〜 千鶴さん誕生日おめでとう記念&お題SS 〜
祝いの硬玉 〜 前編 〜
ギギ..ギギギギ...カチ...カチカチ...
そいつらが発する不快な音。擦り合わせ、威嚇し、警戒し、それでいて隙さえあればいつでも襲いかかろうと嬉しそうな雰囲気の不協和音。
それがエコーとなり、鍾乳洞全体にワンワン響いている。
人間の下半身にも似たその姿。だがその上は完全に甲殻質で被われ、巨大なカニ同様に飛び出た目玉に節くれだったいくつもの節足を胸に持つ。
そして何よりも目立つ大きな二本の鋏。
掴まえた獲物を直にでも食そうというのだろうか。異様な泡ぶくでグブグブと口の周りが被われている。
そんな連中が二匹…三匹…四匹……まだ増えるのか? 五匹……おっと!いきなり八匹。
全く、どっから湧いて出てくるのやら……
タチの悪い、しかも出来の悪いB級ホラーばりのシーンに俺は正直ウンザリしていた。
「…どうせなら、本物の大っきな毛ガニなら良かったのにな」
「……耕一さん、食べる気なんですか?」
横の女性は少し呆れた調子でオレにそう言うと、赤い瞳のまま何故かクスッと笑っていた。
チラリとそんな全身を見やる。つややかな黒髪。端整な顔だち。そんな彼女に似合っていた清楚な淡いグリーンのワンピースは既に所々破れ切り裂かれ、そこかしこに血とおぼしきものが滲んでいる。
大半はこうした化け物連中のものだが、いくつかは本人のも混ざっているかもしれない。
「…よそ見をしてていいんですか? 逆に食べられてしまいますよ?」
「さあ、どうだろうかな!」
グワッ!と突然ま横から襲ってきたそのカニ野郎の巨大鋏を裏拳で軽く流すと、そのまま抱え込みながら力任せの逆関節を取った。
「うらああああああ!」
ボギィ!と鈍い音が辺りに響き、次にそこから潰した様なグシャとした感触が続く。俺は力任せにブチブチとそれを引きちぎった。
勢いよく吹き出す白い身と青白い体液。尚も引っかかる長い筋。「ギャアアアアアア」と断末魔の様な声を出しながらも迫ってくるそいつの対鋏をもぎ取った鋏でギィンと牽制し、すかさず節くれだった胸元へと伸ばした五本の爪を思い切り叩き込む!
固い外皮。だが、中身は予想通り柔らかく脆い。
グジャ!っとした感触と共に、背中まで心臓をぶち抜かれたそいつは声を発するヒマも無く僅かな命の灯火を照らして絶命した。
「ほい、千鶴さん」
振り向きざま、俺はもぎ取ったそいつの大鋏を彼女に投げた。「きゃあ!な、何なんですか耕一さん」とその先で驚き声が上がる。
「いや、カニ爪みたいだし、もしかしたら食べられるんじゃないかと思ってさ」
「食べません!もー、一体何を考えているんですか」
「だってさ、千鶴さんってどんな素材でも料理の材料にしちゃうじゃない? それが食べられるかどうかも別にしてさあ」
「…こ・う・い・ち・さん?(にっこり)」
彼女を取り巻く『気』がさらに増大する。急激なる温度の降下と共に、その重圧で俺は数歩後ろに下がっていた。
やば…冗談が過ぎたかな?
刹那!彼女は疾風の様に上にバッと跳んだかと思うと、それまで自分の居た場所に襲いかかっていたカニ野郎目掛けて反転し、俺から受け取った大鋏を下にしてグンと猛烈な勢いで落下した。
「はあっ!」
「ガッ!ァ……」
ザシュっという音と共に僅かな漏れ声を上げ、仲間の鋏で脳天をぶち抜かれたそいつは、まるでスローモーション映像を見るかの様にゆっくりと倒れ、その命の光を灯して果てた。
既に、彼女は俺の側に戻っている。
まだ残る重圧感を誤魔化す様に、俺は手を叩きながら言った。
「お見事。さすがは千鶴さん」
「何を言ってるんですか。それに油断しないで!まだたった二匹目ですよ?」
「ああ、そうだっけ…」
その頃には数だけでも二十匹以上に達しており、既に俺達を取り囲んで大きな鋏を振りながらの威嚇を繰り返していた。
互いの背中を付け、全方向からの攻撃を警戒する。
一匹が飛び出た!
「はあ!」っとすかさず左右に別れ、同時に巨大鋏の根元に一閃入れる!
「グガアアアアア」
両鋏を失い、それでも向かってくるそいつの頭部を俺はグシャリと鉤爪で掴むと、その勢いのまま取り囲む連中の一角を目掛けてブン!とそいつを投げ飛ばした。
ドガッと二匹に命中し、そのまま絡み合う様に三つ巴となる。
両手をもがれたそいつは既に邪魔な存在でしか無く、他の二匹の鋏で餌食の様にザクザクと生きながら解体されていく。
「…容赦の無い連中だ」
そんな俺のつぶやきに応えるかの様に、彼女はコツンと自分の背中を付けてくる。
熱く、そして狂おしいまでの彼女の体温が背中越しに伝わってくるのが分かる。
そんな、彼女の気持ちと共に……
「これじゃあキリがないですね…」
「千鶴さん、残りは俺が片づける。雑魚は任せたよ」
ピクン…と、背中の彼女が動揺する。
その心の中にある俺への想い。信号化して送られてくる相手の意識。次に何を聞いてくるのかは直に分かった。
「耕一さん、まさか鬼の力を全開にして…」
「ああ、こんなチマチマやってても仕方ないだろ? さっさ終らせて、早く家に帰ろうぜ」
「家へ……妹たちが待っている、我が家へ……」
「そうさ。帰って、二人が無事な姿を見せてやろうぜ。…最も、こんな格好でいきなり帰ったら、随分とビックリされるだろうけどさ」
僅かの間。そして、彼女は「確かに」とクスクス笑いながら応えた。こんな状況にありながらも、余裕は失っていない証拠だ。
「折角のお洋服でしたのに………ごめんなさい、耕一さん」
「また買ってあげるよ。これからだって。…そして、いつだって……」
「……はい、楽しみにしています」
一匹ずつではラチが明かないと向こうも思った様だ。一斉に飛びかかる素振りを見せた時、俺は迷う事無く鬼の力を解放していた。
一瞬にして、雑魚共からの不快音がピタリと止まる。
身体の中から溢れ出るもう一人の自分。そいつの喜びと共に肉体や骨格がメキメキと音を立てて発達し、強烈なる新陳代謝と共に身体全体が大きく組み直される。
膨張する筋肉、太くなる骨格、余す程に内からあふれ出るパワー、武器へと化すその全身。そして沸騰する本能。
それこそが、この地球上で無二なる最強の生物である事への証しだ。
…一瞬怯む自分の意識。このまま、この強大な力に飲み込まれてしまうのではないか?
……大丈夫。大丈夫だ。制御出来る。俺の中の鬼は、今でも完全に俺の手中にある。
意識の中から『マチキレネェ。ハヤクシロ!ハヤク!!』と鬼が急かしてくる。
待て、もう少しだ。完全体となったら、思う存分暴れさせてやる。俺の意識の元、いくらだって……
「グゥオオオオオオオオオオオオオオオオーーーーーーーー!!」
彼女の存在をより強く身近に感じながら、俺は歓喜の雄叫びを上げていた。
◇ ◇ ◇
コォ〜ン...
聞き慣れた、いつもの鹿威しのそんな音。
いつ来ても変らない自分の部屋の中で、俺は今、少し緊張しながら彼女の手の動きをじっと見つめていた。
カサカサと乾いたそんな音が、室内に優しく響いている。
「…これを、私に?」
白箱から薄紙を捲り、その服を目にした途端、彼女はその瞳を大きく見開いて俺とそれとを何度も交互に見やっていた。
「うん、そんなに高いものじゃないんだけど、千鶴さんに似合うと思ったからどうかなって」
俺は自分の笑みを意識しながらそう言った。実際、それを押え込む方が無理だった。
これからの暑い季節にピッタリな、少し薄手の淡いグリーン色をしたリゾートワンピース。しかも、一寸無理したオーダーメードの特製品。
貧乏学生からすれば、たった一着の衣服に万札を何枚も出そうなんて思う奴はまず居ないだろう。例えそれが恋人へのプレゼントだとしても、バイトで生計の一部を立てている身なら相当に躊躇するに違いない。
けど、俺は是非ともそうしたかった。恋人同士となって、初めて迎えた彼女の誕生日。
例えそれで毎日が納豆ご飯になったとしても、俺にとってはそれ以上に価値のある事だった。
「うれしい!耕一さん、どうもありがとう」
「わ!ち、千鶴さんそんないきなり…」
まるで無邪気な子供の様にいきなり抱きつきてきた彼女の両肩を受け止めながら、俺はその思いをより強くしていた。
艶やかな長い黒髪。そこからの匂いが俺の鼻をくすぐってくる。リンスの混じった、大人の女性のいい匂い。懐かしい、心休まるそんな香り。
柏木千鶴。それが、俺の恋人の名前。
俺はそのまま抱き締めようとした。
「これ、早速着てみていいですか? これからの夏向けに衣更えしたいって思っていたんですよ。私、何だかもう待ち切れなくて」
「あれ?……あ、うん、勿論いいよ。その為に買ってきたんだから」
いきなり立ち上がった彼女を掴まえそこねた俺は、目の前で空しく腕を交差させたままそう応えた。
既に彼女は洋服を胸元に当ててそれを見ながら、まるで踊るかの様に軽くステップを踏んでいる。
例え、冗談で着ちゃ駄目と言ったとしても、そんな耳はもう持っていないに違いない。
「本当に嬉しい。私、こうしたリゾートタイプのワンピースって殆ど持っていないんですよ。いつもビジネスタイプのばっかりで。一度そうしたのを買ってきた事があるんですけど、梓から『似合って無い。子供っぽい』って散々言われて…。でも酷いんですよぉ。その買ってきたワンピース、さっさと私の手から奪って自分が着てるんです。『うん、少し胸がキツいけどあたしの方が全然似合っているみたいだから貰ってあげる』なんて言っちゃって。全く何て子なんでしょ。普段はジーンズばかりで殆ど着る事の無いクセに。本当失礼しちゃうわ。プンプン」
「あ…あの」
「でも耕一さん安心してください。このワンピースはちゃんと死守しますから。ええ、これは絶対にあげないんだから。それに私だってこうした可愛らしいのを可愛らしく着れるんだって証明しちゃうんだから…」
「千鶴さん…その、着替えるんなら自分の部屋でした方がいいと思うんだけど…」
俺は彼女の言葉を挟んだ。いや、このままずっと見続けても良かったんだけど、ある一線で止めておかないとバレた時にどんな反動が来るか分からない。梓の様にいきなりグーは無いだろうけど、軽く突かれたとしてもダメージは必至だ。
…何しろ彼女も鬼なのだから。
「……いやん。耕一さんのエッチ」
ズコッ!
俺は据わった格好のまま畳に顔面を突っ込んでいた。二十幾つにもなった女性が目の前で半裸になりながらしれっとシナを作ってそんな事を言ってくる姿を想像してみて欲しい。男なら、大抵はこうなって当然だ。
千鶴さんは慌てて前を隠すと、俺からのワンピースを持ってパタパタと部屋を出て行った。
…かと思ったら、ヒョッコリと顔だけ出してこちらをジッと見ている。
「お部屋に居てくださいね。直に見せに戻りますから」
「大げさだなあ。大丈夫、何処にも行かないよ。楽しみに待ってるから」
それを聞いてペロッと嬉しそうに舌を出すと、今度こそパタパタと自分の部屋に引き上げて行った。あの喜び様なら、きっと着替えた後も一人鏡の前で色々とポーズを作って眺めたりしているかもしれない。戻ってくるまでしばらく掛かるだろうな。
それにしても、こんなにも喜んで貰えるとは思わなかった。かなり無理をした買い物だったけど、本当に良かった。
俺はゴロっとその場に横になると、天井を眺めながらさっきまでの千鶴さんの笑顔を何度も思い出していた。
◇ ◇ ◇
柏木家に代々受け継がれてきた忌まわしき血の数々。
俺の親父も、そして千鶴さんたち姉妹の父親である叔父さんにも制御出来なかった『鬼の力』。
それが俺には制御出来た事。そして、俺たち一族以外にもその力が存在したという事実。
そんな、一歩間違えばとても得られなかっただろうこうした安息の日々を、俺は今、十二分に満喫していた。
心の底から憧れていた千鶴さん。俺の初恋の人。
そんな人とこうして恋人同士になれたという事だけではなく、そうした柏木家の忌まわしき血を受け継ぎながらも、こうした家族を守る資格を得られた……その事が、ひとしおに嬉しかった。
いずれ、俺はここに帰ってくる。そう決めている。…その時は、この家族を守る当主として。
今、東京で過ごしているそんな限られた時間は、まさにそれまでの修行期間とも言えた。
『いけません!耕一さんの頼みであっても、それだけは絶対に聞けません!』
柏木賢志。俺の実の父親。
その親父から、母方の実家を経由して仕送りされていた事を千鶴さんから聞かされた時、そうした親父の気持ちを知った今となっても、俺は東京での生活は自力で続ける決意を固めていた。
グータラ大学生で、それまで仕送りを甘んじて受けていた身でありながら何を今更とも思ったが、そんな甘えた状況を自ら打ち壊して、この際徹底的に苦労してみようと考えたからだ。
それまでの一連の事件もどうにか終息し、少し遅くなった東京帰還となった前日、俺は千鶴さんにその事を伝えた。
それが、親父への償いの一つになると考えていたから……
『何を言っているんですか。大体叔父様がそんな事を許す筈がありません。例え耕一さんがそれを望んだとしても、ちゃんと社会に出るまでは柏木本家がその生活を支える義務があるんです。従弟が不必要な苦労をするのが分かっていながら姉の私がそれを傍観しているなんて出来ません!』
『ず、するいよ千鶴さん。だってもう、千鶴さんと俺とは恋人同士の対等の仲じゃな……』
『それとこれとは話が別です! とにかくいけませんったらいけません! お願いですから意地を張らないでこれまで通りにしてください!』
『どっちが意地っ張りなんだよ。千鶴さんこそ全然俺の話しを聞こうとしないじゃないか!』
俺の部屋で何度も何度も同じ言葉を繰り返しながら互いにガンとして聞き入れないそんな状態を見兼ねてか、梓や初音ちゃん、そして楓ちゃんまでもが俺の部屋に集まりはじめ、色々と案を出してきた。
『…だったらさあ、あたしが東京の大学に行くってのはどう? 二学期一杯で授業も終わりだし、その後は下見と称して向こうの予備校に現役入学してもいいしさあ。そうすりゃあ耕一の飯の面倒位見てあげられるよ?』
『……私も、向こうの高校に転入したいです。お洗濯位は出来ますから…』
『え、えっと、それだったら私も耕一お兄ちゃん家の近くに転入したいな。お掃除だって得意だよ?』
『よしよし、皆素直でよろしい。そういう事なら三人揃って耕一の所に転がり込むか。あ、千鶴姉は駄目だぜ? 何をやっても不器用なんだし、それにこっちでの会長の仕事があるんだからさ』
『ちょ、一寸待ってよ! あんたたち何を勝手に決めてるの? そんな事言うんだったら私だって向こうに行くわよ!足立さんに会長代理兼社長をやって貰えば何とか…』
はっきり言ってもう目茶苦茶だ。俺はため息交じりに言った。
『……あのさあ、皆何言ってんの? 大体俺の部屋って六畳一間なんだぞ? どうやって五人一緒に生活するんだよ?』
『そんなのは何とでもなるって。それにスペースの問題なら、耕一はベランダででも寝ればいいんじゃない? 暑苦しい部屋よりもこれから涼しくなる外の方が丁度いいって』
『梓!お前なあ!』
こんな話し合いがまとまる訳も無く、結局最後には俺が仕送りを受ける形となって話にケリが付いた。梓は最後の最後まで『折角東京行きのチャンスなのになぁ』とブツブツ言っていたみたいだったが…
結果、そんな意に添わない決定ではあったけど、正直俺はありがたいと感じていた。柏木家当主となるその日まで、俺はこれまで通りの生活を送る事が出来る。その事が、東京に戻った俺にとっては素直にありがたかった。
戻ってからの一回目の仕送り。その額が、これまで以上に多いだろう事を予測していた俺は、今まで貰っていた額だけ差し引いて、残りを現金書き留めで千鶴さんに送り返した。一通の手紙を添えて。
これまで通りの生活を送りたい。 限られたお金の中で、足りない分はバイトをして、そして勉強もしながら、こちらでの生活を全うしていきたい。
その後、降山の地元名産品といくつかの衣類、そして梓が作った漬け物などと一緒に、一通の手紙が添えられ送られてきた。
『いつでも好きな時に帰っていらしてください。ここは、耕一さんの家なのですから』
そんな一言が、俺の心に染みた。
彼女が喜ぶ事をしてあげたい。俺が戻るまでにも色々と。
それが、今日ここに帰ってこようと思ったきっかけだった。
そして……
「お待たせしました。耕一さん。どうですか?」
スッと目の前に現われた千鶴さんは、俺が贈った淡いグリーンのそんなワンピース姿で、すこしはにかんだ表情をこちらに向けていた。
俺は身体を起こして座り直し、その姿をゆっくりと眺める。
サイズもぴったりだ。そんなスレンダーな身体にとてもよく似合ってる。
それに…凄く綺麗だ……
それが、一番に思った事だった。
「とても綺麗だよ……千鶴…」
普段ならとても言えない様な、そんな恥ずかしいセリフが自然と口をつく。
その言葉に惹かれる様にして、千鶴さんは俺の前まで来るとスッと膝を折り、頬に両手を寄せてきた。
目をつむったそんな表情のまま、彼女の顔が近づく。…柔らかい唇。…俺は自然と、彼女を抱き寄せていた。
そんな時間が、無限と思える程に続く。
どちらからともなく唇を放した俺たちは、互いの瞳を見つめていた。彼女の瞳は涙で溢れていた。
「…耕一さんが私にって、一生懸命になってバイトで稼いだお金で買ってくださった事、私、知っています。……これが、決して安くないものだって事も……。こんな私の為に…ありがとう、耕一さん…」
……俺は……無言のまま、再び彼女を胸元に抱き寄せた。
どうして知っているかなんて、そんな事は今は問題じゃない。
そうした彼女の言葉を聞いて、自分からも溢れてくる…そんな涙は見られたくない。
ただ………それだけの事だった。
◇ ◇ ◇
「…全く、 もうこれで終わりなんだろうな……」
「…気配は……今のところ感じませんし……本当にこれで終わりにして欲しいですね……」
「ああ全く全く。…ったく、何処のどいつだ、こんな事させやがるのは!」
声がよく響く洞内の中、俺は悪態を付いていた。それも当然だろう。
千鶴さんの衣服はさっきにも増して、もはやボロボロ。お互い大きなケガは無いものの、こちらに至っては上から下まで全裸の完全スッポンポンという情け無さ。おまけに靴も失って素足のままだ。
誘い込まれるままに入ってしまったこの洞窟。ごく普通の鍾乳洞に見えるその中は、不自然とも言える燐光性の苔がそこかしこに群生し、洞内を淡く青白い光で満たしている。おかげで明りに困る事が無い代わりに、ここは一体何処なのだろうと思わせる不思議な異空間の雰囲気に周囲は満ちていた。
戻ろうにも、入ってきた場所は既に塞がれて戻れない。じゃあ先に進むとなると、さっきから事ある毎にワラワラと襲いかかってくる魑魅魍魎どもの群れ!
…鬼の力が無かったなら、俺ら二人はとうにこの世には居なかっただろう。
「……もしかしたら……」
「……え?」
後ろから続く千鶴さんが、突然思い出した様にそんな言葉を発した。
「…いえ、家の倉にある古文書からの内容なんですけど……異文化による遺産がここ降山にはいくつか残っていると…」
似た様な話しは俺も知っていた。それは昨年、俺たちを巻き込んだ連続猟奇殺人事件に関係する。
それぞれの雑誌社がネタとばかりに書き立てる中、この地の由来として降山を調査した数々の歴史資料がいくつか紹介されていたからだ。
それは雨月山の伝説を神話的に掘り下げたものや、年代毎に残された史跡を元に検証したものなど結構正統的な内容だったが、中には面白可笑しくという事で宇宙人到来説、果てにはそいつらによる人間牧場説とうさん臭いものもあり、珠玉混在という状況だった。
けど、降山にはまだまだ数多くの知られざる史跡が地中深くに残されているのでは?という内容でどれもが同じ様に締めくくられていたのが印象的だった。
現に、ここに引き込まれる前の観光鍾乳洞だって、そうした調査の一環で最近見つかったものだ。
ならば、これが知られざる史跡なのかもしれない。
そう思いながらも、俺は尋ねていた。
「その異文化って? どっか他国の流浪の民からとか?」
「さあ、私もそこまでは……。ただ、こうした周りの様子だと、そうした異国うんぬんの話しでは無い気がしますね…」
「……異国のものじゃない…か。……なら、もしかして宇宙人のとか?」
そう言いながら、俺は自分で笑ってしまった。宇宙人だって? そんなトンデモ雑誌の受け売りじゃあるまいし。
確かにこうした得体の知れない発光体はここに存在する。襲ってくる奴らだって、それが本当に生物なのかすら分からない。どれもこれも皆目検討が付かない事ばかりだ。
けど、だからといっていきなり宇宙人などと結びつけてしまうのはあまりにも安直だ。何の目的かは知らないが、こうした一連の出来事が人間のテクノロジーによる事も十分あり得る。無論、それが誰の手によるものかまでは分からないが……
「……いずれにせよ、ここから出られないって事は、この洞窟の主なりが俺達に用があるって事だろ? だとしたら、もう先へ進むしか出る方法が無いって事だろうねきっと」
「…そうですね。相手の手にまんまと乗ってしまうのは納得行きませんけど…」
同感だった。その主は俺たちに一体何をさせたいのか。それが分からない事にはどうにも落ち着かない。
鍾乳石から滴る雫で足元の石回廊はすっかりと濡れ、冷たさもあって俺は足裏の感覚を無くしつつあった。鬼の力を発動させれば少しはマシになるけど、ただでさえ消耗の激しい力はなるべく今は使いたくない。
俺はブルッと身体を震わせた。
「こんな事でしたら、靴の方も預かっておけば良かったですね。気が回らなくて本当にごめんなさい」
千鶴さんはそう謝ってくれるけど、もはや後の祭りだ。けど、それに気付かなかった自分が悪いんであって、決して千鶴さんのせいじゃ無い。
「そんな謝らないでよ。千鶴さんのせいなんかじゃないさ。それに、こんな事ぐらいで根を上げてられないよ。 なに、心配しないで。まだまだ体力は十分だし、きっと無事にここから出られる。俺に任せてくれれば絶対に大丈夫だからさ」
根拠なんて当然無い。けど、こうした状況であっても女性にそう言えなければ男としてあまりにも情けない。
…既にフリチン全開で、身体の方は十分に情けない状態なのだから尚更だ。
「ありがとう、耕一さん。頼りにしています」
そんな表情が本心から来ているのを見て取った俺は、恥ずかしくて思わず俯いてしまった。
全く、この人はどうして何気ない俺の一言をそんなにも真剣に受け止めてくれるんだろう。
そんな時、俺はスッと左腕が取られるのを感じていた。そのまま、身体がゆっくりと密着してくる。
腕を通して、千鶴さんの柔らかい感触が伝わる。熱いまでの温もりが、身体中に広がっていくのが分かる。
「不思議ですね。こんな状況なのに、私、ちっとも恐くない。…以前の私だったら、一寸した事にも凄く脅えていたのに……」
「…もう、脅える必要なんて無いさ。今は一人じゃないんだ。今は俺が居る……これからはいつだって……だから、心配しないで……」
不思議な位、今の俺には照れが無かった。むしろ、素直にそうした気持ちを伝えていた。
スッと千鶴さんの足が止まる。
俺もそれに応える様に足を止めると横を向き、ゆっくりと彼女を正面に向かせた。
潤んだ瞳。それでいて、すっかり安心した子供の様な表情。
異常な状況の中にあるのも忘れて、俺は力を抜いた彼女の唇に自分のそれを重ねていた。
腕に力を入れ、彼女の全てをしっかりと包み込む。
千鶴さんの甘い香り。それが鼻孔を通して全身に広がる。頭の中が痺れた様に、次第に真っ白になっていくのが分かる。
ヒュン!
ビュン!
バッ!と瞬時に左右へと跳んだその後に、ガシッ!、ガシッ!と長いものが深く突き刺さるのが見えた。
どちらも有に二メートルはある。一方は鉄銛、そしてもう一方は鉄槍だ。
野郎!今度は不意打ちか!
俺も、そして千鶴さんもそのまま身を屈めて周囲を警戒し、飛んで来た方向を素早く確認する。
「耕一さん!あれ!」
「…ああ、どうやら本命のご登場って訳か……」
一体、それはいつの間に現われたのだろうか。
目の前には、そこがゴールとおぼしきモニュメントがそびえ立っていた。高さにして十メートルはあるだろうか。石で出来た人型の巨像が二体分。
一見して民族衣裳だと分かるその姿。片方は銛を構えた男性。そしてもう一方は槍を両手で構えた女性だった。
「……まるで…アイヌの民族衣裳みたいですね……」
「…確かに。…それにしても男女ペアでの攻撃とはね……あいつら、妬いてるんじゃないか?」
「……もしかしたら、本当にそうかも知れませんよ。…ほら、あれを…」
千鶴さんは二体の間を指差した。真っ黒な磨かれた大理石とも思える台座の上に、真っ赤に光るものが二つ見える。
その魂を思わせる独特の形は、遠目からもよく分かった。
「……まさか……勾玉?」
間違い無く、それは二つの勾玉だった。それが毒々しいまでに深く赤い色を放っている。
しかもそれは巴では無く、互いに相反するかの様に置かれていた。
しばらくそれを観察していた俺たちは、同時に同じ言葉を発していた。
「「これって、ペアゲームの続き?」」
端から見たら何とも間抜けな様子だが、この時の俺たちはまさに真剣そのものだった。
そもそも、こんな地底の中に入ったのだって、そのゲームが目的だったのだから。
しかし、その疑問は直に回答される事となった。
『待っていたぞ』
キーン!と頭を鋭く突き刺された様な衝撃が走る。 俺は頭を抱えて思わずその場にうずくまった。
それでも何とか顔を持ち上げると、千鶴さんの姿を探した。 同じ様に頭に両手を当ててその場にうずくまっている。
俺は駆け寄ろうと、両足に力を込めた。
『ここまでの生き残りを二人ともよく達成した。まさに高貴な血族たる狩猟者にふさわしい。さあ、戦え。その美しき生命をさらに昇華させろ!その命ある限り戦え!』
俺は再度その場にうずくまるしかなかった。それ程までに、その言葉の支配力は絶大だった。
狩猟者? 一体何の事だ? それに戦えとはどういう事だ?
またあの化け物連中と戦えって事か?
そもそも声の主は誰なんだ?
「……耕…一……さん……」
千鶴さんの声。俺は抱える頭を上げて前を見た。
彼女は既に立ち上がっていた。そしてノロノロと身体を動かし、そのままこちらに向かってくる。
「ち…千鶴さん……」
俺も何とか身体を動かしながら、彼女に近づこうと軋む身体を無理に動かした。
ジャリ、ジャリ、っと何とか近寄っていく。
「……一体、この声は………私……身体に力が入らなくて……」
「俺……もだ。……この石像野郎は…何をしやがったんだ? …それとも……勾玉の方か……」
「両……方……かもしれません。いずれにしても……この抑圧は…私たちの鬼の……力に……過敏に反応しています……」
「鬼の?……そんな………という事は……」
俺は石像の方に何とか顔を向けた。その二体の両目が赤く光っている。
くそう!あれが原因か……どうやったらこれを止められる?
その時、俺はふと思い出していた。 連中、ご丁寧に武器をよこしてきてるじゃねえか。
正面を見る。打ち込まれたさっきの鉄銛と鉄矢がその場に突き刺さっている。そしてその向こうには千鶴さんの姿が…
「千鶴さん、その鉄槍を石像の頭に……」
そう言いながら手を伸ばそうとしたその途端、俺の中の鬼が騒ぎ始めた。
ヤメロ、ヤメロ、ソレニサワルナ!
「いけない!耕一さんそれに触れてはダメ!!」と千鶴さんの声が重なる。
…しかし、遅かった。俺の身体は自分の意に反して、その鉄銛を掴んでいた。
『さあ、戦え!』
俺は銛を抜き、素早く後ろに飛んだ。そして構えていた。その全てが、自分の意思に反していた。
そんな眼前からは、赤い瞳と化した千鶴さんが鉄槍を両手に突っ込んでくる姿が間近に迫っていた。
「祝いの硬玉 −後編−」 へ続く.....