〜 「浩之とあかり」番外編 〜

紫陽花の子供 〜 本章 〜





 夕闇深くなった雨振るいつもの公園。
 この時分と天気では、さすがに立ち止まる人影も無く、オレたちの様に抜け道として通る姿がちらほらと見られるだけだった。
 みんな足早で、後ろからの人影は慌てているかの様に素早くこちらを追い越して行く。
 そんな様子を横目にしつつ、すっかりあかりの歩幅に合わせたオレは、その嬉しそうに話す内容一つ一つに応えながら歩みを進めていた。

「あ、浩之ちゃん見て見て。凄く綺麗」

 言われてそちらに目をやると、雨に濡れ、水銀灯の一つに照らしだされて鮮やかに輝く半球状の花が目に入った。
 明かるい所でならもっと綺麗だろうその花は、日が沈んでも尚、水銀灯の力を借りながら自分達の存在を示すかの様に、青紫や紅紫の色調を艶やかに表現している。

「紫陽花か。そう言えばまだじっくり見ていなかったな」
「うん。いつも足早に通り過ぎるだけだったものね」

 あかりはそう言うと、チラとオレの方を見てねだる様な顔をした。
 オレは笑みを浮かべてそれに応えると、「ああ、好きなだけ見てきていいぞ」と返事をする。
 それにニコッと嬉しそうな顔をすると、あかりは照らしだされた紫陽花の方へ足早に向かって行った。オレも後からゆっくりと続く。
 そして紫陽花の側に寄る頃には、覗きこむ様にしてしげしげと観察しているあかりの姿がそこにはあった。

「見て浩之ちゃん、本当に綺麗だねー。紫陽花って五月雨の花ってイメージだけど、こうして雨に濡れた姿ってこんなにも似合うんだね」
「そうだな。こうして雨の中だからこそ元気に咲いているという感じがするよな」
「うんうん、私もそう思う。こうしてじっくり見ていると、本当今の時期にぴったりの花なんだなって思うもの」

 そんな嬉しそうなあかりを見ながら、自分がこうして花を愛でる事なぞ今の今まで無かった事を思い出していた。
 こいつと一緒でなければ、例え同じ花を見た所で「ああ、咲いてるんだな」程度のものでしか無かっただろう。
 オレはあかりに影響され、あかりもオレに影響されながら、次第にそうしたオレたちの関係というものが出来上がってきているのかもしれない。

「浩之ちゃんほらほら、かたつむり」

 見ると紫陽花の葉の上にポツンと一つ、まるで置き忘れられたかの様な姿をしている。

「ああ、本当だ。最近見ないと思っていたけど、今でもちゃんと居るんだな」
「うん。それにしても小さいね。子供のかたつむりなのかな?」

 そう言いながら、あかりは壊れ物に触るかの様にかたつむりのツノをチョンと触る。

「あ、引っ込めた引っ込めた。うふふ、可愛いね」
「おいおい、あんまりかわいそうな事するなよ。軽くやったつもりでも、かたつむりには大打撃かもしれねえぞ」
「え!そ、そうかな。そんなに強くしたつもりは無いんだけど。ごめんね。痛かった?」

 ぷぷっ、かたつむりに謝ってやがる。なんて言うか、やっぱり子供だよな。
 まあ、それもこいつのいい所なんだろうけど。

「心配すんな。その位でダメージ受ける程ヤワな生き物じゃねえよ。冗談だ」
「もー。そうだとは思ったけど、浩之ちゃんがそんな事言うから本気で心配しちゃったんだから」
「はははは。まあ、それより見てみろよ。やっこさん、さっきと変わらず元気そうにしてるじゃねえか」
「あ、本当だ。見て見て、またツノをフリフリしてるよ」

 そんなかたつむりの姿をしげしげと眺めているオレとあかり。
 雨の中にゆっくりと閉ざされ、ふと気がつくとそこにはオレたちだけとなったかの様な、そんな静かな空間がそこにはあった。
 何とも安らいだ時の流れだなあと、我ながらにして思う。
 そして、そうした時がいつまでも続いて欲しいとも.....



◇      ◇      ◇



「....浩之ちゃん。子猫か何かの鳴き声聞こえない?」

 そろそろ帰るか。そう言おうとした矢先、あかりはオレに向かってそう呟いた。
 心配顔の真剣な表情。どうやら冗談で言ってるのではないらしい。
 早速オレは耳を澄ましてみる。だが、聞こえるのは雨の音ばかりだ。

「どの辺りで聞こえたんだ?」
「右の方。薄暗くて見えないからよく分からないんだけど...」

 言われてそちらに足を向ける。水銀灯から外れたその一角は日の落ちた闇で既に被われていた。
 こちらも同じ様に紫陽花が植わっている筈だが、水銀灯の明るさに馴れた目にはそれすら見分ける事が出来ない。

...ニャー....ニャー.....

 確かに聞こえる。やはり子猫の様だ。その切羽詰まった鳴き声から、救いを求めているのが感じられる。

「あかり、以前オレがやった小さなライト付きのキーホルダー持ってたろ。今あるか?」
「あ、持ってる。一寸待って」

 あかりが後ろでごそごそやっている間も、オレは闇の中にじっと目をこらしていた。
 やがて「はい、浩之ちゃん」と小さなライトを受け取ると、屈みながらそれを点灯して紫陽花の植え込みの下を照らしてみる。
 明らかに光量が足りずよく見えない。元々飾りのライトなので仕方無いが、それでも無いよりはマシだった。
 オレはもう一度子猫が鳴くのを待ちつつ、植え込み下の周囲にライトを照らし続けた。

...ニャー、ニャー

 今度はハッキリと聞こえた。こっちだ!
 オレはさらに右に移動すると、再びライトを照らしてみた。

ニャー、ニャー、ニャー、ニャー

 近い。何処だ?何処に居るんだ?
 何度も目をこらすと、やがて植え込みの奥にキラッと光る目らしきものを確認した。
 間違い無い。子猫の目だ!

「あかり、居たぞ。多分子猫だ。間違い無い」
「本当?本当に?」

 それを聞いてあかりもオレの側に来ると、ジッと目をこらしながら何とか子猫を見分けようとしている。

「猫ちゃん。猫ちゃん。おいで、こっちおいで」
「チビ助、こっちだ。こっち来い」

ニャァー、ニャァー、ニャァー、ニャァー

 応えてはいる様だが一向に動く様子が無い。何度呼んでも同じだ。
 オレはしびれを切らし、こちらから近づく事にした。

「鞄と傘頼む。チビ助を引っ張り出してくるからな」
「でも、浩之ちゃんそのままじゃ濡れちゃうよ。それに紫陽花の植え込みで制服がボロボロになっちゃうよ」
「大した事じゃねえよ。もし破れたら後でお前が繕ってくれ」
「う、うん。それはいいけど...」

 後で考えると、何で子猫の為にそこまでしようと思ったのかは分からない。ただ、その時のオレは子猫が救いを求めているものと信じて疑わなかった。
 荷物を全てあかりに預けると、ライトだけを持って植え込みの中を慎重に入っていく。

バサー、バサー

 紫陽花を折らない様に注意はするが、それでもかき分ける時にパキッ、パキッ、と音が交じる。
 そうして進む度に、オレは紫陽花が貯めこんだ雫を頭からたっぷりと浴びる事になった。

「くっそー、まるで天然のシャワーだぜ」

 ぼやきつつも、オレ確実に子猫の方に近づいていく。
 こんな騒ぎの中でも、子猫は依然逃げ出そうとしない。今のオレにとっては願ってもない事だが、少々腑に落ちない。
 そう思いながらも、オレはどうにか子猫がニャーニャー鳴く場所へとたどり着いた。
 そして、そいつが何故その場所で今も鳴き続けているのか、ようやく理解する事が出来た。



◇      ◇      ◇



「浩之ちゃん。どう?」
「駄目だな。完全に固くなっている。死んでから数時間以上は経ってるだろうな」
「どうにもならないの?それじゃ、この子一人ぼっちになっちゃうの?」
「ああ、そういう事だ」
「そ、そんな....」

 あかりは言葉を失って立ち尽くしていた。手には救い出した子猫を抱え、それがニャーニャーと鳴いている。
 それでもハンカチに包まれて少しは安心したのか、先程までの切羽詰まった鳴き方では無いのが救いだった。
 彼女はそんな子猫を胸元に抱いて頭を撫でながら、戻ったオレの方をじっと見つめている。

「ニャー」

 一声鳴く度にあかりは子猫の頭を撫でていた。
 オレは両手に持った雌猫の亡骸を観察した。乳房が大きいので、恐らくは子猫の母親なのだろう。体温が完全に失われたその身体はすっかり固く軽くなり、雨に濡れてグショグショになっていた。
 黄色い首輪をしており、子猫共々飼い猫だった事を伺わせる。身体にはこれと言ったキズも無く、顔も奇麗なままだった。
 何で死んだのかは分からない。事故だったのか病気だったのか、それとも単なる寿命だったのか。
 ただ言えるのは、恐らくこの猫は自分の死期を知っていたのだろうという事だ。子猫の方はそうとは知らず、親猫に付いてきてしまったのではないか?
 だとしたら、今頃飼い主の所は大騒ぎとなっているかもしれない。
 しかし、だからと言って今から飼い主を探す訳にはいかなかった。既に亡骸となっているし、その首輪には何も書かれていないのだ。無論そのまま放置してもおけない。

「埋めてやろう。本当は御法度なんだろうけど、近くで地面のある適当な場所ってここ位だしな」

 その場に親猫を置いて、オレは公園の隅にある掃除用具を置いた小屋に向かった。中にスコップがあるのは分かっている。子供の頃にここをいたずらした時の記憶が意外な事で役立った。
 スコップを持ち出すと、大きめの木を選んでその根元を掘る。雨で濡れた地面は思ったより簡単に掘れるものの、その中に次第に水が貯っていく。
 やがて、埋葬するに十分な大きさの穴を掘り終えると、オレは親猫の所へ戻った。
 あかりは相変わらず無言のまま、悲しそうに親猫を見つめている。
 そんな姿をチラと確認しながら、親猫を抱えて穴の方へ足早に戻ると、少し水の貯ったその穴へ、そっと身体を横たえてやった。
 一瞬、首輪を外してやろうと考えたが、思い止まった。こいつは飼い猫だった。それなら飼い猫として埋葬してやった方がいいだろう。

「浩之ちゃん。待って」

 土を掛けようとしたオレにあかりが声を掛けてきた。その意図を理解したオレは、腰を上げて横に逸れる。
 入れ代わる様にしてあかりが親猫のそばに屈むと、子猫を親猫の脇に着地させた。

「お母さんにお別れをしなさい」

 地面に下ろされて、しばらくキョトンとしていた子猫だったが、次には親猫の身体をフンフンと嗅ぐと、オレたちの方を見て「ニャァー」と先程と同じ声で鳴きはじめた。

 ニャァー、ニャァー、ニャァー
 助けて、助けて、お母さんを助けて

「うっ...」

 あかりは両手で顔を押さえると、そのままうずくまってしまった。
 そんな様子を黙って見ていたオレだったが、やがて震える小さな肩にポンと手を置き、少し強目に言い放つ。

「あかり、子猫を連れて後ろに下がってろ」
「..................」
「聞こえているな? あかり」
「...うん...うん、分かった。そうする」

 涙声でそう答えると、「おいで」と再び子猫を抱き上げて、あかりは少し離れた場所へと移動する。
 それを見届けると、オレは再び親猫の側に屈んで土を掛けはじめた。

 ザアアアアアアアアア....

 日が沈んでさらに勢いを増した雨が、容赦なく身体に叩きつけてくる。
 オレの心はいつしか弔う気持ちで埋めつくされていった。爽快感も不快感も無い、まさに無に近い心境。
 やがて土を被せ終わると、オレは立ち上がった。強い雨はそれを待っていたかの様に、埋葬した部分を馴らしていく。
 顔に伝う雨の流れを感じながら、ゆっくりと目の前の大きな木を見上げた。
 墓標は立てない。この木が墓標の代わりだ。

「...やがてお前の身体は分解され、この木に養分として吸い上げられる。しかし、それはお前が消滅したという事では無く、この木と一つになったという事だ。どうか安らかにな」
「安らかに...子供は無事に育てますから安心してください」

 あかり...
 いつ側に来たのか、彼女は傘を差した姿でオレの横にたたずんでいた。
 その片腕には丸くなった子猫が一匹。ようやく安心したのか、目を閉じてすっかりおとなしくしている。

 強い雨の中、二人でその木を見上げながら、オレは子供の頃飼っていた犬のボスを思い出していた。



◇      ◇      ◇



「浩之ちゃんご苦労さま。大変だったね」
「なーに、とりあえず購入しとかないと困るものばかりだからな。しかし山田さんもいい商売してるよな。こんな汚い猫トイレが五百円だってよ。中古なんだからタダにしてくれてもいいじゃねえか」
「でも新品買ったらもっと高いよ。それに砂も付いてるみたいだし。普通は別売だって聞いたから」
「そうなのか?ペット用品って金かかる様になってんだな」

 あれからあかりと子猫を引き連れて一旦自宅まで帰ったオレは、簡単に着替えを済ませると近所の山田動物病院まで足を運んでいた。
 昔、ボスの面倒を色々とよく見て貰った動物病院で、今はそこの息子さんが獣医を引き継いでいる。
 診療費も良心的で、犬猫を飼う為の用具も安く販売してくれるので、近所でそうしたペットを飼っている所は殆どがこの病院を利用している程の人気ぶりだった。
 オレが訪ねた時は既に診療時間外だったが、若い先生は快く猫を飼う為の用具やペットフードを分けてくれた。
 トイレに蚤取り付きの小っちゃな首輪にドライフードにカンズメ、そして運搬用の猫カゴなどなど。

「三ヶ月位の猫だって言ったら、そのドライフードなら十分食べられるってさ。一応カンズメもあるからしばらくは食い物には困らないだろう。そいつの口に合うといいんだけどな」
「うん、ありがとう。でも私が居る時は作ったのあげていいかな?」
「それはお前に任せる。オレは全然心配してねーから」
「分かった。じゃあそうさせて貰うね」

 子猫を見ると、すっかり安心したらしく、今はあかりの与えたミルクをピチャピチャと旨そうに飲んでいる。あの時は暗くてよく分からなかったっが、明るい所で見るとそれは虎縞模様をした綺麗な毛並の子猫だった。
 白さが目立つのは両足の先部分のみで、後は完全な虎縞模様で埋めつくされている。それがスラリと長く伸びたスマートで可愛らしい尻尾にまで続き、こいつのチャームポイントともなっていた。
 ミルクを飲む度に、そんな尻尾がクネクネと意味も無く宙を舞っている。

「身体は拭いてやったんだな」
「うん、全身ビショビショだったから。そこのタオル借りたから、後で洗っておくね」
「ああ、構わねえさ。しかし乾くと結構つやつやした毛並みになるもんだな」
「浩之ちゃんもそう思う?さっきは濡れてたからやせ細って見えたけど、こんなにもムクムクしていたんだね」

 そう言うあかりの表情は何とも嬉しそうだ。さっきまでの悲しそうな顔とは対照的だが、いつまでもメソメソしているよりかは、その方が断然いい。

「浩之ちゃん、お湯張ったからお風呂入ってきて。さっきずぶ濡れだったから全身冷えてるでしょ?あ、でも風邪引いてるなら止めた方がいいかな?」
「別に風邪じゃねえって!それに濡れたのはお前も一緒じゃねえか。そっちから先に入ってきたらどうだ?」
「ううん、私はレインコートのおかげで殆ど濡れていないもの。浩之ちゃんの制服ビショビショだったから、その間に洗って乾かしてあげる。それに食事の用意もしたいし。だから先に入ってきて」
「分かった、それじゃお言葉に甘えて先に頂くぜ」
「うん、ゆっくり温まってきてね。出てくる頃にはお夕食の方準備出来ているから」
「おう」

 そう返事をすると、オレはそのまま風呂場に向かった。
 着ているものを脱衣カゴに投げ込み、中に入る。
 たっぷりと張った湯船から風呂桶で湯をすくい、身体に流すと、いかに自分の身体が冷えていたのかがよく分かった。
 オレはそのまま湯船に漬かった。

「くうー、極楽極楽」

 我ながらジジくさいとは思うが、この一瞬は何度味わってもいいものだ。

チャポ.....

 先程までの緊張感がウソの様だった。両手で顔を拭うと、オレは再びゆったりと湯船に身を浸す。
 そして、考えていた。
 あかりと一緒で無かったなら、あの子猫には気付く事すら無かっただろうなという事を。
 そして、あの子猫はあかりが助けた様なものだなあという事も。



◇      ◇      ◇



「え?浩之ちゃんの所に置いておくの?」

 予想通りの驚いた表情。だが、オレは構わず続けた。

「ああ、その方がいいんじゃねえか? あかりの所じゃお袋さんに迷惑かける事になるし、ウチならオレだけだから誰に気兼ねする事も無いしな」
「そ、そうかもしれないけど、でもお母さんも分かってくれると思うし....」
「そうは言ってもお袋さんだって毎日仕事持ってるんだろ?それなら誰も居なくなるという意味でウチと一緒じゃねえか。親には話しておくから、心配せずオレの所に置いておけよ。会いたくなればいつだって来れるだろ?」

 あかりはそれでも諦め切れないという表情をしていたが、やがて頷いた。

「うん...分かった。じゃあ浩之ちゃんお願いします。何か迷惑かけてばっかりで申し訳無いんだけど」
「何言ってやがる。今さらそんなの関係ねえって」
「クスッ。ありがとう浩之ちゃん」

 あれからあかり特製の「猫まんま」を食べおわった子猫は、同じく食事の終ったオレたちと一緒に居間でくつろいだひとときを楽しんでいた。
 子猫はいきなりオレの膝に乗ってきたかと思うと、人の人差し指を前足で挟む様にしてカプッと口に含み、奥の歯でこねるかの様にしゃぶり付いてきた。
 歯の尖った部分ではなく大臼歯を使って適当な力で噛んでいるので痛くは無いが、なんとなく指を食われている感じだ。
 そんな行為を飽きる事無く繰り返しているこいつの尻尾はクネクネと踊る様な動きで、それが何とも嬉しそうに思え、不思議と見ていて飽きる事が無かった。
 それにしても、こうした行為は人間の赤ん坊で言えば何に当たるんだろう?それとも単に歯が痒いだけなのか?

「可愛いよね....」

 ふと、あかりがそんな言葉を漏らす。
 目を細めて子猫のそうした様子を優しい表情で眺め続け、ときたま手を伸ばして、そのちっちゃな頭を撫でている。

「ねえ浩之ちゃん。私、この子の名前考えたんだけど....」
「ああ、言ってみな」
「この子、紫陽花の中で見つけたでしょ?だから....」
「『アジ』か?」
「...な、なんで分かったの?」

 そりゃ分かるって。お前のいつものセンスじゃねえか。一体何年来の付き合いだと思ってるんだか。
 オレは逆に質問した。

「けどよお、それってマズイんじゃねえか?」
「え?なんで?」
「例えば魚のアジやる時に『アジ。アジだよ。美味しいよ』って言ってやるのか?」
「...あ!」

 オレは顔を反対側に向けてクックッと笑った。今振り向けば、フグの様に頬を膨らませたあかりが拝める事だろう。

ポフッ!

 ソファーの丸いクッションがオレの頭に振ってきた。

「もー!浩之ちゃんまだ笑ってるぅ」
「わりいわりい。まあ、それならお前の言う通りアジにしよう」
「本当に?うん、ありがとう。じゃあ、あなたは今日からアジちゃんね。私はあかり。あなたが噛み噛みしている人は浩之ちゃん...といっても夢中になってるから分からないかな?クスッ。とりあえず、アジちゃんよろしくね」

 丸いクッションを胸元に抱えながら、あかりは相変わらずオレの指に噛みついているアジの頭を撫でつつ嬉しそうにそう言った。
 そんな様子を暖かい気持ちで見ていたオレだったが、同時に明日からやらなければならない事も思い出していた。それは互いに避けていた話題だった。だが、その事にいつまでも触れないでいる訳にはいかない。
 意を決して、オレはあかりに言った。

「あかり、名前を付けるのはいいけれど、こいつとはいずれ別れなければならないぞ?その事は分かっているな?」
「............」

 思った通り、あかりは目を逸らして黙ってしまった。構わずオレは続けた。

「オレの所もお前の所も普段は家に人が居ない。それは、こいつを飼うには家の中に閉じ込めておかなければならないという事だ。こんな子猫、外に出られる様にしたら一発で他の犬猫や車にやられてしまうからな。それでなくても飼い猫の元で育ってきているんだ。この通り警戒心なんてありゃしない。誰かが見ててやらなければ生きていけない」
「..........」

 昔、ボスを飼っていた事で猫を飼う機会の無かったオレだったが、ペットが好きな友達を通じて子猫を飼う事の難しさは十分に聞かされていた。
 子猫は仕草や行動が可愛いだけに貰い手も比較的多いのだが、そうした馴れない家庭で飼われると、一寸した不注意での事故や病気で死なせてしまう事が決して少なく無かったのだ。
 そうした話しは、無論あかりも聞いて知っている筈だった。

「だから、しばらくは仕方無いからオレの家に置くとして、出来るだけ早くに里親たる飼い主を探してやる必要がある。明日にでも学校の中で誰かに聞いて...」
「やっぱりそれしか無いの?」

 オレの言葉を遮るあかり。
 少し悲しそうなその瞳は、オレを真正面からしっかりと見つめていた。
 言葉で交わさなくとも、こいつの気持ちは十分わかっていた。出来る事なら、このまま飼い続けたいのだ。
 オレだって本当はそうしてやりたい。だが....

「ああ、それが一番だ。考えてもみろ。オレたちがこうして居る時はいい。だが、誰も居なくなったら、こいつは部屋の中に一人ぼっちで待っていなければならないんだ。それが外敵から身を守ってやれる事だとはいえ、育てる環境としては決して良いとは言えないだろう。お前の気持ちは分かるが、これは仕方の無い事だ。明日から里親探しをする。お前もそのつもりでいるんだ。いいな?」

 あかりはプイと横を向いてしまった。
 オレはそれ以上問いかける事をせず、子猫に指を噛みつかせたまま、あかりの様子を見続けていた。
 互いに無言のまま、時間だけが流れて行く。

「...私、この子のお母さんに約束したもの。無事に育てるって約束したもの。だから今さら約束破れないもの」

 思い出していた。そして分かっていた。
 公園での雨の中、こいつが母親の木に向かって言った言葉の意味を。その重みを。
 決してその場だけの情に流されたのでは無い、ある種の決意と言えるものであったという事を。
 だが、だからこそオレとしては言わなければならない。冷たい男だと思われても、伝えなければならないのだ。

「あかり、お前の手でそうしてやりたい気持ちはオレも同じだ。オレだってそうしてやりたい。だがな、オレもお前も毎日毎日ずっと家の中に居て面倒見てやる訳にはいかねえんだ。子猫は生き物だ。しかも無防備で一番危ない時期だ。分かるだろ?オレの言ってる事」
「............」
「しょうがねえなあ。ホレ」

 オレは子猫の口から指を引き抜くと、そのちっちゃな身体を抱き上げ、横を向いたままのあかりに差し出した。
 それでも相変わらず応えしようとしない。ずっと向こうを向いたままだ。

「ニャア」

 そんな時、アジが一声鳴いた。それに従う様に、あかりがこちらを向いた。
 相変わらずオレとは目を合わせようとしない。子猫を見つめたままだ。

「アジちゃん....」

 ようやくオレの手からアジ受け取ると、自分の膝元に置いてその頭を優しく撫ではじめた。アジはそれが気持ちいいらしく、あかりの膝元で身体をクルクルとでんぐり返る様に動かしている。
 やがてそれに飽きると、アジはちっちゃな前足であかりの指をぎこちなく挟み、オレの時と同じ様にカプッと自分の口に含んだ。そして奥の歯を使ってクチュクチュを繰り返す。
 二人とも無言で、そんな様子を眺め続けていた。

「....こうやって人が居るから、この子、こんなに安心していてられるんだよね」
「ああ、そうだな」
「一人になったら、やっぱり猫でも寂しくなっちゃうのかな。一人で遊ぶのかな」
「ああ、寂しいだろうな。せめて二匹ならばドッタンバッタンしながら遊ぶんだろうけどな。一匹じゃ自分の尻尾でも追っかけて遊ぶんじゃねえか?」
「フフフ、犬でそうやって遊んでるの居るよね。そっかー、アジちゃんもそうやって遊ぶんだー...」

 口許では笑いながらも、相変わらず寂しさを隠せないあかり。
 オレはそんな姿を黙って見続けていた。

「分かった。浩之ちゃんの言う通りにする。この子にしても、いつも側にいて面倒を見てくれる人の所で育った方が幸せだものね」

 オレは無言で頷いた。
 そして、こいつの希望を叶えてやれない自分の無力さを痛い程感じていた。



◇      ◇      ◇



 その日の晩。
 あかりをアジと共に見送った後、オレは二階の自分の部屋を片づけていた。
 初めは一階の居間で寝ようかとも考えた。だが、まだトイレの躾も出来ていないのだからどこで粗相をするか分からない。正直オレの部屋でされても困るのだが、後で両親から怒られる事を考えればこれが最善の策だろう。
 片付けて広くした場所に新聞紙を引き、飲み水の皿とトイレを置く。さらにアジの寝床として、タオルを引きつめるた少し広めのダンボールを置いた。ただでさえ狭い部屋が余計狭くなった。
 まあ、これもしばらくの辛抱だ。
 オレのベッドの上ですっ転がって遊んでいたアジを抱き上げると、ダンボールの寝床に入れてやる。箱の高さは然程でも無いので、こいつでも簡単に這い出せるだろう。

「ここがお前の寝床だ。で、ここが水を飲む所、そしてこれがトイレだ。覚えたか?」
「ニャー」

 場所を言う度にいちいち持ち上げてその場に移動させてやる。
 その中でどうやら一番気に入ったのがトイレの砂場で、トトトと駆け寄ると早速前足でガシガシと穴を掘り始めた。オレはそれを見てため息をつく。
 こりゃ、明日の朝はオレの部屋は砂だらけだな....
 半分諦めにも似た気持ちで、オレはアジをしばらく砂場で遊ばせてやった。
 すっかり元気になったアジはそこでオレと一緒に遊ぶのが楽しいらしく、結局は夜遅くまでこいつに付き合うハメとなった。



◇      ◇      ◇



 ...何かが、何かがオレの顔に力を加えている。
 何だ? 何をやっているんだ? 一体誰だ? オレはどうしているんだ?
 寝ている? そうだ、オレは寝ているんだ。
 それじゃ、この顔にかかる圧力はなんだ。特に鼻だ。鼻の穴に誰かが何かを突っ込もうとしている。
 賊か?

 パッと目を開けると同時に、鼻の穴に突っ込んでくるものをガッと押さえる!

「ニャァー」

 痛いとアジが抗議の声を上げた。
 ....え?アジ?お前、何やってんだ?

 スタンドの電気を付けた。見ると直前にはアジの顔がドアップだ。手の中では「ニャウー」と相変わらず文句を言っている。
 それで全ての合点がいった。
 どうやらこいつはオレの鼻の穴に自分の鼻を突っ込んでグリグリしていたらしい。オレを起こしたかったのかもしれないが、勘弁して欲しいやり方だ。

「おい、何やってんだお前は。大体今何時なんだ?」

 ふと目覚ましを見ると...よ、四時半?

「お前なー、一体何時だと思ってるんだよ。明日...って今日か、オレには学校があるんだぞ」
「ニャー」

 分かってるのか分からずか、そんな返事を返すアジ。
 オレは部屋の明かりを付け.....た事を思い切り後悔した。床はもはや見たくも無い状態となっている。
 パッとアジを掴むと、持ち上げて全身をチェックする。案の定、湿った砂が体中にこびりついてドロドロだ。

「アジ....やっっってくれたな〜お前は〜。トイレで自分のをコネコネしちゃったのか?」
「ニャー」
「ニャーじゃねーだろニャーじゃ!」

 オレはアジを持ったまま、階下の流しへ向かった。そこでかなり温目なお湯をひねり、耳に水が入らない様にアジの身体を洗ってやる。
 猫用シャンプーなんて無いから、ハンディーソープで代用だ。

「ニャウー、ニャウー」
「こら、大人しくしてろ。お前、砂と糞尿まみれなんだぞ。その身体でオレの布団や顔の上に乗ってきやがって。全く、明日は部屋の大掃除だぜ」
「ナァウー」

 こうなる予感はあったし、子猫に怒っても仕方ないのだが、つい口調が強くなる。それに伴なって本当に力が加わったら大変なので、おれは出来る限り優しくアジを洗ってやった。
 それが終わると真新しいタオルで丹念に身体を拭いてやる。
 部屋に戻ってパッと放してやると、アジは早速ブルブルっとして丹念に顔を洗ったり身体をなめ始めた。見ていてドッと疲れに襲われる。
 明日はあかりに部屋掃除を手伝って貰う様かな...
 身体の毛が乾いて次第に元のムクムクしたアジに戻りつつあるのを眺めながら、これも里親が見つかるまでの辛抱だと再び自分に言い聞かせていた。



◇      ◇      ◇



 翌日のよく晴れた朝。
 二人一緒の登校で、オレは自分でも分かる程ふらふらと歩いていた。その隣を歩くあかりは気の毒そうにオレを見上げている。
 それも当然だろう。あの後、オレは一睡もしていないのだから。
 アジを洗って拭き終った後、オレは何とか部屋の掃除を簡単に済ませていた。トイレも奇麗してやり、さあ寝ようと再び布団に入って電気を落とした所でまたもや「ニャー、ニャー」と始まったのだ。
 「今度は何だ?」と言っても相変わらず人の布団に乗ってニャーニャー言うばかり。
 その鳴き声から、どうやら腹が減っているらしい。
 仕方無いので、下からミルクを持ってきてやると、何とこれを見向きもしない。
 まさかと思い猫カンを開けると、飛びつく様に顔を突っ込んで一缶ペロッと食ってしまった。

「驚いたな。夕飯食っただろ?お前のお腹はどうなっているんだ?」

 持ち上げて見ると、食べた分だけ何となく重くなった様に感じた。そんな前足を持って広げてみると、証拠のお腹がプックリと膨れている。
 さらにじっくり観察して、その時ようやくアジが雌猫なのに気がついた。何となく妊娠した子猫の様だ。
 そんな本人はいたくご満悦らしく、相変わらず口の回りを舌なめずりしている。

「さあ、食うもん食ったし出すもん出したからもういいな? オレは寝かせて貰うぞ」

 アジをダンボールに戻し、再び布団に潜り込んで電気を消す....と同時に大運動会が始まった。

 ドダダダ、ドダダダダダダダ、ダダダダダダダダ、ダーン、ガラガッチャン!

 オレは飛び起きた。明かりを付けて見ると、ベッドを足がかりにしてオレの机に上り、その上のモノを色々とひっくり返しているのが見えた。その姿はまるで小悪魔だ。

「コラ!アジ、何やってんだ!大人しく寝てろ!」
「ニャァゥー」

 パッと捕まえようとすると、サッと逃げる。ベッドを伝って床に降りたその目は「つかまんないよー」と言ってるかの様だ。
 このヤロー、子猫のくせしやがってー。
 布団から出ると、オレはアジを捕まえようと近づいた。いくら俊敏とはいえ、所詮は子猫だ。パッと逃げようとした方向にサッとブロックして抱き上げる。

「何ておてんばな奴なんだお前は。あまりうるさくするなら手足を縛っちゃうぞ!」
「ナァウー」

 変な鳴き声をしたかと思うと、今度はガガッっとオレの手に爪を立てる。

「いってー!」

 手を放した隙に、パッと逃げるアジ。
 ダダダダダダダダダ
 見る間に部屋の隅まで行くと、チラとオレの顔を見上げる。その目は先程と違い、明らかに「遊ぼう、遊ぼう」と誘っている目だ。

「アジ、今日はもう遊べないんだ。オレは寝るからな」

 存在を無視して寝るべく、電気を消して布団に潜り込んだ。
 また鼻の穴に潜り込まれてはかなわないので、うつぶせになって枕に顔を埋める。そうしていれば、やがては諦めるだろう。
 だが、実際にはアジの方が一枚上手だった。

「ナゥー」
「......!! こっ、コラ!アジ!どこに鼻突っ込んでんだ!」

 暑かったので、タオルケット一枚を半分にして上半身だけに掛けていたオレの死角を見事に付く攻撃だった。
 オレはまたもや飛び起き、部屋の明かりを付けた。

「ニャァウー、ニャァウー(遊ぼう、遊ぼう)」
「アジ、頼むから寝かせてくれよ。朝早いんだからよぉ〜.....」

 初夏を思わせる朝の日差しを浴びながら、オレの頭の中では昨晩のそんな出来事がリピートされていた。

「浩之ちゃん、やっぱり今晩からでも私の家にアジちゃん連れていこうと思うの。昔、家で少しの間だけど猫飼った事あるし、お母さんもきっと分かってくれると思うから...」
「....止めとけ。それって人から短期間だけ預かった猫の事だろ?今度はずっと飼い続けなきゃなんねーんだぞ。第一ありゃ普通の子猫じゃねーよ。今まで見て聞いた中でも最高にパワフルな奴だぜ。お袋さん、ノイローゼになっちまうぞ」
「お母さんなら大丈夫だよ。子猫が夜中にドタバタ暴れるのだって知ってるし。ね?浩之ちゃん。そうしよ?このままじゃ、浩之ちゃん寝不足続きになっちゃうよ?」
「それはお前も同じじゃねえか。どっちが寝不足になるかだけの話しだぞ」
「ううん、私は平気。だってそんな事言ってたら、自分に本当の子供が出来た時育てられないもの」

 そんな事をサラッと言ってのけるあかり。深く考えると少し恥ずかしいが、言った本人は全然気付いていない様だ。かく言うオレも寝不足の頭では反応が鈍い。

「おっはよ〜お二人さん。もう夏の陽気よねー」

 ..でた。今一番会いたく無い奴だ。こうした状態だと、残りの活力を全てこいつに奪われる感じがする。
 オレは返事もせず、ボーっと歩き続けていた。

「ちょっと〜、人が挨拶してるんだからちゃんと返しなさいよ。あかりはちゃんと挨拶してくれたわよ」
「あ、志保、ごめんね。今日浩之ちゃん一寸寝不足で...」
「寝不足ぅ〜? どーせこの男の事だから夜遅くまで漫画読んでたかゲームでもやってたんじゃないの? 全く自己管理ってものが出来ないんだから。あかり、今からビシッと教育してやった方がいいわよ。それでないと男なんてあっという間にグータラ亭主になっちゃうんだからね」
「...るっせーなお前は。いい加減にしろよ」

 不機嫌をむき出しにして志保に言い放つオレ。
 それが志保の琴線に見事なまでに触れた。

「うるせーなとは何ようるせーなとは。あたしは正論を言ってるんじゃない。大体自分の不規則さを一寸指摘されただけで不機嫌むき出しにするなんて精神が幼い証拠よね。自分から改善しようという気持ちすら持って無いんじゃないの?」

 オレは無視を決め込んだ。
 今の志保に分かって欲しいとは思っていない。単に朝からうるさい事を言われたくなかっただけだ。それで無くても寝不足でフラフラの状態だ。出来るだけ体力は温存しておきたい。

「志保、違うの。浩之ちゃんは昨日から子ネ...」
「あかり、いいから黙っていろ」

 オレは言葉を遮る。これ以上引っ掻き回されるのは御免だ。
 それに志保の事だ。相手にしなけりゃ、そのうち怒ってどっかに行くだろう。
 だが、オレのそうした意図は、この後見事に外れる事となる。

「コネ?コネって何よコネって......フフーン、そっか。なるほどね〜」
「え?な、何?」
「あかりぃ。その子猫の名前何て言うの?」
「あ、子猫はアジちゃんって言うんだけど...」
「バッ...あかり!」

 やられた!思わず止めたが時既に遅し。
 志保の目がキラーンと光ったかと思うと、あっという間にいつもの興味津々といった顔つきへと変わっていく。

「へー、あんたの家いま子猫飼ってるんだ〜。どんな猫?アメショーみたいなの?それともミケ?トラ?可愛い?ねえねえ」
「別に何でもいいだろ。行くぞ、あかり」
「ちょっ!ヒロ一寸待ちなさいよ!答えるまで放さないんだからね!」

 心の中で、オレは思わず舌打ちしていた。
 こうなった時の志保はまさに無敵だ。いくらこちらがガードしても、あれよあれよという間に事のあらましを全て引き出されてしまうだろう。先程の引っかけといい、その技はもはや才能と言ってもいい。
 この時点でオレもあかりもすっかり諦め、志保の質問に答えてやる事にした。

「...へー、尻尾がスラッとしてるんだ。知ってる?猫って尻尾が折れ曲がってなくて奇麗に伸びてるとお利口さんらしいわよ」
「そうなのか?その割りにドッタンバッタンとすげえぞ」
「浩之ちゃんそのせいで寝不足なんだよね」
「子猫なんだからその位元気があって当然よ。それよりも、大人になったらきっと賢い奇麗な猫になるわよー。もしかして親猫がそれなりの血統だったんじゃない?」
「どうかな。見た感じは単なる普通の猫だったぞ」

 オレたちはいつのまにか子猫の話題で盛り上がっていた。何だかんだ悪口を言い合っても、こうした時はさすがに長年の付き合いだなと思う。

「それでさあ、アジちゃんは生後何ヶ月位なの?」
「三ヶ月から四ヶ月位だろう。子猫としては一番可愛い時期だな」
「まさに最高の時じゃない!いいなーいいなー見たいなー。そうだ!今日、見に行っていいでしょ?」
「来なくていいよ。お前が来ると部屋の中が余計ひっくり返りそうだ」
「あたしは猫か!大体なんであたしがあんたの部屋をひっくり返さなければならないのよ!」
「まあまあ、二人とも抑えて抑えて」

 あかりのその一言で、オレと志保との緊張感がフッと途切れる。いつもながらのナイスなタイミングだ。
 この後また子猫の話題に戻り、志保はいつも以上に興味を示していた。そして学校に付く頃には、自分で飼いたいとまで言い出した。
 その時のあかりの表情をオレは忘れる事が出来ない。それまで明るい顔をして話していたのが、急に落ち込んだ様な暗い顔となった事を。
 よもやこんなに早く希望者が現れるとは思っていなかったのだろう。
 この日のあかりは、オレの目から見て何となく沈みがちだった。



◇      ◇      ◇



 その日の放課後。
 オレとあかり、そして志保を含めた三人で、オレの家へと歩みを進めていた。
 それだけ聞けば両手に花と思うかもしれないが、先頭を行く志保とあかりは二人で話しており、その後から一人続くオレは従者みたいなものだった。
 それでも二人の会話には耳を傾ける。以前志保から「女の子同士の会話聞いて」と怒られた事もあるが、他にやる事が無いので仕方が無い。
 話しは志保の一方的な内容で、あかりは困った様な顔をしながらそれを聞いている。

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。確かにウチも仕事は持ってるけどパートだし、夕食時までには帰ってくるから猫のエサも遅くならないし」
「うん...でも...」
「それにさ、今日聞き回ってそうした飼い主が見つからなかったんでしょ?だったらあたしの所で飼うのが一番いいわよ。両親もあたしも猫は好きだしさ。ね?いいでしょ?」
「...でも、志保のお母さんがパート行ってる時はひとりぼっちになっちゃうんだよね?」
「そうだけどさ、それだって四時間と無いわよ?まあ子猫のうちは家の中に入れておいて、ある程度大きくなってくれば一匹で外に出してやれるし。案外あっという間だと思うのよね」
「.........」

 あかりは後ろを向くと、困った表情でオレに助け船を求めてきた。自分からは決められないのだろう。
 オレは志保に確認した。

「ちゃんと大事に育ててくれるんだな?」
「当ったり前じゃない!これでも猫は飼った事あるんですからね。あたしに任せておけば間違いは無いわよ」

 どうにも怪しい。単に飼いたいから勢いで言ってるだけの様な気がしてならない。
 だが、実際今日探した限りは猫を飼ってもいいという奴は少なかった。いや、それなりに希望者は多かったのだが、禁止な筈のマンションや団地住まいだったり、こちらと同じく昼間には誰も居なくなる場合が殆どだったのだ。
 こうした中、条件をある程度満たしているのは志保の所だけだった。

「....分かった。取り敢えず見て気に入ったらそうしてくれ。話しだけじゃ解かり難いだろうからな」
「何言ってるの。あんたたちの説明で大体は分かったわよ。大丈夫よ。ちゃんと貰ってあげるから」

 あかりは今朝と同じ寂しそうな表情をすると、すっかりうつむいてしまった。
 それとは正反対に、志保はこれから会う子猫について勝手な想像を膨らませながら嬉しそうにしている。
 オレとしても気分は複雑だった。これで良かったと思う反面、制約は多いが、やはりこちらで飼ってやるべきだろうかと思う気持ちが頭をもたげ始めていたからだ。
 そうこうしているうちに自宅に到着する。オレはポケットから鍵を取り出すと扉を開けた。

カチャリ

「で、どこどこ?何処に居るの?」

 オレが入る前に志保がヌルリと脇から土間に入る。「こっ、コラ!」と言ったオレは、玄関先のマット上に座るものに見を引きつけられていた。

「あ、アジ?」

 何と、二階のオレの部屋に閉じ込めておいた筈のアジがその場に居てオレたちを出迎えているではないか!
 チョコンと置物の様に行儀良く座ったアジは、志保の顔を物珍しそうにジーっと見つめている....と思った刹那、顔を左にクイッと傾けると、まるでシナを作る様な仕草をした。
 それは「?この人だれ?」という気持ちを身体で表現し切った様な可愛いさだった。

「きゃー!何よこの子〜」

 まるで悲鳴とも思える声が上がったかと思うと、次の瞬間、志保は自分の荷物を全て放り出してアジに抱きついた。
 いきなりそんな大きな動物から飛び掛かられたアジはたまったものでは無い。一瞬硬直したかと思うと、次にはジタバタと逃げ出そうとした。

「かわいー!もーなによなによなんなのよ〜あんたは〜。最高じゃな〜い!」

 アジの抵抗もどこへやら。そんな姿を両手で捉えたまま、まるで床に這いつくばる様な格好で頬ずりする志保。
 そんな攻撃に相変わらず脱出を試みるアジだったが、もやは鳴き声を出す事すら忘れてしまったかの様だ。
 後から入ってきたあかりもそんな様子を見て、オレ同様、目を点にした。

「....おい、お前、コギャル言葉は使わないんじゃなかったのか?」
「そんなのどうだっていいわよ〜、もーこの子の可愛さったら罪よ罪。あ〜なんてあなたはこんなに可愛いの?この子のフワフワした毛並みももう最高〜」

 全然気にもしていない。相変わらずアジを抱えて頬をスリスリしている。
 恥ずかし気も無く腰を高々と突き上げた発情期の雌猫の様な格好の志保に茫然としつつ、オレは次に言うべき言葉を探していた。

「浩之ちゃん、大変!」

 そう言ったかと思うと、あかりはオレと志保の脇をタタッと抜けて中に上がり込んだ。行き先は居間だ。

「キャー!どうしよう早くしないとシミになっちゃうー」

と奥からこれまた悲鳴に近い声が聞こえる。
 それでハッと目が覚めたオレは、あかりに続いてすかさず居間に入り、その惨状を「ゲッ!」という言葉と共に確認する事となった。
 なんとサイドボードの上にあったものが殆どひっくり返されており、たまたま置いてあった洋酒の一本からタップリと床の絨毯に酒が注がれてしまっている。
 ブランデーの強い香りが居間中に充満し、この場に居るだけで酔ってしまいそうだ。
 あかりは、誰よりも先にこの匂いを嗅ぎとっていた。

「浩之ちゃん、バケツと雑巾ってお風呂場の方?」
「ああ、取ってこよ...」

 そう言おうとした時、あかりはオレの横をタタタッとすり抜けていった。こうした時のあかりの行動は本当に素早い。
 直に風呂場の方から声が聞こえてくる。

「浩之ちゃん、悪いけど濡れた所にティッシュ敷き詰めておいてくれる?その後は私がやるから。もし他にも溢れているのがあったら言って」
「ああ、分かった」

 オレは回りの酒ビンなどを素早く片づけると、箱ごとティッシュを引っ掴むんで出来るだけ絨毯のブランデーを吸い込ませようとした。
 「ありがとう」というあかりの言葉で交代し、オレは他に落とされた置物や荷物の片づけを始めた。傍らではあかりが必死にブランデーと格闘している。
 居間の損害は軽微という訳にはいかなかった。他にも酒ビン同様落ちて破損した置物などが結構ある。その数が多ければ多い程、後で両親から怒られる割合が高くなる。

 ...仕方ねえ、子猫のやった事だ。

 もはや無理やりにでも諦めの境地に達するしか無かったオレは、ため息混じりに片づけを続けるしか無かった。
 そうしてどうにか居間全体の片づけがほぼ終った頃には、トップリと日が暮れていた。

「あれ?そういえば志保は?」

 思い出したオレはあかりを残して玄関先に戻る。
 志保は既に消えた後だった。
 そして靴箱の上には、切り離したノートによるメモ書きが一通.....
 それを読み終わった頃、あかりも様子を見に戻って来た。

「浩之ちゃんご苦労さま。志保やっぱり帰っちゃったんだね。そうだ、そろそろアジちゃんにご飯あげないと」
「....あかり、読んでみろ」

 あかりは「何?」という顔をしてオレからそのメモを受け取る。
 やがて、それを読み終わったあかりはガックリと肩を落とすと、疲れた顔をしてオレを見上げていた。
 多分、オレもあかりと同じ顔をしていただろう。

『お二人さんへ
 何回も声掛けたんだけどさあ、何か忙しいみたいだから帰るね。それとアジちゃんは気に入ったので貰っていきます。猫カゴ借りていくね。どうもありがとう。それじゃまた明日』

「....何か、トンビに油揚げさらわれたってこういう事言うんだろうな...」

 そんなオレの言葉に、あかりは下を向きながらため息をついた。



◇      ◇      ◇



 昨日同様、よく晴れ渡った朝の登校時間。まるで梅雨が明けたかの様に今日も朝からの太陽が眩しい。
 オレとあかりはそんな清々しい中を、言葉少なにトボトボと歩いていた。
 昨日はまるで台風でメチャクチャになった後の片づけでその日が終った様なものだった。そして、アジが居なくなった事が分かった後のオレたちは虚脱感の極致だった。
 結局あの後二人で静かに夕食を取った後、あかりは「今日は帰るね」と寂しそうに帰って行った。
 オレはその姿を見送りながら、本当にこれで良かったのだろうかと再び思い直していた。
 TVを見る気も起きず、早々に自分の部屋に引き上げる。階段を昇る時、アジの奴よくもまあ自分でこの階段を降りられたものだと感心する。
 部屋の中は案の除荒らされ放題だったが、今日の所は何もする気が起きず、適当にベッドの上を片づけてオレはゴロッっと横になった。そしてボンヤリと考える。
 だが、それは考えても仕方ない事だった。志保に子猫を託した段階で全ては終ったのだから。
 いずれは時が解決してくれる。オレはそう思っていた。

「浩之ちゃん、あれ、志保じゃない?」

 その言葉で我に返る。
 見ると少し先を歩いているのは確かに志保だ。少しフラフラしている様にも見える。
 その理由は何となく想像付くが、それにしても追い越していく学生が笑っているのは何故だ?

「何か変だよね?浩之ちゃんの時みたいにアジちゃんが暴れたのかなぁ」
「ああ、そうかもしれねえな。本人に聞いてみようぜ。おーい、志保〜」

 少々寝不足かもしれねえが、お気に入りの子猫を手に入れた後だ。さぞかしこちらが悔しくなる位嬉しそうな顔で振り向くだろう。
 そう思っていたが、何故か一向にこちらを振り向こうとしない。
 オレとあかりは顔を見合わせると、足早に志保に近づいていった。

「よ!元気してっか?昨日持ってった子猫とどっちが元気だ?」
「.........」

 志保はわざとオレたちから顔を背けるかの様にして返事すらしない。
 オレだけならともかく、あかりに対してもそんな態度を取るのは変だ。思わず志保の肩に手を掛けた。

「おい、どうしたんだよ?まさか昨日のオレへの当てつけじゃねーだろうなー?」
「...........」

 肩を揺するが、相変わらず顔を逸らしたままだ。どうも様子がおかしい。
 と、志保の耳に白いゴムが掛かっているのが見えた。このクソ暑い中、どうやら大きなマスクをしている様だ。
 成る程、これが回りが笑っている理由か.....
 何となくピンと来て、オレは黙ったまま素早く志保の耳からマスクを外した。

「ちょっと!何すん...」

 勢いでこっちを振り向いた志保の顔をすかさずチェックする。

「ハハーン、成る程ね〜」
「...し、志保。それ、どうしたの?」

 慌てて顔を押さえ狼狽する志保。ニヤニヤするオレ。よく分かって無いあかり。
 沈黙を破ったのはオレの方からだった。

「おめー、そのキズ、アジに引っかかれたんだろー」
「なによ!笑いたければ笑えばいいじゃない!まったくあの子ったら、あたしが一寸キッスしてあげただけじゃないのよ!」

 昨日の志保のを見る限り、とても一寸とは思えなかったが、オレはあえて言わなかった。
 なにしろ鼻の突端から下の口にかけて爪の跡がガリッと付いている。女性にとって顔は命だ。そこに傷を入れられたのではたまったものではないだろう。
 一つ心配になって、オレは志保に聞いてみた。

「ところでアジは元気なんだろうな?まさかとは思うが、顔に傷入れられた腹いせに仕返ししたとか...」
「子猫にそんな事する訳ないでしょ!あの後しっかりお母さんに預かって貰ったわよ。そしたら夜中に大騒ぎしてくれてお母さんあたしの事わざわざ起こしに来たんだからね!まったく決められた所でトイレはしないし、それを身体にくっつけたまま人の所に上がってくるし、自分の鼻をグリグリしながら遊ぼうって大騒ぎしたり.....何よ!露骨に笑わなくたっていいじゃない!!」

 これが笑わずにおられるものか。大体自分から笑いたきゃ笑えと言ったくせに。
 そうした目に自分が遭っていた事もあって、オレの笑いは簡単には止まりそうも無かった。志保は当然の事ながら憮然としている。

「浩之ちゃんもう止めなよ」

 あかりに止められてようやく笑い止んだが、それでもまだ顔がニヤけていたんだろう。あかりに軽くつねられる。
 志保はマスクを元に戻すと、少し言い難そうに口を開いた。

「それでさあ、物は相談なんだけど、あの子猫....」
「お客さま。申し訳ありませんが、藤田商事でご購入の品物は一切の返品を受け付けておりません」
「ちょっ!...ねえ、そんな事言わずにさー。母親にすっかりにらまれちゃってるのよー。この通り!」

 志保は両手を合わせると、まるで拝む様な仕草をした。
 オレはクールにいい放つ。

「人に頼み事をするなら、暗黙のルールはやっぱり守って貰わなきゃな」
「言うと思った。じゃあヤックの奢りでどう?」
「あかりの分も含めてな」
「浩之ちゃん。私は別に...」
「いいんだよ。こんな時に遠慮してどうするんだお前は。とまあそういう訳だ志保。スペシャル二人前でよろしくな」
「....全く大損よね。分かったわよ。その代わり今日にでも引き取ってよね」
「ま、いいだろう」

 志保はがっかりしながらも、今日中に子猫を引き取って貰えるという事でホッとした様子だった。
 オレは思わずあかりの顔を見る。
 恐らくは本人も気付いていないのだろう。その顔にはようやく笑みが戻り、自分の手にアジが戻ってくる事が嬉しくてたまらないという表情だった。
 オレはポンとあかりの肩に手を置いた。

「...浩之ちゃん、その....」
「ま、仕方ねえやな」

 オレはあかりの頭をクシャクシャっとする。「きゃあ」と言って自分の頭をおさえながらも、オレの意図が分かったらしくて最高の笑顔を見せていた。

「ありがとう、浩之ちゃん」
「なーに、大したこっちゃねーよ」

 志保が「早くしないと遅れるわよー」と促してくる。
 先程とは打って変わった明るい気持ちで、オレたちは学校までの歩みを早めた。



◇      ◇      ◇



 オレは居間でTVを見ていた。
 今日の放課後、志保からしっかりヤックで奢って貰った後に、あかりは志保の所に子猫を引取りに行った。オレも付いて行こうかと言ったのだが、あかりが「ううん、私一人で大丈夫だから、浩之ちゃんは先に帰っていて」という事だったのでそのまま引き上げてきたのだ。
 自室の掃除もほぼ終わり、やる事が無くなったオレは何をするでも無くボーっとTVを見続けていた。番組は七時半になった事を告げている。
 ...志保の所に行っただけにしては、遅すぎないか?
 いや、きっと志保の所で話し込んでいるのかもしれない。それか、アジを連れて自宅に戻ったかだ。あいつ自分の所で飼いたいと言ってたから、そのまま戻って来ない事も十分考えられる。
 そう思い直し、オレはカップ麺でも食べるべく台所に行ってポットで湯を沸かしはじめた。どうせ後から電話が来るだろうし、その時になって食えないと分かるよりかは今食っておいた方がいいだろう。
 台所の椅子に座って湯が沸くのを待つ。
 そうしながら、オレは今回は自分の考えをあかりに押しつけ過ぎたかなと考えていた。
 あの時、あかりに色々と理屈をこねたのは、単に自分が飼いたくないから出た言葉では無かっただろうか?
 飼うのが面倒とかそういう事では無く、動物を飼う事の難しさ、とりわけ死んだ時の悲しさから避けたかったからじゃないのか? オレはそう思い至っていた。
 ボスが死んだ時の悲しさは今でもはっきりと覚えてる。あの時は本当に胸が張り裂けるかと思う程だった。ああした悲しみはもう二度と味わいたくない。味わせたくない。それが今まで動物を飼わずに来た理由だとも思えた。
 だが、今回の件は完全にオレの思い込みでしか無かったのかもしれない。
 そうした悲しさよりも、日々一緒に暮らしていた時の大変さ、楽しさ、そして嬉しさの方が何よりも大切なものと言えるだろう。オレだってあの悲しさは二度と御免だが、ボスを飼っていた事を後悔した事は一度たりとも無い。

ピィーー!

 ポットの笛の音で考えを遮られたオレは火を止めると、適当なカップ麺を戸棚から取り出した。

ピンポーン

 玄関のチャイムが鳴る。どうやらあかりの様だ。合鍵は持ってるだろうが、オレが自宅に居る時はこちらから鍵を開けてやる様にしている。
 オレは玄関に向かった。既に土間の明かりは付いている。オレはドア越しに声を掛けた。

「あかりか?」
「うん、私」
「一寸待ってろ」

 カチャリと鍵を外し、ドアを開ける。あかりはいつもの紺のオーバーオールに半袖のTシャツという姿で玄関先に立っていた。
 片手には猫カゴと自宅から持ってきた食材、もう片方には大きな旅行鞄の様な荷物を下げている。

「何だその荷物?」
「うん、後で説明するね。入っていい?」
「ああ。まずはその重そうな荷物をこっちによこせ」

 あかりからそれを受け取ると、ズシッとした重さを感じた。一体何が入っているんだ?

「すぐ夕食作るね。アジちゃんの分も一緒に」

 そう言って嬉しそうに差し出された猫カゴの中から、アジが「ニャー」と鳴いた。



◇      ◇      ◇



「な、なんだってー?! それでお袋さんは何て言ったんだ?」
「そういう事なら仕方ないねって。お父さんにはうまく言っておくから、あなたの気が済むまで面倒見てきなさいって」
「...し、しかし、ウチに来るというのがどういう事なのか、本当に状況が分かって言ってるのか?」
「うん、お母さんは認めてくれてるみたい。浩之ちゃん駄目?やっぱり迷惑?」
「い、いや。迷惑なんて事ぁねえけどよ....」

 夕食の間、志保の所からアジを引き取る話しをあかりから聞くだけだったオレは、それが終って再び居間に腰を落ち着けた所で、あの荷物の件を問い質していた。
 あかりの膝元にはアジがおり、またいつもの様に前足で指を掴みつつハグハグと噛みついている。
 話しを聞く前からまさかとは思っていたが、やはり予想通りだった事にオレは驚きを隠せないでいた。

「ま、まあ、お前が普段から食事の面倒を見てくれてるから、両親も安心しきって殆ど戻ってくる事は無いけど、それでも高校生の男女二人だけで同じ屋根の下ってのもなあ」
「アジちゃんが落ち着く間だけでいいの。だって、このままじゃ浩之ちゃんの生活メチャクチャになっちゃうでしょ? それは私がここに居る事でも同じかもしれないけど、アジちゃんだけの時よりはいいと思うの」
「うーん」

 さすがに今回はオレも悩んだ。
 たまにあかりが泊まりに来る事はあっても、毎日となると話しが違ってくる。こいつが生活する為のスペースも必要だろうし、それなりの自制心も必要だろう。
 無論、それならアジをあかりの所に置いておけばという話しはあるのだが、彼女にだけ育てる役を押しつけるのもどうかなと思っていたのも事実だ。

「それに、二人ならどちらか片方が学校から早く帰ってくればアジちゃんの面倒が見てあげられるでしょ?そうすれば浩之ちゃんもお友達との付き合が悪くなる事は無いし、逆に私も浩之ちゃんにお願いする事が出来るもの」
「うーん、確かにそれはいいかもしれねえが....」
「それとね、この子、私の家に連れていって分かったの。何て言うのかな、心の底から安心出来ないみたいなの」
「安心出来ない?」

 あかりはアジについて話し始めた。
 志保の所に引取りに行った時、アジが何となく落ち着かない様子だった事。それは自分の家にアジを持って行った時も同じ様な雰囲気を感じた事。そして、オレの家に持って来た時、始めてアジは伸び伸びとした仕草を見せた事。

「考えたんだけど、アジちゃん、ここが一番安心出来る場所なんじゃないかなと思うの。あの雨の中、アジちゃんを助けてここに連れてきた時、少し脅えていたのがはっきり分かったの。だけど温まるに従って次第にホッとした様子を見せて、最後は始めからここに居たみたいな感じだったでしょ? けど志保の所で見た時はそんな感じはしなかったし、私の所でもそれは同じだったもの。お母さんや私がいくら『好きに遊んでいいんだよ』って言っても変にビクビクして。その時思ったの。この子にとっては、ここが第二の故郷じゃないのかなって。だったら、ここが一番いいのかなあって」
「..........」
「だから私、お母さんと相談したの。その時、それが一番良いと思うなら、あなたの好きな様にしなさいって言ってくれたの。だから私、とにかく用意だけはして行こうって荷物詰めるだけ詰めて...そして、ここに連れてきて、その事がはっきりと分かったの。私、この子がそれを望むなら、そうしてあげたいの。浩之ちゃんに迷惑かけてるのは分かっているんだけど....その代わり、私、自分に出来る事は何でもするから」
「..........」
「浩之ちゃん。お願い!」

 頭を下げるあかりの姿を、オレはジッと見つめていた。
 こいつ、本当に強くなったよな。自分のしたい事をここまできっちりとオレに伝えられる様になったんだから。
 まがりなりにもあかりはオレの恋人だ。しかも付き合いだして一年以上になる。幼馴染なら十数年来だ。
 その恋人がこうして頭まで下げてオレに懇願している。もしオレがここで断わってしまったなら、それだけで恋人失格と言われても当然だろう。
 オレは決心した。

「分かった。そこまで決心しているなら、お前の言う通りにしよう。アジは二人で育てる。こいつが落ち着くまではお前に居て貰ってそれぞれが仕事を分担する。その代わりアジが落ち着いてきたらお前は自宅に戻るんだ。あと両親が帰ってくる時もな。アジの事はその時その時にお互い話し合って決めよう。それでいいな?」

 あかりはその言葉に導かれるかの様にパッと顔を上げると、ありったけの感謝の気持ちが込められた笑顔を向けた。

「うん! ありがとう、ありがとう浩之ちゃん、本当にありがとう....」

 言ったかと思うと、あかりはポロポロと大粒の涙をこぼしていた。自分の気持ちを伝え、それに応えて貰えるまで、あかりはあかりなりに緊張していたのだろう。それが自分の思う通りに受け入れて貰えた事で、緊張感から一気に解放されたに違いない。
 彼女の涙はアジの頭を濡らし、何事かと思ったアジが指を咥えた格好のままあかりを見上げている。

「あ、ごめんねアジちゃん。何でも無いのよ何でも。だから続けてていいからね」

 オレはあかりの隣に座ると、ハンカチを差し出した。

「泣くなあかり。まったくしょうがねえ奴だなお前は」
「ひ、浩之ちゃん....」

 ハンカチを差し出した手を素通りしてオレの肩に顔を埋めるあかり。そんなあかりの背中を、オレはポンポンと叩いてやった。
 アジを見ると、指噛みが飽きたのか口を放して横に寝たまま伸びをし、次には身体を丸める仕草をする。そろそろ眠いのかもしれない。
 オレの肩で泣くあかりと、膝で伸び伸びとするアジとの不思議な組み合わせ。
 そのどちらにも共通する暖かいものを、オレはこの時感じていた。



◇      ◇      ◇



 その日の夜。
 オレはふとした事で目が覚めた。
 目覚ましを見ると四時半を差している。一昨日はアジが布団の上に乗ってきて大騒ぎをした時刻だ。
 外はまだ闇の中だが、それでも昇りつつある日の明るさで白み始めているのがカーテン越しに分かった。小鳥のさえずる声も聞こえ始めている。
 何でこんな時間に目が覚めてしまったのかは分からないが、これもアジの影響なのかもしれない。
 今日は静かだ...いや、いつもは感じない安らかな寝息が一つ。
 オレはベッドの下を見やった。そこにはあかりが布団の上にアジを伴って眠っている。
 クマ柄の半袖パジャマにタオルケットを掛けただけのその姿で、オレの方に顔を向けたまま幸せな寝顔を見せていた。
 アジはと見ると、あかりの胸元にクルッと丸くなり、その胸に顔を埋める様な格好で眠っている。
 昨日はオレのベッドに寝る様にと散々薦めたのだが、あかりはそれをよしとせず、トイレと水飲み場のある同じ床に布団を引いてその上で寝ると言い張った。その方がアジの面倒が見やすいというのだ。
 オレはあかりに悪いなと思いながらも、そうする事を認めていた。こうした場合、オレが無理に決める必要は無い。あかりが最もやり易いと思う方法を取ってくれるのが一番なのだから。
 アジはオレが寝ようとした頃になって再び元気を取り戻していたが、あかりがその相手をしてくれていたお陰でオレは久々に安心した気持ちで眠りに付く事が出来た。その事が、素直に有り難かった。

「ん...」

 あかりが寝息ともつかない声を上げる。それに伴って、アジも軽く寝返りを打った。
 こんな狭い部屋に、男女一人づつと猫一匹.....
 そして、それぞれが同じ時間を過ごしているという事実。何とも不思議な巡り合わせを感じてしまう。
 少なくとも、今こうしてあかりと一緒の時間を過ごせているのはアジのお陰に他ならない。
 アジ...全く以って不思議な奴だ。こんなちっちゃな身体で、これだけ多くの人の心を動かせるのだから。

 「これから先、どんな生活が待っているんだろうな?」

 新たに家族として加わったアジとあかりを見ながら、オレはそんな事を呟いていた。
 
 
 
 
                     −   了   −

 
 
 
 
 
 
 
おまけ
 

「全くあの子猫にはまいったわよ。おかげでしばらくは外出出来なくてさあ」
「まあ、それでも良かったじゃねえか。すっかり傷も消えてる様だし」
「もー本当心配しちゃったわよー。あのまま傷が残ってたら笑い事じゃ済まなかったもの」

 昼休みの屋上で志保との意外なツーショット。本来ならあかりとの昼食タイムなのだが、四時限目の体育の関係で来るのが遅れていた。志保は三年生になってからもクラスが別であり、またもやチョッカイ出しに来た所、オレだけしか居なかったという訳だ。
 オレも志保も金網に背を持たれつつ、そんな昼の一時を互いにボーっと空を見ながら過ごしている。
 志保が頬張るパンと牛乳を横目に見つつ、オレは「腹減ったなー」と思い続けていた。

「所でさあ、風の噂に一寸聞いたんだけどね...」
「何だよ」
「....あかりと同棲してるって本当?」
「......................」
「何で黙ってるのよ?知らない仲でも無いんだから、教えてくれてもいいでしょう?」
「....知ってどうするんだよ?」
「いやー、一寸興味あるかな〜って...」
「....どうせお前の事だ。また志保ちゃんニュースとか言って広めるんだろう」
「おあいにく様。あんた達二人の事なんて広めたって『何だ、とっくに同棲してると思った』ってなものよ。ネタにもなりゃしないわ」
「じゃあ聞く必要もねえじゃねえか」
「聞きたいのよ。本人の口から」
「だから聞いてどうするんだよ?」
「別にどうしもしないわよ!聞きたいの!純粋に!ただそれだけ!」

 さすがに面倒臭くなってきたのて、逆にオレの方から尋ねた。

「じゃあ交換条件だ。それを教えてくれたらオレも教える」
「な、何よ交換条件って?」
「聞きたいか?」
「聞きたいわよ。何よ一体」
「お前と雅史との仲だ。どこまで進んだんだ?」
「ど、どこまでって...」
「言っとくけど、公園まで進んだとか駅まで進んだとかそんな事聞いてねえからな」
「チューボーみたいな事言わないで!その位分かってるわよ!」
「それなら教えろ。何処まで進んだ?」
「ど、どこまでって...別にそんな仲じゃ...」
「そんな仲じゃねえ奴が、二駅先のショッピングモールで嬉しそうにツーショットで歩いたりするか? しかも休みの日に」

 志保が驚きの表情を見せる。狙いドンピシャだ!

「な!なんであんたがそんな事知ってるのよ!」
「..............」
「ちょ、ちょっと答えなさいよ!その話し何処から仕入れたのよ!あかりにだって話した事無いのに!」
「.......クックククク」
「??」
「クククッ..アーハッハッハ、見事に引っかかったなー」
「え?何よ引っかかったって.....あー!もしかしてカマ掛けたでしょう!」
「あったり前だ。オレがそんな情報通な訳ねーだろ。それにしてもこんな見事に引っかかってくれるとは思わなかったぜ。まあ、この前あかりの事を引っかけてくれたお礼だ。これでチャラだな」
「ひ、引っかけたって...子猫と自分のプライベートの事じゃ釣り合わないわよー!」

 志保はジタバタするが既に流れはオレの方にある。勝者の貫禄も十分にオレは言い放った。

「さーて、このネタどう使うかなー、まずはあかりに話して、次は雅史にその真意を問い質すとしようかな。あいつ根が素直だから、これをネタに一寸突っつけば直にボロボロとゲロするだろうしな」
「ま、待ちなさいよヒロ!そんな事したら後が酷いからね!あんたのある事無い事広めてやるんだから!」
「別に構わねえぜ。さーてこの昼休みを利用して早速出かけるとしようかねー」

 オレは金網から身体を放すと、スタスタと出口に向かって歩きだした。当然志保は全力で止めようとするだろう。
 まあ、あいつの力なら大した事ぁねえやな。
 そんな考えで油断が生じていたんだろう。志保はタタタと近寄ってくると、いきなりオレに技を掛けた。

「えーい!コブラツイストー!!」

 まるで絵に描いた如くものの見事にハマり、オレは身動き出来なくなった。女とは思えない程の馬鹿力だ。

「ちょ、一寸待て志保!いきなりコブラツイストは反則だぞ!」
「グダグダ言ってるんじゃなーい! さあ、約束しなさい。誰にも言わないって!」
「そんな約束出来るものか。こんなチャンス滅多に無いからなー」
「だったらそのままここで死ねー!!」
「く、く、くそー!こんなもん痛くないぞー!このまま死んでなるものかー!!」

 意地と意地のぶつかり合いでもはや何がなんだか分からない状態のまま、オレと志保はその場に固まってしまった。
 屋上に居た連中が何だ何だと物珍しそうに集まってくる。それでも志保は力を緩めようとしない。
 結局、その状態から抜け出せたのは、あかりが弁当を持って来た十分後だった。

「浩之ちゃん、志保、どうしたの? 一体何があったの?」
「はー、はー、いやあかり、単なる運動さ。はー、最近こうして暴れる事が無かったしな。はー、はー、なあ志保、そうだな?」
「はぁー、はぁー、そうなのよあかり、はぁー、最近体力余っちゃってさあ、はぁー、はぁー」
「....なんか、以前これと似た様な事があった気がするんだけど....」



あとがき


 どうも、TASMACです。本日は「紫陽花の子供」を読んで頂き、ありがとうございます(^^)。
 本来でしたら本作品は一本の予定でしたが、私の遅筆さから今回序章本章と二本に分けさせて頂きました。
 こうしたSSの中でペットなどの動物を扱うのは少々反則かなあと思いながらも、自分がこれまで飼っていた猫の事を思い出しながら楽しく書いたこの作品、皆さんはどの様に感じられましたでしょうか。
 読まれた方の中には「もしかして続編があるの?」と思われる人も居るかもしれませんが、今の所予定はありません(^^;)。今後の状況は他のお話しの中で少しづつ触れて行こうと考えていますが、「この続きが読みたい!」という希望が多ければ考えますので、よろしければ感想に加えて頂けると幸いです(^^)。
 私が幼少時代の実家は都内ながら周囲が畑で、やたら野良猫が多く、そうした連中が夕刻になるとエサを求めてせがんでくるので、エサ当番はもっぱら私の仕事でした。自分では飼っているつもりは無かったのですが、馴れてくるとそれなりに可愛くて、随分色んな猫の世話をしてきました。
 懐いた猫とは一緒の布団で寝たり、一緒に蚤に食われたり、ある時は自分の部屋で子猫を産んでくれたり、話しの中にある様に子猫とドタバタ遊んだりと、それぞれの猫にそれぞれの思い出が沢山残っています(^^)。
 最近はペットブームでマンションなどで飼われている猫の話しをよく聞くのですが、その度に私としては複雑な気持ちになります。これまで接してきた猫は全てが自由な存在であり、好きな時にフイと出てって好きな時に帰ってくる。そんな風来坊の様な所が私としては何とも魅力を感じていたのですが、最近はそうした自由の無い猫がかなり多くなってきている様です。逆に野良猫としても、最近の都内では住みにくくなってきている...猫にとっても今は受難多き時代という事でしょうか(^^;)。
 今回本作品を書くに辺り、「あかりのページ」の輝行さんより助力を頂きました。輝行さんどうもありがとうございます(^^)。
 次作についてはまだ未定ですが、ここで別のキャラクターを中心とした話しを書こうかと思っています。季節は夏。これまでの読み切りの流れに添った話しにする予定です。どうぞお楽しみに(^^)。


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作者へのメール:tasmac@leaf.email.ne.jp (よろしければ感想を送ってください。お待ちしています(^^))