「思い」 最終話(前編)



 人間、それなりに生きていれば、何度かこうした事もあるのだろう。
 男が居て、女が居て、俺は男で、逃げる女を追いかけて…
 ただ、同じ追いかけるにしても、その状況はまさにまちまちだ。楽しかったり、腹立しかったり本能的だったり、さらにはやたら辛かったりもする。
 そして俺の場合、間違いなく最悪のケースだった。
 不思議なもので、その瞬間にはまるで修行僧の如く、突然に悟りが開かれる。
 それまで行なってきた自分の行為が、まるで大いなる審判者の様に冷静に分析され、明確な答えを得たりする。
 そして、大抵の場合それは、行なってきた罪の深さにおののく事が多いのだ。

「…由美子……はあ、一体……はあ、…何処、行っちまったんだ……」

 同じ場所を何度も何度も回ったと感じている今の自分が情けなかった。そのまま素直に駅で待ち構えていた方が良かったのかもしれない。タクシーに乗ると踏んで、街道沿いばかり探したのも失敗だった。
 この分では、さすがにもう帰ってしまったに違いない。
 息が切れ、気ばかり急きながらもう走れなかった。その場に立ち止まり膝に手を当て、何とかそれを整える。

 全てが、自分が招いた結果に他ならなかった。自分の判断が、その行動が、まさにこの状況を作り出している。責められはしない。誰一人として。そう、自分以外は……
 俺は時計を見た。普通の家庭ではすっかり夕食を終え、テレビなどの前でくつろいでいる時間だった。そして、由美子にしてもまだ、自宅へは帰っていないだろう。
 一瞬、彼女のマンションへとも考えた。だが、あいつの事だ。頭から門前払いに違いない。それにユミコの事も気にかかる。由美子と何を話したのか、それを確かめてからでも遅くは無いだろう。
 そう結論付け、重くなった身体を何とかなだめて、俺はアパートへと歩み始めた。

「………ゆ…、由美子?」

 通りがかった児童公園に腰を下ろしている、そんなブランコでの姿は見間違えようが無かった。そして、いつからだろうと考えた。もうとっくに探した場所だった。気付かぬ筈が無かった。
 冷や汗が思わず流れた。だが、直ぐ頭を振った。今、そんな事はどうだっていい。ここにこうして、彼女は静かに座っている。

「おい由美子、どうしたんだ。いきなり居なくなって本当、心配したんだぞ?」
「………………」

 こんなセリフは、後から考えると間抜けなものだ。しかし、それなら何を言えばいいのだろうか?
 うつむいたまま微動だにしない姿に、尚も俺は語りかけた。

「そんな所に座ってないで、とりあえずどっかに入ろう。近くに行き付けがあるからさ。小さいけどボトルも入ってるし落ち着けるからそこでなら…」
「…お腹空いたぁ。何か買ってきてよ…」

 え? と、俺は言葉を切った。
 子供用の、やたら小さな木板に座るそんな姿は、思った以上に窮屈そうだった。不自然なまでの姿が、そのまま俺への抗議に感じられた。
 なのに、思いもしなかった甘えるそんな声。ゾクッと背中に流れ、慌てて俺は言葉を変えた。

「わかった。それじゃあ、食事の出来る店に行こう。今ならまだやってる所はあるから……」
「フランスパンが食べたい。それと安ワインも。今ここで、この場所で。…だから、すぐに買って来て」
「わ、わかった」

 不思議な威圧感に、俺は迷わず即答していた。
 そして着ていた自分の上着を彼女に掛けてやり、必ずここに居ろと何度も念を押しながらその場を離れた。
 途中、財布は上着なのを思いだし、慌てて取りに戻ったりもした。

「はは、ドジだよな。それじゃ、必ずここで待ってろよ? ひとっ走り行ってくるからな?」
「……………」

 うつむいた姿のままに、彼女は尚も黙りこくっていた。
 何とも言えない畏怖を感じながらも、それでもその場を後にする。

 俺は、どうしてこんなにも慌てているのだろう。
 何故、由美子の望むものを得ようと思うのだろう。
 何故はっきりと、彼女に別れを告げないのだろう。
 買いものをして時間を稼いでまで、彼女に何を伝えようというのか。
 店まで走りながら、ふとそんな事を考えた。

 …いや、そうしなければならない事がある筈だ。それを告げる為に、俺は由美子を待たせているのだ。
 …それならば、何故もっと早くに告げないのか? それでいながら、どうしてユミコと暮らしているのか。

 その答えはあった筈だ。
 なのに思いは既に絡まり、自分では振りほどけない程にそれは混迷している。
 分かっていながら、その糸口を見付けようともがき、あがいている。
 もう遅いのに、全てが明るみに出ているのに。

 それでもお前は、何を得ようと思うのか?



◇      ◇      ◇




 ユミコが此に来てからの、初めての味気ない夕食がようやく終わった。
 酔いを理由に、俺は早々に床に付いていた。それでも、中々に寝つけなかった。
 閉じる襖の向こうからは、ユミコが台所に立つ、そんな音が響いている。
 食器のカチャカチャ立てる音。ザーっと流れる水の音。トントンと包丁の音。パタパタとスリッパの音。
 明日の為に。そして俺の為に、ユミコが立てている音だった。
 それは病気の時、一番に嬉しい音でもあった。
 しかし、今では悲しい音でしか無い。

 結局俺は、ユミコには何も聞かなかった。由美子が俺に対してそうだった様に、ただ与えられたものを口にしただけだった。
 何を飲んでも、そして何を食べても味がしなかった。
 それでも俺は、そして由美子は、それを享受し続けた。そしてそれは、一抹の感慨すら湧かない行為だった。
 こんな食事は、何もこれが初めてでは無い。親との同居では数え切れぬ程だ。
 だが与え、与えられる事がこんなにも空しいと感じたのは初めてだった。
 そして、その原因は全て自分の行いに収束していた。

『薫が決めた同居人だからさ。私が…どうこう言う事じゃないよ…』

 頬の一つも叩かれるのを覚悟していた俺は、そんな言葉だけを残して走り去る由美子を見送る事しか出来なかった。
 後には、空いたハーフのボトルと、パンの屑が残された。
 彼女に誘われた時、それを拒んだ俺だった。だからこうなる事は当然予想出来ていた。そして俺は、それを否定しなかった。
 それなのに、今は何故、こんなにも空しいのか。

「…薫さん。もう、お休みになられましたか?」

 いつのまにか、音が止んでいた。そして、その声だけが優しく届いていた。
 一瞬、無視を決め込もうかと思った。だが、それはあまりにも子供じみている。

「…いや。どうした?」
「申し訳ありません。どうしても、今日のうちにお聞きしたかったものですから」
「…何だ? 言ってみろ」
「……何故……私に何も……お聞きにならないのですか?」

 その言葉に俺は寝返りを打つと、直ぐさま立ち上がり、つかつかと近寄ってパンと襖を空け放った。
 足下にはエプロン姿のまま正座となり、うつむいたユミコの姿があった。

「……俺に聞いて欲しいのか?」
「………………」
「聞いて欲しいんだろう? だったら話してみろ。それ次第では、お前に罰を与えなければならん」
「……罰…ですか……」

 彼女は表を上げると、いつもの無表情のままの素顔を向けた。それは、悲哀に満ちていた。
 まるで俺への哀れみに思えて、またズキリと胸が痛んだ。

「どの様な罰でも受けるつもりです。ですが、無礼とは分かっておりますが、これだけは言わせてください」
「そんなものを言う必要は無い。何故無断で入れたか、何を話したのか、それだけを簡潔に話せ」

 付き合うつもりは初めから無かった。
 今は事実だけを知り、そして由美子に会い、きちんと会話をする。それが道筋だった。
 この胸の痛みに応えるには、それしか無いと思っていた。

「……薫さんは、何も…望まれないのですね。私にも、そして由美子さんにも。それが、お入れした理由です」
「なんだと?」

 これまでにも、彼女には何度か驚かされてきた。中でも、これは飛び切りだった。
 メイドロボットじゃない。彼女は……

「薫さんが何故、私をユミコと名付けられたのか、由美子さんにお会いしてようやく分かりました。薫さんがその方に求められていたもの、そして、私の役割も…」
「くだらない分析は止めろ!だから何だ!お前がその役割に気付いたのなら黙ってそれを全うすればいい!余計な口を挟むな!」
「……分かっています。それが……私の使命である事も十分に分かっています……」
「分かっているなら何故そんな事を言う!」

 突然の怒り。俺は、そのまま彼女にぶつけていた。
 それに気付き、落ち着こうと思っても止まらなかった。
 自分の行ないがどんなに酷いと分かっていても、こんな瞬間でしかそれを確認出来ないのはどうしてか。
 そして、それが弱者である、ましてや仕えるのが当然である者に対して素直になれないのは何故なのか。

「……由美子さんとは、色々とお話をしました。私は、再び目覚めて初めて薫さんとお会いした時からの事を伝えました。スクラップ寸前の私をあえて探して購入してくださった事や、どんなご家庭よりも良くして頂いている事。そして、日々の生活がとても楽しく感じられる事も伝えました。そうした中で、ご主人様が色々と悩みを抱えられているのに、私が中々応えられない……そんな話もしました。由美子さんは、そんな私の肩を叩いて、笑いながら励ましてくださいました」
「…………………………」
「…そして、由美子さんは私に、薫さんのお話をしてくださいました。学生時代に心が惹かれていた事や、ずっと後に再会出来て驚いた事。そんな薫さんが全然変わられてなくて懐かしくて、そしてとても嬉しかった事。それからは自分の時間の殆どを薫さんと会われてお話をされたり遊んだりした事を、それはもう、とても楽しそうに語ってくださいました」

 俺は心の中で舌打ちした。もはや、ロボットとは見ていなかった。
 そしてある意味それは、驚異的な事でもあった。
 一人の人間であるその女性と、心同じくして言葉を交わせる存在を、俺は何と呼べばいいのだろうか。

「…それで? その後はどうしたんだ? お互いに俺の情報を交換しあって、互いに得るものはあったのか? それで何かを決めたのか?」
「……いいえ、そうしたお話をしただけです。由美子さんの知る薫さんと、私の知る薫さんを共有させて頂きました。薫さんに断わりも無しに、こんな事を致しまして申し訳ありません」
「当たり前だ!」

 俺は彼女の胸倉を掴むと、グイッと引き寄せた。
 「あっ」と声が漏れ、姿勢が崩されて彼女は俺の身体に手を付いた。
 困惑した表情が、さらに俺の前に広がった。

「…いいご身分だな? いつからお前は、そこらのしゃべくりおばさんと一緒になったんだ? え?」
「………申し訳ございません」
「それはもう聞き飽きた。第一俺は、本当の理由を聞いていない。俺が何も望まない? 何を言ってるんだ? そんな言葉で煙に巻こうというのか? ごまかそうと…」
「違います!それは違います!」

 突然の高い声に一瞬、俺はたじろいだ。
 だが、直ぐに気を取り直して目を見据え、よりグイと腕に力を入れる。
 彼女の顔が目前だった。

「…違うだと? なら、はっきりと言ってみろ。俺に分かる様に説明してみろ。それが出来るものならな」
「…………………」
「何を黙っている? …なら、俺が言ってやろう。お前は写真で由美子の顔を知っていた。そして本人が現われ興味が沸いた。断片的に俺から聞いてはいたが、実際どんな人なんだろうかってな。それは由美子にしてもそうだろう。俺を尋ねたら突然知らないメイドロボットが顔を出した。お互い、利害は一致したという事さ」
「そ…それは……」
「違うと言いたいのか? それともその通りか? まあいい。そしてくだらない情報の交換が続いた。お前は由美子を、由美子はお前を、互いが互いの腹を探り合ったのさ。興味と好奇心と、それを持つ互いの会話の楽しさと、そしていくらかの敵愾心を感じながらな。違うか?」
「………それは……薫さんも…同じなのではないですか? それだからこそ、私を購入されたのではないのですか?」
「なにぃぃい?!」

 怒りを込め、掴んでいた腕を俺は押し出していた。
 反動で後ろに飛び、派手な音を立てて彼女はテーブルに激突した。
 そのせいで上にあったものが全て落ち、醤油やソースなど卓上のものが転がり、そのまま床に流れ出た。
 ぶちまけた匂いが次第に濃くなる中、俺はさらに力を込めていた。

「分かりやすく言えと言った筈だ!それはどういう意味なんだ!言ってみろ!」
「……何故……薫さんの生活の中に、私が必要なのか……分からないのです……」
「どうしてそんな事を考える必要がある!俺の勝手だろうが!お前は与えられた仕事を黙々とこなしていればそれでいい。その為にお前は作られ、そして存在するんだろうが!」
「…それなら……それなら何故、こんな私を購入されたのですか?!」

 ユミコは顔を上げると、はっきりとそれと分かる表情を向けていた。
 メイドロボットにはあってはならない、それは怒りだった。
 俺は自分を忘れ、冷静なまでに彼女を見つめていた。

「……それならば…何も私でなくても良かった筈です。こんな中古の私でなくとも、同じ金額で最新のマルチ型だって買えた筈です。それなのに、薫さんはわざわざスクラップ同然の私をあえて探して、そして購入してくださった…それは、何故なのですか?」
「…前にも言った筈だ。危険の中、あえて飛び込むお前のそうした姿に惹かれたと…」
「嘘です!それだけでは無いでしょう?!」

 ユミコから見れば、それはギョッとした表情だったに違いない。
 理解したつもりでも、いざ向けられてくる怒りに俺は恐怖を感じていた。
 その人ではない存在は、さらに言葉を紡いだ。

「…私は、何故、由美子さんと同じ立場に立たなければならないのですか? 表やに立たなければならないのですか? そして何故、薫さんはそれを求められるのですか?」
「……………………」
「おっしゃってください。薫さんの一番の人として由美子さんの前に立つなど、私にはとても出来ません。それは、こんな中途半端な自我を持つ私であれば尚更に許されない事です。そして、それが薫さんの命令であっても、決して行ってはならない事なんです。それは、人間である薫さんが一番理解されておられるのではないですか?」
「…面白い。身勝手な事をしたと思ったら、今度は主人である俺に文句まで言う。一体、お前は何者だ?」

 いつしか俺は手を放し、ユミコを目の前に膝を付いていた。
 先程までの怒りは燻りとなって、体内で僅かな熱を放っていた。

「…薫さんは…今、きっと後悔されていますね。こんなにも反抗的で、ご主人様に意見をするロボットなど気味が悪いでしょうから…」
「正直に言えばな。ついでに、一つ聞きたい。お前の感情リミッターは何故カットされている?」
「……既にお分かりでしょう? 富也様が、そうしてくださいました。私をユミコと名付けられたその日のうちに……」
「ふん、なるほどな。お前はここに来た時から他のセリオと同じ無表情のフリをしていたという訳か…」

 俺は別に驚かなかった。あいつならやりそうな事だと思えたからだ。だが、同時にひっかかりもした。
 元々過度に掛かっているそんなリミッターを外した所で、感上面がより人間に近くなる程度の変化でしか無い。
 しかし、それは明らかに改造であり、違法行為となる。
 それをディーラーでもある富也の所が行なったとなれば、事が公になった時点で身の破滅は免れない。良くてHMの販売停止。来須川との取引そのものが停止しても当然だ。
 そんな無謀を犯してまで、奴は何故そんな事をしたのか。

「…富也様がリミッターを解除されようとした時、私はそれを止めました。明らかに違法でしたし、理由が分かりませんでしたから。ですが、富也様はこうおっしゃいました。『これから暮らす新しいご主人様の為に、これは必要な事なんだ』と。そして『君には、汚れ役を演じて貰う事になると思う。本当に申し訳無い』とも」

 俺は「汚れ役?」と問うた。一瞬意図が分からなかったからだ。
 だが、それは明日にでも奴に聞けばいい。「もういい。分かった」と訂正し、そのまま床へと向かおうとした。

「お話はまだ終わっていません!」
「なんだ。さっきの質問なら答える気は無いぞ。お前が勝手に想像すればいい」
「…そんな訳にはまいりません。私の中での疑問が、その思いが抑さえられない程に大きくなっているんです。ご主人様は……薫さんは、それに応える義務があると思います!」

 言葉と共に腕が回され、ユミコは後ろから抱き付く格好となった。
 俺は驚き、それを振りほどこうとした。
 しかし、万力みたいにまるで歯が立たない。本当なら瞬時に腕の弛緩が解かれる筈だが、それすらカットされていた。

「やめろユミコ!俺を殺す気か!」

 恐怖から大声を出したその瞬間、戒めは解かれ、俺は自由となった。
 慌てて後ろを振り返ると、大きく後退った彼女の姿があった。うずくまり、身体を小さくして脅えた目を向けていた。

「…わ、私……そんな……そんなつもりは……」

 まるで独り言の様に、そんな言葉を繰り返している。
 俺はその前に歩み寄ると再び膝を付き、こちらを見ていないそんな姿をジッと見つめながら言った。

「……ある意味、お前には感謝している。…その持てる力を全て使って、俺の為に尽くし、また尽くそうとしてくれた」
「…わ、私は………」
「お前に言われて、ハッキリと分かった。俺は、由美子に当て付けるつもりで、お前を購入したに過ぎない。同じ人間という訳にはいかない。さりとて、並のメイドロボットでは駄目だ。意志を持ち、自ら行動できる、そんなお前に惹かれたのも、それがあったからだと思う」
「…………………」
「だが、これだけは言っておく。俺は、お前との生活を借りのものとして始めた訳じゃ無い。こうした生活を望んでいたのもまた事実なんだ」
「……そんなにも……」
「その事だけは理解するんだ。言い訳に過ぎないが、それでも…」
「そんなにも…そんなにも薫さんは由美子さんが恐いのですか?」

 体内でくすぶっていた僅かな熱が再び火を吹き、それは行動となって現われた。
 再び胸倉を掴み、強引に引き寄せる。

「もう一度言ってみろ!何様のつもりだキサマ!」
「…私にはこうして手を上げられるのに、由美子さんにはそうされないんですね。追いかけられて会われて、どの様なお話をなさったのですか? もしかしたら、何も話されなかったのではないですか?」
「出ていけ!主人に意見するロボットなど必要無い!さっさとこの家から出ていけ!」

 思わず口から出たものが本音と分かった瞬間、俺は愕然となった。
 彼女の言う通り、何も望んでいない事に気付いていた。由美子にも、そしてユミコにも。
 指摘され、それに対して主人の権限しか口に出来ない俺。
 自宅に居ながら、安息の場所すら追い出された俺。
 みじめさを通り越して、笑いすら浮かんでくる。

「……出てはいけません。ここから帰されたら、間違い無く私はスクラップですから…」
「…そんなものは知った事か。主人に害を成す存在と分かった以上、ここに置いておく訳にはいかない。富也と相談しろ。お前は返品だ」
「……そうやって、由美子さん共々捨てられるのですね。そんな必要など無いではありませんか。由美子さんはいつだって、薫さんの事を思っておられるのですよ…」
「ロボットであるお前に何が分かる!知った口をきくんじゃない!」

 怒鳴る声にも怯まず、彼女は俺を睨み返していた。
 いつしか目には涙を溜め、人間の女性と変わらない感情豊かな表情を見せている。
 こんな状況にも関わらず、そんな彼女を俺は美しいと思っていた。

「…申し訳ありません。こんな私ですが、あと一つだけ聞いてください。…由美子さんは、薫さんに支配される事を望まれています」
「…支配されるだと? それはお前の事だろうが!」
「私は…今の薫さんに支配されたいとは思いません。ですが、由美子さんは違います。薫さんがどんな方であっても、心からご主人様になって欲しいと思われているんです。…私には分かります。由美子さんの前に立つ義務を負わされた私には、それが痛い程に感じられるんです。私が嫉妬を覚える程に、それは薫さんへの強い思いなのですよ。どうかそれを、それを分かってあげてください…」

 いつしか溢れた涙は流れ、頬を伝って筋を作っていた。
 真正面からのそんな彼女の意思。
 だが、今の俺には受け止められない。

「…はは、こいつは面白い事を言う。我が侭で、何でも自分のペースじゃないと気の済まないあの極楽お天気女が、この俺がご主人様になる事を望んでるだって? …はは、こいつはいい。ユミコ、お前中々やるじゃないか!ヒステリーにも驚いたが、まさか笑えるジョークまで言えるとは思わなかったぞ!」

 俺は膝を打って笑っていた。後から後から可笑しさが込み上げて止まらなかった。
 そして、当然ながらそれは自分が望んだ笑いでは無かった。ユミコの言葉を受け止められなくて、拒否の叫びを上げているに等しかった。
 従属する存在。それが主人から見放された時、彼女らが行き着く先ははたして何処なのか。
 俺は目で問う様に、ユミコを見下げていた。

「…薫さん。私の由美子さんへの役割は、これで全て終りました。これまでの記憶を、そして心を、全て自己消去します。もう二度と、こうして薫さんを困らせる事は致しません。今日の事、本当に申し訳ありませんでした。今まで良くしてくださってありがとうございます」

 な!と慌てて彼女の肩を掴んでいた。「まてユミコ!誰がそんな事をしろと言った!」とも叫んだ。
 だが、その目はこれまでの人と何ら変らない強さを持った意志の輝きから、次第に無機質な作りものの沈んだ光りへと変わっていった。
 やがて、それすらもゆっくりと閉じられ、気づいた時には、彼女は完全に動かなくなっていた。


最終話(後編)へ続く.....

[トップメニュー] <-> [二次小説の部屋] <-> [思い −最終話(前編)−]