけどなぁ‥‥」

などと妙に教師になじんでいた自分を思い、再び冬月に電話。

「副司令、どうも今日中ということになりそうですよ。 アスカが博士のところに行ったようですから」
『ほう、案外早かったな』
「それでですね、シンジ君はこのまま司令のところに住むとして、 アスカの記憶を戻した時に住む所はあたしに一任させてもらえますね?」
『ん、ユイ君はどう言っていた?』

その時のユイのいいまわしを思い出してミサトは微かに笑った。

「『成行き次第!』 とのこと、でしたが」
『そういうことなら私からも、成行き次第、としか言えんな。 あの子の記憶が戻った時どうなるかはまだ誰にも分からないとなれば』

ミサトの返答がないのを感じて冬月は言葉を続けた。

『ネルフ医療班は待機させてあるし、 博士は元より悪くなることはないと保証していたと思うが? ユイ君の保証では足りないかね?』
「‥‥‥ いえ、そんなことはありません。 では、これからシンジ君を確保します」

ミサトは電話を置いた。

「体の治療が間に合ってよかったわ。ちょっと前のアスカは見せられないものねぇ」

諜報部が昨日届けてくれたアスカの診断書に目をやって、そうつぶやいた。
放課後 2-A の教室を覗いてミサトはシンジを呼んだ。

「はい? ミサト先生?」
「ちょっといっしょに来てくれるー」
「アスカに何かあったんですか?」

一日中そのことばっかり考えてたのね。ミサトは心の中で微笑んだ。

「んー、アスカのことではあるんだけどね」

シンジの顔色が変わった。

「え? 先生?」
「ああ、いやそれほどのことでは ‥‥‥」

シンジの迫力に少し押されたミサトは慌てて否定したが、視線を外してつぶやいた。
‥‥ でもないかな ‥‥
気を取り直して、シンジに告げた。

「というわけだから、急いでね」
「はい」


信号待ちでようやくシンジは一息ついた。聞きしにまさる凄まじい運転。

「で、アスカが何か?」
「うん。いま病院にいるから、それでそっちに向かってんのよ」
「アスカ、そんなに悪いんですか? たしかに朝から調子は悪そうだったけど‥‥」


次回予告 心を取り戻した者、心を変えた者、 両者のギャップは戻った記憶に混乱をひき起こす。 次回、蜃の見る夢
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