薄井ゆうじの森
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■午後の足音が僕にしたこと <4> 戻る

 子供が生まれて六か月が経った。
 僕はその日も仕事場で机に向かっていた。ふと仕事の手をとめたときだった。不意に、何かが足りないような気がした。何かが欠落しているという不安感がどこからか滑りこんできて、僕をいきなり支配したのだった。僕は戸惑った。
 −−いったいこれは、何なのだ。
 階上からは赤ん坊の泣き声と、それをあやす妻の声が、かすかに聞こえてくる。町は静かだし、仕事も順調に進んでいる。欠落しているものなんて何ひとつ見あたらないのに、空腹に似た不安感が僕を襲って、僕は身動きさえできなくなってしまった。緊張感とやりきれなさが、交互に襲ってきた。机にひじを突いて、かろうじて上体を支えた。そうしてしばらくじっとしていたとき突然、僕は思いがけないことに気がついた。
 足音が聞こえないのだった。
 いつからだろう。この四日間くらいずっと聞こえない。どうしてそれに気づかなかったのだ。この数年間、一日だって途切れたことのない足音がもう四日間も聞こえないというのに、僕はたったいまそのことに気づいたのだ。得体の知れない不安感は、そこからまっすぐに僕を射抜いていた。
 なぜだ。なぜ彼女は来ないのだ。どうして通りを歩かない。彼女の身に、何かよくないことでも起きたのか。あるいは、何か特別いいことがあったために、彼女はこの町を離れたのだろうか。では、どうしてそのことを僕に知らせに来ない。いや、知らせに来るはずはないが、彼女はいまどこにいるんだ。そして彼女はいま、幸福なのか不幸なのか。
 いたたまれなかった。時計はすでに、二時をまわっている。なんてことだ。怒りがこみ上げてきた。このくそったれな午後に、彼女はいまどこで何をしているんだ。あるいは彼女はもう……。
 二階へ上がっていくと、妻が僕の顔を見て小さく声を上げた。心配して体温計と薬を持ってきたが、僕はそれを手で振り払い、ベッドに潜りこんだ。そのまま深夜まで、ぐっすりと眠った。まるで、固まりかけた石膏が発する微熱のような眠りだった。まだ暗い明け方、ベッドの隣りに妻の気配を感じて、僕と美津子は静かなセックスをした。それでも、僕の欠落感は満たされることはなかった。
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