「思い」 最終話(後編)



「もういい加減、帰ったらどうですか?」

 何度目かの同じセリフを言われ、俺は少々頭にきていた。
 それでも、模範となる客からは既に遠い存在である事も自覚していた。仕方なくノロノロと頭を起し、キョロキョロと声の主を探しだす。

「外、雪降ってきましたよ。帰るなら今のうちかな。この分じゃ私も早々に営業を切り上げる様ですから」
「…へ、ただでさえ不況で人の入りが少ないってのに、そんな早くに店終ってやっていけるのかよ…」
「ご心配無く。少なくとも薫さんよりは計画的ですから」

 フンと鼻を鳴らして、俺は空いたグラスをドンと差し出した。
 帰れと言いながらも、それに新たなロックを足していつもの水割りを手際よくカラカラと作り、トンと目の前に置くマスターの姿があった。
 行きつけの「ダンケ」の中、俺はカウンターに一人座ったまま、そうやって水割りをあおり続けていた。

「そういえば、最近由美子さんとは一緒じゃないんですね。どうしたんです? もしかしてフラれたとか?」
「…フったんだよ。俺の方から。あんただって知ってんだろ? ここであいつと飲んでた時の事…」
「ああ、別に聞くつもりは無かったんですけどね。あなたは乗り気じゃなかった。折角女性の方から誘ってくれているというのに、何とも勿体ない話です」

 そう言いながら、マスターはバーテンよろしくグラスをキュッキュと磨いている。
 年齢は俺と大差無いが、その貯えた口髭のせいか貫禄があり、より渋い中年の雰囲気がある。
 いつもなら年寄呼ばわりして軽口を叩き合う仲でもあったが、今日はとてもそんな気にはなれなかった。

「あんただったら、ああした誘いにホイホイ乗れるのかよ?」
「…まあ、お店もありますからね。それに支障が無ければ全然構いませんよ。モテる男は何をやっても弾みが付きますからね」
「ケッ、気楽でいいよなアンタは………」

 水割りをチビチビやりながら、俺はそんな悪態をついた。
 ここでこんな時間を過ごした所で、何がどう変るものでも無い。だが、自分の部屋には居たく無かった。
 家に帰れば、あいつが居る。今はもの言わぬ、そんな由美子の残像が。

「そういえば、隣町の本店の方ね。最近入れたんですよ、新しい従業員を。親父とお袋だけじゃあ大変だし、かといってアルバイトっても最近は変なのが多くて売り上げをちょろまかしたりね。その点、今度のは……」
「文句も言わずチョロまかしもせず、黙々と人間様の為に働いてくれる…と。メイドロボットか。それはおめでとう」
「これはどうも。二人とも喜んでますよ。本当なら店の雰囲気からセリオ型にしたかったんですが、まあそれは贅沢でしょうしね」

 セリオ型か…と、俺はグラスを眺めながら思った。
 そのセリオ型が動かぬ置物となって、もう何日経つだろうか。
 あれから再び彼女が目覚めた時、その全てが既に失われた事に、俺は気付かざるを得なかった。
 どこにでもある、廉価なセリオ型と何ら変らなかった。
 それは、既に会わなくなった富也との繋がりが断たれた証しでもあった。

「でもまあ、入れて分かったんですけど、出来れば自分でもう少し考えて率先して行動してくれるともっといいですね。本当に言われた通りの事しかやらないんで、色々と細かく教え込むのが面倒だなんて親父言ってました。まあ贅沢だと思いますけど」
「…それでいいじゃねえか。変に自分で考えて行動されたり、ベラベラと要らぬ事まで喋られて、揚げ句に文句まで言われたんじゃたまらねえよ。言われた事だけ黙ってやってる位が一番さ」
「随分具体的ですね。何かあったとか?」
「いちいちうるせえな。もう一杯おかわり」

 バーテン…この店のマスターだが、「これで終わりですよ」と言いつつ最後のグラスを作ってくれた。
 後はこれを飲み、いつもの様に部屋に戻って寝るだけだ。本体の電源を切り、すっかりとシーツまで被せた置物を横目で見つめながら。
 正座姿で、静かに鎮座しているその物体。何度か運び出そうとも思ったが、結局、俺は彼女の希望をそのまま通していた。
 出てはいきません…の、その一言に。

「……だからさぁ、黙ってちゃ進まねえんだよ。準構成員のアンタにもう一度チャンスをやろうって兄貴の粋な計らいなんだ。当然、良い返事があってしかるべきじゃあないのかい?」
「………ま…せん。…こ…れ……は…」
「あんたさあ、こっちだってヒマじゃあねえんだ。誰の為に時間作ってると思ってるんだ? もうさっさと終らせようや。な? これしか道は残ってねえんだからさ」

 客はてっきり俺だけと思っていた矢先、奥から漏れてくるそんな声に俺は振り向いていた。
 男ばかりが二、三人チラチラと見えた。雰囲気から、その筋の者と直に分かった。
 マスターに小声で話しかける。

「…何だよ、看板に偽り有りじゃねえか。 暴力追放の店って表にあるのにさ」
「今日は空いてますからね。それに払うものきちんと払ってくれれば、こっちは文句ありませんよ。見た所この辺りのシマじゃなさそうだし、飛び込みですから」
「…何だかなあ。そんなだから、益々ああした連中が増長するんじゃないのかねえ」

 連中に聞こえないのをいい事に、俺は言いたい放題だった。
 他に話題がある訳でも無い。あんな連中でも、いい酒の肴だ。
 だが、やがてそんな話題も直ぐに尽き、残り少ないグラスに俺は引け時を感じていった。

「おい!いいかげんにしやがれ!何ならここで落とし前付けるか?小指の一本も飛ばしてみるか?あ?」

 るっせーなーと思い、結局席を立つ事にした。肴にはホネが多過ぎる。やっかい事は御免だ。
 ツケがきかない不満をマスターに漏らし、その日の稼ぎからしっかりと払い、そして出て行こうとした。

「だっ!誰が何と言おうと!そこまで人に外れた道は私には歩めない!」

 扉に手を掛けながら、俺は振り向いていた。頭よりも、身体が先に動いていた。
 そのままカウンター前に戻り、そこから奥へと突き進んでいた。後ろからマスターの声が聞こえていた。

「社長!こんな所で何やってるんですか!」

 四人のガラの悪い連中に混じって、くたびれたスーツの、しかも脅される子供の様に縮こまっているそんな姿があった。大勢の、俺を含めた社員の目の前でその夢を朗々と語っていた服部社長だった。

「なんだぁてめーは?小僧はすっこんでろ!」

 さっきまで社長を恫喝していた奴だ。俺はそいつを睨みつけた。

「お前らこそ何やってんだ。大人が大勢で取り囲まないと話も出来ないのか!やってる事は立派な脅迫だ!」
「…のヤロ、ナメた口叩いてんじゃねえぞ!」
「社長!奴らの言う事を聞く必要なんてありません。警察に行きましょう。そこで助けを求めるんです!社長!」

 最後の言葉は突然途切れ、いつしか膝を折り、俺はその場に両手を付いていた。
 直後、横に居たガタイのある奴に突然膝を入れられたのを知った。
 胃がひっくり返った様に熱くなり、中身が口から勢い良く吹き出た。

「何を意気がってるかは知らねーがな。こっちはこの馬鹿社長に迷惑被ってんだよ。何なら元社員のお前に肩代わりさせたっていいんだぞ?」
「止めてくれ!彼は関係無い!」
「だったらどうする?後が無えんだよ社長さんよ!」

 床に汚物をぶちまけながら、社長の迷惑となってしまった事を呪った。
 この浅はかな行動が、全ての事態を悪くしている。最低だった。

「……分かった。お前らの軍門に降ればそれでいいんだろう。彼を許してやってくれ」
「再就職と言って欲しいね。ウチは真っ当な株式会社なんだ。まあ、それなら話は早い。早速組長…はは、社長に会って貰おうか。何処でもそうだが、まずは下っ端だ。例の仕事、尖兵としてせいぜい頑張るんだな」
「社長!止めてくれ!あんたの夢、あれは嘘だったのか!俺はいつだって待っていたんだぞ!あんたの呼びかけを!社長!」

 いつだって、その時にならないと本心が見えないものなのか。
 ああ、そうだったのかと自ら感じた瞬間、横腹を蹴られ再び俺はのたうった。

「おとなしく死んでろよ。本当なら事務所送りにしてやる所をこの程度で済ませてやってんだ。感謝するんだな」
「やめろ!もういいだろう!さあ、何処へでも連れてってくれ。店を出よう」
「てめえ、何偉そうに仕切ってんだよ」

 バシッという音に反応し、俺は見上げた。
 恫喝野郎が社長に平手を打ったと分かった途端、意識の中で何かが弾けた。
 きしむ身体を持ち上げ右腕を振り上げ「この野郎!」と渾身の一撃をそいつに見舞う。
 驚く程、それはクリーンに決まり、視界から吹っ飛ぶ奴の姿があった。痺れる拳に加えて「ざまあみやがれ!」と身体が叫んだ。後は何も考えなかった。そして直ぐに現実が来た。
 ガン!と後頭部に一撃を感じ、俺は再び転がっていった。



◇      ◇      ◇




 深い底に沈んでも、それだけは頭に残っていた。
 それが妄想なのか、実際にそう言われたのかは分からない。
 ただ、それは確かに耳にした。
 たった一言。『もう、私を頼るな』と…
 揺さぶられる様に、意識はフラフラと宙をさまよい続けていた。

「……か……お…………薫!…起きて!起きなさい!いい加減に目を開けなさいよ!」

 そんな浮遊感は突然に破られ、次第に意識が持ちあがっていった。
 途端に痛みがそれに重なり、俺はうめき声を上げた。

「うるっ…せえな。身体に響くだろうが…」

 うっすらと開けた目の先には、見慣れた顔があった。
 一瞬の安堵と、次には怒った表情になる由美子のものだった。

「うるせえなじゃないわよ!アンタここで何やってたのよ!ヤクザと喧嘩なんかして!馬鹿じゃないの?!」
「い、イテ…本当に響くから止めてくれ……」

 そう言うのが今は精一杯だ。目の前の顔は、次第に涙を潤ませていった。

「…本当に……本当にあんたはバカなんだから。意気地が無いくせに変に意気がってみたりしてさ……少しは、身の丈ってのを考えなさいよ全くもう!」
「……ったく、ベラベラとケガ人によくも言えるもんだな。俺ってそんなに小物かよ?」
「小物よ!男ではこれ以上は無いって位、小物よ!小物そのものよ!」
「わ、分かった、分かったからもう揺するなって」

 たまらず、俺は身体を起していた。額のタオルが落ち、頭にズキッときて、思わず両手で顔を覆う。「だ、大丈夫!?」と由美子の声がした。
 それと同時に、背後からも聞き慣れた声がする。

「まだ無理しない方がいいですよ。手加減はしたつもりですけどね」

 その一言で、直に分かった。俺は痛い頭を無理に回し、そちらを睨み付けた。
 悪びれた様子もなく、マスターの何とも言えない笑顔が飛び込んでくる。

「…やっぱ、後頭部はアンタの仕業か。そんな気がしたんだよな…」
「怒るのはお門違いですよ。あの場ではああでもしなければ、余計にケガを負っていた筈ですから」
「…その割に、身体のあちこちが痛えじゃねえかよ……」
「まあ、多少は蹴られていましたからね。でも、最小限だった筈ですよ。直に止めましたから。連中、もう二度と来ないでしょうしね…」

 言われて俺は店内を見回した。既に殆どの照明が落ち、カウンターや寝かされていたソファの周りが明るい程度だった。
 あの連中も、そして社長も、既にそこには居なかった。

「社長さんは先に帰らせました。いずれケジメは付けなきゃならんでしょうけど、なに、最高責任者まで勤めた人だ。今回の件で少しは目が醒めたんじゃないですか?」
「…先にって、あいつらをどう説得したんだよ?」

 そのまま由美子の方を見る。「ううん、私が来た時は…」と首を振るのを確認すると、俺はマスターを見上げていた。
 その素顔には手すら上げられておらず、さらに強まる薄笑いに、俺は何となく納得していた。

「…まあ、こんな仕事も長いですから。色々とコネなんかもあるんですよ。これ以上は秘密ですけど」
「……やっぱり、看板に偽り有りだ。そんな店とは知らずに贔屓にしていたなんてなぁ……」
「それはこっちのセリフです。薫さんはもっと大人しい方だと思っていたんですけどね。とりあえず、あなたが暴れた事で破損したグラスやお皿、それと床清掃分は弁償して貰いますよ」

 言うと同時に、足元にあったゴミ箱をわざわざ持ち上げて中身を見せてくる。中は割れた食器の破片でギッチリだ。
 その全てが俺の責任という訳では無かったが、これはマスターお得意の態度だと即理解した。

「…分かったよ。それに加えて、あんたには礼を言わなきゃな。…ありがとう、お蔭で助かった」
「それこそお門違いです。それに言う順番を間違っている。あなたの横の人が、まずは最初なんじゃないですか?」

 そんな言葉に誘われる様に、俺は横を向いていた。言うまでも無く、由美子の姿があった。
 落ち着いた表情を取り戻し、少し笑みが浮かんでいる。腫れぼったくなったまぶたが印象的だった。

「……わりい。迷惑掛けっぱなしだな…」
「本当よ。何でも勝手に自分で決めちゃってさ。少しは私に相談するなりしたらどうなのよ…」

 彼女の正直な心を感じながら、俺は素直に恥じていた。
 そして湿っぽさを避けたいが為に、まだ痛む身体を無理に立たせた。「起きて大丈夫なの?」と言いながらも由美子はサポートしてくれる。
 細いながらもしっかりとした肩に腕を回し、つかまる様に、そして抱き付く様に俺は立ち上がった。
 彼女のそんな香りが懐かしかった。

「……今日ん所は帰るわ。本当、すまなかったな……」
「いえいえ。…ああ、それとね……」

 そこまで言って、マスターは急に真面目顔となった。
 俺は、その後を待つ様に眺めていた。

「……正直言うと、一寸だけ見直したんですよ。社長さんの存在を知ってながら帰ったのなら、今後の入店はお断りにしようと思ってましたから」
「そいつは痛いな。沢山食べられるから由美子が気に入ってるんだ。さらに文句を言われちまうよ」

 ドスッと背中に拳を感じて、うめきながら俺は由美子に目を向けた。
 フンッとそっぽを向く、そんな姿に思わず苦笑する。怪我人とて容赦無しなのが彼女らしい。

「社長さんからの言葉、薫さんは聞きましたね?」
「…ああ、しっかりと。今でも頭の中を飛び回ってる」
「なら大丈夫。あなたも、そして社長さんもこの先問題ありません。この私が言うんだ。保証付きです」

 どっから来る自信かは知らなかったが、そんな一言を軽く言ってのけるマスターの姿に、俺は素直に笑みを返していた。
 そして、何かが変ったと思った。
 この数刻に起きた事が、こんなにも自分の意識を違えるのかと不思議な気持ちだった。 そして今度こそ扉に手を掛け、そして開いていく。

「わあ〜、降ってる降ってる。綺麗よね〜」

 マスターから知らされていたとはいえ、こうして外に立ち、その夜空から舞い降りる白いものに包まれる自分を感じる程に、俺は益々そんな思いを強くしていった。
 問題は無い。けど、それだけじゃあ駄目なんだ。

「あ、そうだ、傘借りてこようか。慌てて来たから持ってきて無いのよ。一寸待っててね」

 そう言って店に引き返そうとする彼女の腕を掴んでいた。
 驚く様な表情に、俺は一言だけ言った。「歩こう」と。

「…ふふ、何かいつものアンタらしくなってきたじゃないの」
「…そうか? よくは分からないけどな」
「そういう所、鈍感よね。今に始まった事じゃないけどさ」

 言いながら、俺の腕と身体の隙間に潜り込む様に身を寄せてくる。彼女にその体重を預けられる絶妙の位置だ。身体の痛む今の俺にはありがたい。
 雪は止む様子も無く、それに身をさらす俺と由美子に少しずつ降り積もる。街もその景観を大きく変え、全てを平等に、そんな白い色へと変貌させていく。やがては俺らも、そうなっていくに違いない。
 二人してゆっくりと歩きながら、そんな情景が酷く懐かしいものに感じられて、俺は次第に気持ちを昂揚させていった。

「私さあ、あれから色々考えたのよね。そして、アンタに会ったら絶対に言おうってずっと思ってた…」
「…何だよ。言ってみな」
「…言っても怒らない?」
「…ああ、今日は特別に許す」

 由美子は笑いながら「何よ、偉そうに」と返してくる。
 そして、少し真面目な顔となりながら、ハッキリとそれを告げた。

「私さあ、薫とはやっぱり別れるわ。それがお互い、一番いいと思うのよね。別にアンタがそう思うからとかじゃなくて、これは私の意思。こんな根暗で意思のハッキリしない優柔不断男じゃなくて、もっと明るくてさっぱりとした、私にピッタリな相手を探すの」
「……………………」
「それで、いつかはアンタも私もそれぞれ結婚して、お互いに惚れた腫れたが関係無くなった頃にまた再会して、今度は友達として付き合いを始めるの。前みたいに飲みに行ったり、お互いの夫婦同伴で旅行に行ったりさ。そんなのって何かいいじゃない?」
「……………………」
「…ねえ、黙ってちゃ分からないじゃない。どう? この考えいいでしょ? だから、アンタとは今日で本当にバイバイ。そうしましょ?ね?薫?」

 まるで何処かに遊びに行く様な口調で、彼女はそう言い切った。冗談ではなく、真面目な言葉だった。
 以前なら、それが全ての終わりだったろう。俺は崖っぷちに追いやられ、そこから前にも後ろにも進めず立ち往生していたに違いない。
 なのに、この気持ちは何なのか? 偶然社長と会えた事が、どうしてこんなにも気持ちに余裕を持たせているのか?

「……いやだ」
「…え? 何て言ったの?」
「……いやだ!と言ったんだ。そんなのはお断りだ。大体何でそんな面倒な事をしなきゃならないんだ。飲みだって旅行だって、やろうと思えば今、直ぐにだって出来るじゃないか」
「……じゃあ、どうしたいの? 当然、考えがあるんでしょうね?」

 その瞬間に浮かんできたヴィジョンを、俺は何と表現したらいいのだろう。
 どこまでもご都合主義で、身勝手と言われても仕方の無い願望。それを男の夢と称する奴が居たとしても、俺は毛嫌いすら感じていたのではなかったか。
 だが、それすらも、今なら素直に受け入れられる。

「…うちに来いよ。お前のマンションと違ってボロいけど、広さだけは十分にあるから。今の会社からだって十分に通える場所だし、さらには高性能過ぎるメイドロボットだって付いている。今は電源が切れたままだけど、お前が来るならまた入れてもいい」
「……あっきれた。前に私に向かって何て言ったか、アンタ覚えてるんでしょうね?」
「…そんなものは忘れた」
「…何て言ったの?」
「そんなものは忘れた!って言ったんだ!」

 俺の体重を半分支えながら、由美子は「信じられない!本当に身勝手なんだから!」とはっきり耳元で言ってくれた。
 彼女と出会えて、こんなにも嬉しいと素直に感じられるのは初めてではないのか?
 今更ながらの感覚が滑稽で、俺は笑い声を上げていた。

「それにしてもさあ、電源切ったってどういう事?」
「話せば長くなるんだがな……まあいいや、とりあえずウチに来れば分かるよ。二人だけで会って以来だろ? また会えて、お前と話しが出来ればきっと喜ぶと……そうか、もう覚えてやしないんだっけな……」

 それまでの気持ちが急速に萎えていく。これまでに犯した数多くの過ちの中でも、それは唯一、取り返しの付かないものだった。
 一瞬、富也の顔が頭をよぎる。だが、虫のよさを差し引いても、こればかりはどうにもなりはしない。
 失われたものは、決して同じ形では戻らない。それが人の心であれば尚更に違いない。
 今の俺と由美子との間だって、やはり以前とは何かが違っている。

「結局さあ、あの子にとって、薫って何だったんだろうね。単なるご主人様? それとも、恋人?」
「…どっちでも無いだろうさ。やたら手間のかかる、単なる子供だ。彼女には変な気苦労を掛けっぱなしだな」
「あはははは、よく分かってるじゃない」

 ドンといきなり背中を叩かれ、俺はつんのめりそうになった。
 そして同時に、思っていた。
 違っていたっていい。本質さえ変らなければ、これからいくらだってやり直せる。
 その中で、また新たに作ればいい…と。

「そういえば、マスターはよくお前の電話番号知ってたな。俺ですら明かしていなかったのに。名刺でも渡したっけ?」
「…ははーん、成る程ねえ。どうも変だと思ったのよね。電源を切ったとか言ってるし、知らぬはご主人様ばかりなり…か」

 そんな思わせぶりな由美子の言葉に「何を言ってるんだよ?」と問うたものの、その瞬間から新たな期待が始まっていった。
 そんな筈が無い。あれからずっと、置き物だったのだから。
 それが当たり前なのに、確信に近い、この期待感は何なのか。

「彼女、言ってたわよ。私は、街に溢れている同型のそれとは少し違うって。本当なら、全てが人の手で管理されなければならない所まで自分の意志が働くって。それはロボットとして恐い面もあるけど、同時に人への強い責任を自覚出来るって」
「…そんな話、俺には一言も無かったぞ?」
「ある訳が無いわよ。そんなの、メイドロボットじゃないもの。…でも、こうも言ってた。私は、人の生活を助ける為に存在するんだって。だからご主人様が望むなら、どんな事でも叶えたいって。でも、それでも、私は人とは同じになれないし、なるつもりも無いですからって」
「………………」
「…その後、彼女が私に何を言ったかは分かるでしょ? 全く、あの子ったらまるで私を失恋した姉さんみたいに思ってとつとつと言って聞かせるんだもの。こっちは逆にはらはらしちゃったわよ。メイドロボットなのに、どうしてそこまで言うの?って少しムッとしたけど、でも、全然イヤじゃなかった。むしろ、本当に妹が出来たみたいで一寸だけ嬉しかった…」
 
 俺は、久々に優しい気持ちになっていた。ギシギシとしか回らなかった歯車が、スムーズに回転し始めた心地良さを感じていた。
 だが、それはそれぞれの思いという潤滑油をこうして今、得られたからに他ならない。そして、ちょっと手を伸ばせばそこにあったものばかりだった。
 それなりに長く生きていながら、ちっとも分かっていなかった。与えられる事ばかりを望んで、与えようとしなかった。
 今からでも与えられるもの。こんな俺に関わってくれる皆の心に応えられるもの。
 はたして、どんなものがあるのだろう?

「……何考えてるか当ててあげようか? メイドロボットのユミコちゃんにどう謝ろうかな?って所じゃないの?」
「……別に謝る事なんかしてねーよ」
「おーおー、素直じゃないねえ薫クンは。でもまあ、そんなセリフを吐くならもっとクラーイ顔でもしなさいよ。笑顔のままじゃあ、説得力なんてゼロだからね」

 言いながら、彼女は自然と前を指差した。俺はその方向に目を向ける。
 すっかり本降りとなり、通い馴れた街全体が真っ白となっている。そんなる中、ポツンと赤い花が咲いた様な不思議な情景だった。
 それは一歩一歩、確実にこちらに向かって歩いてくる。
 花の下に隠れた素顔からは亜麻色の髪が流れ、明かるめのコートに包まれた胸元からは、北欧調の暖かそうなセーターが顔を覗かせていた。
 こんな日でも気軽に履けるロングブーツに、その先端をぶつける様にして腕には紺と桃色の二本の傘を下げている。
 そのいずれも俺が買い、与えていたものだった。そして、それを身に付けていい女性は一人しか居なかった。

「…と、富也のヤロー!メイン電源にまで手を入れてやがったのか!」
「…ぷぷっ、後であの子に聞いてやろーっと。アンタ、もしかしたら知らずに恥ずかしい事とか喋ってたんじゃないの? きっと、ぜーんぶ覚えてるわよねー。こりゃ楽しみ楽しみ〜」
「由美子!余計な事を聞いたらただじゃおかないからな!」

 彼女の頭にうっすらと積もった雪を、俺は両手でグシャグシャ振り落とした。
「何すんのよ!絶対聞いてやるんだから!」と、お返しとばかりに嬉しそうに俺の頭に手を伸ばしてくる。
 そして、思った。
 由美子に連絡をしてくれたのは彼女に違いない。ならば何故、俺のそんな状況が分かったのだろうか。
 富也がさらなる仕掛けをしたか、あるいは彼女ならではの能力だろうか。
 さらに思う。どうせなら、能力の方を信じたい。その方が、これからがもっと面白い。

「おお〜い!ユミコ〜!出迎えご苦労〜!」

 由美子と共に両手を振るそんな姿を認めてか、前屈みな赤い花がゆっくりと後ろに開いた。

薫さん……私……本当に申し訳ありません

 両側から伸びるスマートな耳カバーに挟まれて、少し心配そうな、そんな表情が現われた。間違いなく、ユミコだった。
 俺は両手を降り続けた。そしてその表情が驚きに変わり、やがて優しい笑みへとなっていくのをはっきりと自分の中に認めていた。

「薫さん。私……本当に申し訳ありません」
「ったく、悪い奴だ。今度という今度は許さないからな〜!」

 由美子の肩を抱き、はやる気持ちを押さえきれないまま、俺はユミコの頭を撫でるべく足を早めていった。







                     −   了   −








「あとがき」を読む


 【挿し絵について】

  話中の挿し絵は、鈴木雅久山賊版さんより贈ってくださいました。
  最後のシーンにこれ以上は無いと言える程ピッタリな、とても素晴らしい絵だと思います。
  書き手としてこんなに嬉しい事はありません(^^)。本当にどうもありがとうございます。

  鈴木雅久山賊版さんへのメールはこちらです。
  是非とも感想をお寄せください。



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