夜の風景

 

 トントントントントン....

 単調な音...でも決して不快ではない、心の休まる音...

 それは深い意識の中、何ともいえない不思議な安堵感をもたらしていた。まるで母親に

抱かれて安心している子供の様な気分だ。いつまでもその場に居たい様な、そんな心地良

い感覚。幼少の頃から慣れ親しんできた音。なんだったっけ....

 この感覚も随分と久しぶりな気がする。子供の頃、日がとっぷりと暮れるまで遊んでか

ら帰ると、この音がよく聞こえていたっけ。その後決まって「何時だと思っているの?

もっと早く帰ってらっしゃい」という小言が付いてきたよなあ。

 おふくろ.....なんだ帰っていたのか。帰ってくるなら事前に連絡くらいしろよ

な〜..あかりが泊まりに来る事だってあるんだからよ〜..え、あかり?..

 ガバッと起き上がった。 今日はその日じゃねーか!そりゃまずい!

 台所からは先程の音と共に水の流れる音、ナベのコトコトいう音が聞こえる。

 やべ〜、帰ってきてやがる。まいっちまったな。あかりまだ来てねえだろうな。

 台所に向かって声を張り上げた。

 

「おふくろ〜帰ってくるなら連絡位しろよ〜。びっくりするじゃ...」

「あ、浩之ちゃん起きた?」

 

 そういいながら台所からあかりが姿を現した。薄いピンク色のワンピースにおふくろの

エプロン姿。手ふきで手を拭きながらいつもの笑顔でオレの側に寄ってくる。

 

「あかり..おふくろ帰ってきてるのか?」

「え?おばさん?ううん帰ってきてないけど...今日帰ってくるの?」

「え?あ、いや..そうか...」

「どうしたの?」

「いや、寝ぼけていたらしい...子供の頃の夢を見た。」

 

 何でそんな夢を見たのかなぁ。おふくろが恋しい歳でもあるまいに。それにしても随分

と懐かしい記憶だ。こいつの包丁の音でそれが蘇るなんてなあ。

 あかりは夢の内容についてしつこく聞いてきたが、夢の内容より、そんな夢を見たこと

の恥ずかしさが先に立って、とても話す気にはなれなかった。

 よく見ると身体には毛布がかけてある。どうやらソファーで眠りこけている所を見て、

あかりがかけてくれたんだろう。そうした心遣いが今はとても嬉く感じる。

 サンキューな、あかり...

 

「...オレ寝ちゃってたみたいだな。」

「え?う、うん。呼び鈴鳴らしても全然返事が無いし、玄関には鍵がかかってないし、

何かあったのかと心配になって勝手に上がらせてもらったんだけど、浩之ちゃんソファー

に倒れてるんだもん。具合が悪いのかと思っちゃった」

「ンな訳ね〜だろ? 今日の学校からさっきの買い物までずっと一緒だったじゃねーか。」

「それはそうだけど...昨日まで元気だった人が翌日バッタリって事もあるんだよ。

浩之ちゃん、もし調子が悪いんだったら言ってね。」

「...それってこの前TVでやってた緊急医療現場スペシャルだろ?」

「あ、浩之ちゃんもあの番組みたんだ。そう、それそれ。」

 

 ぺちっ!

 

「あ!」

「お前な〜。あれって働き盛りの中年男性の事例じゃね〜か。しかも仕事での過労が原因

だったぞ。オレはそんな歳でも立場でもねえよ」

「そうかもしれないけど、用心に越した事ないよ〜。」

「真面目な顔して言うなって。(笑)」

 

 まったくこいつは何を心配しているんだか。頭を押さえて渋面のあかりを見てると、

おかしさで吹き出してしまった。あかりは「もう!」という顔をしてふくれている。

 オレは起きて毛布をたたみながら、あかりにその礼を言った。とたんに笑顔が戻る。

 コロコロと表情のよく変わる奴だ。

 

「お風呂沸かしたから入ってきたら? お夕食もう少し時間がかかるから。」

「そうか? じゃあそうさせてもらうかな。」

「うん....えへへっ。」

「?なんだその『えへへっ』って。」

「なんでもない、なんでもない。(ニコニコ)」

 

 ??まあいいか。あかりに見送られる様に、オレは浴室に向かった。

 

◇    ◇    ◇

 

 湯船にゆったりと身を沈めながら、今日の事をボンヤリと考えていた。あかりと一緒の

食料品の買い物。制服姿の男女がという点で、以前はいかにもな感じがイヤだったが、最

近はすっかり慣れっこになっていた。あかりが真剣な表情で無駄無く安く必要な品を買い

込む様は、見ていてとても気分が良い。しかも、食材の山から何故それを選んだのか、い

つ聞いても一つ一つちゃんと説明出来るのには毎回驚かされる。あかりのお袋さんは料理

学校の先生だが、それだけが理由じゃないだろう。言うなれば天成の才能という奴か。

 いい嫁さんになるよな...嫁..オレの..か?

 何か実感がわかねえなあ。結婚ってどういう事だ?男女が一緒の部屋に住むというだけ

じゃねえよなあ...考えたって分かるわけねえか。大体まだ高校生同士だもんなあ。そ

んなこと、いずれ分かる様になるだろう...

 湯船から出て身体を洗う。あかり今日泊まっていくって言ったよな。そうすると久々に

一緒に夜を過ごせるわけだ。身体を洗うのに自然と力が入り、オレは苦笑した。

 あかりとの性の付き合いは考えていた以上に少なかった。あいつと関係を持って初めて

分かった事だが、おれはそうした事に..自分でも笑ってしまうのだが..ムードを求め

るタイプだった様だ。どこでもいきなりガツガツという事はあまり好きじゃない。互いに

リラックスした中じゃないと燃えないタイプなんだろう。(笑)

 あかりは色々と婦人雑誌で調べてるらしく、やれ「苦しくない?」とか「我慢しなくて

もいいんだよ」とか言ってくるが、そういう事は聞かないで欲しいものだ。人の事を解っ

ている様でいて、変な所で解っていないんだよなあ。「お前こそどうなんだよ」と言った

ら顔を赤くしたままうつむいてるし。まあ、よくよく聞いてみれば、あいつにとってはそ

れ程執着したものでもないらしい。男女の違いってのもあるけど、そういうタイプなんだ

ろうなあいつも...

 身体を洗った後、もう一度湯船につかり、オレは風呂をでた。

 

◇    ◇    ◇

 

「浩之ちゃんご飯出来てるよ〜。」

 

 風呂から上がって一息ついていたオレにあかりが声をかけてきた。それに応えて階段を

降りると、食卓には見事な家庭料理が並んでいた。イカとキャベツの甘酢炒め、かぼちゃ

のそぼろ煮、冷えたきゅうりのハムはさみ漬けに加え、つくりたてのあさりのワイン蒸し

まであるじゃね〜か。今日は海産物が多いな。ん?このレタスとトマトの付け合わせてあ

る揚げ物は何だ?これも魚か?

 

「それ、お口に合うといいんだけど。ちょっと食べてみて。」

「お、新作という訳か。それじゃいただきま〜す。」

 

 パク。

 ん?これはカジキ?しかもチーズのはさみ揚げか!それだけじゃない、青じそも一緒に

はさんであるじゃねえか。塩こしょうが適度に効いてこれは旨い!

 うーん、やるもんだな〜あかり。

 さっきからしきりに「どお?」をいう目をするあかりに対して「うん、旨い!チーズと

青じそがマッチして最高だ!」と最大の賛辞を送る。とたんに「よかった〜」と嬉しそう

な顔。その顔が見られた事に満足するオレ。毎回こうした事のくり返しだが、実際何度経

験してもいいものだ。大根と油揚げのみそ汁をすする。うーん、これも旨い!

 実際、こいつのおかげで夕食が本当に楽しくなった。今までは買って直ぐ食えるものば

かりだったが、以前にも増してこうして夕食を作ってくれる様になってから、オレの体調

はすこぶる良くなっていくのが実感出来た。日々の食事の大切さをあかりはしきりに言っ

てたが、頭で分かっているのと身体で知るのとは大違いだ。

 食事って凄いものだよな。

 こいつが居なかったらずっと分からないままだったろうな。

 

◇    ◇    ◇

 

「今日は泊まって行けるんだろ?」

 

 片付け物をするあかりに後ろから声をかける。まあ、事前の約束や、荷物の多さを見れ

ば聞くまでも無いんだが、一応確認してみる。年頃の娘がそう頻繁に外泊する訳にはいか

ないのと、ウチの両親が帰ってくる事があるのとで、こうした日は月に1、2回あるか無

いかだ。家が近いので夕食はよく作りに来てくれるから、あかりのお袋さんにはバレバレ

かもしれないが。

 

「うん、大丈夫だよ。なんか久しぶりだね。」

「そうだな、なかなか時間が合わなかったものなあ。相変わらず志保の所へ泊まる事にし

ているのか?」

「うん。お願いしておいた。」

「何て言ってお願いしたかは知らないけど、気をつけろよ〜。あいつに弱みを握られたら

終わりだぞ〜。」

「クスッ。浩之ちゃんが思ってるより志保は優しくていい人だよ。私が困ってる時、色々

力になってくれた事が何度もあるし。」

「へ〜、あの志保がねえ。なんか信じられねえなあ。」

 

 実際意外だった。けど、よく考えてみれば、オレと志保は昔から軽口を叩きあう間柄で

しか無かった様に思う。互いに本音で語り合う事なんて無かったんじゃねえかな。

 それは付き合う前のあかりにも言える事だった。長い付き合いでも、恋人同士になって

初めて分かった事が結構ある。これからも付き合っていく中でそうした発見のくり返しな

んだろうな。今のオレはこいつにどう映って見えるんだろう?

 食器の片付けが終わり、エプロンを脱いだあかりが居間に戻って来た。

 

「お茶入れるね。」

「いいよ。それより疲れたろ? ゆっくり風呂入ってこいよ。 さっき出る時お湯足して

おいたから丁度いいと思うぜ。」

「え、お風呂? う、うん。そうだね。 じゃあ頂いてくるね。」

「おお。何なら背中流してやろ〜か?」

「ふふふ。 遠慮しておきます。 浩之ちゃん覗いちゃ駄目だよ。」

「バーカ。 くだらねえ事心配してねえで早く入ってこいよ。」

 

 ふっふっふ。覗くなと言われて覗かない健全な男子が居るものか! 当然覗くに決まっ

ているのだ。 え?それもムードかだって? いや、この場合はロマン。そう、男のロマン

なのだよ!<力説してど〜する(影)

 しばらくすると、浴室からザーとお湯を流す音が聞こえてきた。

 ふふふ、我が企みも知らずに悠々と風呂に入っているな。だがまだ早い。後10分。湯

船から出て身体を洗い始める時が勝負だ....

 きっかり時間を見計り、オレは浴室へ抜き足差し足と近づいた。浴室からはシャワーの

音が聞こえる。しめしめ。満を持して、オレは気付かれない程度に浴室の扉を開けた。

 

「....」

「....」

「....」

「....」

「..あかり?」

「....」

「あかり、おい!どうしたんだよ?!冗談やってんじゃねーぞ!」

「....」

「マジかよ!おい!あかり!!しっかりしろ!!あかりぃ!!!」

 

 オレはそのまま風呂場に飛び込んでいた。

 

◇    ◇    ◇

 

 あかりは浴槽にもたれ掛かる様に顔を伏せていた。シャワーは出っぱなしだった。

 初め、何かの冗談かと思っていた意識が事の重大性を感じた瞬間弾け、次には身体が動

き、最後にあかりを抱きかかえて必死に呼び掛けている自分に気がついた。その呼び掛け

によってか、意識を取り戻したあかりを見た瞬間、一気に押し寄せてきた安堵感に身体が

崩れ落ちそうになった。

 

「あかり!あかり!大丈夫かよ!!」

「う..ん...あ、浩之ちゃんどうしたの?」

「どうしたのじゃねーだろーが。 お前倒れていたんだよ。 覚えてねーのか?」

「倒れて?私?なんかクラクラしたのは覚えてるんだけど...あ、浩之ちゃん。シャ

ワーで服濡れちゃってるよ」

「そんなの今関係ないだ..]

 

 そうだまだ浴室だった。オレはあかりを抱え上げると、はやる気を押さえつつ慎重かつ

素早く居間に移動した。ソファーの上にあかりを下ろす。「濡れちゃうから駄目だよ」と

渋るあかりを無視して横たえ、起き上がらない様強く言った後、風呂場に取って返し、大

量のバスタオルを持って戻る。その後身体を拭いたり顔を濡れタオルで冷やしたり、冷水

を口に含ませたりと、自分でも驚く位迅速にあかりを介抱した。

 その甲斐あってか、さっきまで真っ青だった顔に赤みが戻ってきた様だ。バスローブで

身体を包む様にし、そのまま二階の自分の部屋まで抱えながら運ぶ。あかりは終始される

がままだった。すっかり安心したんだろう。顔に生気が戻ってきている。これなら大丈夫。

 真新しいシーツをかけたベットに横たえ、そのまま寝間着に着替えさせてやり、布団を

かけた所でホッとしたオレは、その時になって自分の服がびしょ濡れであった事にようや

く気が付いた。

 

◇    ◇    ◇

 

「38度5分。」

「え!そんなにある?」

「お前な〜、これだけあって何も感じなかったのかよ? 頼むから無茶しねえでくれよ。」

「ごめんね..すっかり迷惑かけちゃって..でも、久しぶりのお泊まりで嬉しくて、

ちょっと位大丈夫かなと思ってつい...」

 

 結局、あかりが倒れた原因は既に引いていた夏風邪にあった様だ。熱があるのにそれを

隠して無理した結末がこれだ。まあ、ウチに一緒に泊まる機会はそう多くは無いし、隠し

たい気持ちはよく分かる。が、だからと言って無茶はしてほしくない。

 以前とは違って、今は何でも話し合える間柄なんだから。

 けど、そんなあかりに気付いてやれなかったオレがやはり一番問題だろう。ついさっき

までロマンだとか下らない事にかまけていた自分が心底情けなかった。

 これからは、オレの方でもっと気を付ける様にしなきゃなあ。

 

「気持ちは分かるけどよ、お前が風呂場で倒れてると分かった時は正直心臓が止まるかと

思ったぜ。お前、前も学校でそうだったけど、人にはおせっかいやくくせに自分の事にな

るととたんに無関心になるだろ。もう、そういうの止めてくれよ。もうお前だけの身体じ

ゃねえんだからよ。」

 

 言ってからハッとなった。もうお前だけの..うう、あかりの奴変な風に取らなければ

いいけどな。あかりを見ると、布団を目下まで上げて顔を赤くしている。オレもしばらく

言葉に詰まったが、そのまま話しを続けた。

 

「だ、だから、今度からは調子が悪いんだったらちゃんとオレに言えよ。こうした事で、

互いに遠慮するのは止めにしようぜ。」

「うん、分かった。今度からはちゃんと浩之ちゃんに言うね。でも、何か嬉しかったなあ。

浩之ちゃん一生懸命介抱してくれて。あんなに一生懸命な浩之ちゃん久しぶりに見たし、

やっぱり男の人ってああいう時頼りになるなあって思ったし。」

「ば、馬鹿言ってんな。ありゃ無意識のうちにだな...」

 

 あかりのストレートな感謝にしどろもどろとはなったが、とりあえずは男としての責務

を果たせた事には満足していた。なによりも、その事をあかりが認めてくれたのが一番嬉

しかった。口には出さないけどよ、お前を守るのはこのオレだかんな。

 

「浩之ちゃん。」

「な、なんだ? 何かして欲しいのか?」

「ううん、その...もう大分落ち着いてきたし...浩之ちゃんがよければ..」

「は? 何がだ?」

「だから...お礼って訳でも無いけど...今なら私、普段より体温高いから..」

「...おい。」

「..いつもするより気持ちいいかもしれな..」

「馬鹿!!何考えてんだお前は!!!」

 

 ヒッと首をすくめるあかり。まーったくこいつは何を考えてんだ!人の事をエロ魔神だ

と思っているんだろうか。まったくしょうがねえなあ。

 その表情を察してか、あかりが話しかけてくる。

 

「でも、また当分機会が無いんじゃ浩之ちゃん苦しいでしょ?だから..」

「だからって病人に自分の欲望を貫く程オレは性欲の権化じゃねえよ。心配するな。次の

時には今日の分も含めてたっぷり相手してもらうからよ(笑)」

「いいけど....浮気しちゃ駄目だよ。」

「あのな〜〜。 まあ、とりあえずは今の病気を早く直す事を考えろよ。 全てはそれから

だろ?」

「うん、そうだね。そうだよね...」

 

 それから、あかりが寝付くまで額のタオルを取り替えたり、髪を撫でてやったりした。

 すっかり安心して寝入るあかり。今日は本当、色々あったよな。男女としての夜は流れ

たけど、それ以上に得る物が大きかった。

 あかり..これから俺達、どうなっていくんだろうな?

 その答えが、今日、少し分かった様な気がするぜ。

 そうしているうちに、いつのまにかオレもあかりの寝るベットにもたれ掛かり、静かな

眠りに落ちていった。


第二章 『思惑』の「兆し」へ続く....

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