薄井ゆうじの森
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■午後の足音が僕にしたこと <5> 戻る

 翌日、僕はその時間になるのを待った。彼女はもう、二度と通りを歩くことはないだろうと僕は思う。そう確信したのだ。だから今日は、僕が歩く。
 家を出て、大通りを東の端まで行った。時計を見る。一時二十五分。僕はゆっくりと、東の端から西に向かって歩きはじめる。
 ハイヒールは履いていないけれど、僕は僕の足音に、充分満足だった。居酒屋の前にさしかかる。僕は−いつものように−その前で足を止める。居酒屋のドアに貼られた古い映画のポスターには、読めない文字で落書きがしてある。店内は薄暗く、椅子を載せたテーブルがいくつか見える。
 僕は歩き出す。その三軒隣りに、窓の開いた古い家がある。窓のそばには大きな古い机が置いてあって、その上に黒いタイプライターのようなものが載せてある。僕はさらに西へ歩く。西の端まで歩いて行って、通りの反対側へ渡る。こんどは東へゆっくりと戻る。雑貨屋がある。薄暗い店内に入ると、雑貨屋の女主人が僕の顔を見て、驚いたような表情をする。僕はゆっくりと店を出る。
 郵便局まで歩く。なかに入り、窓口で切手を一枚買う。郵便局員も、なんだか驚いたような顔を僕に向けて、切手を一枚よこす。それをてのひらに握りしめて、僕は郵便局を出る。外は陽射しが強い。「ひどい降り」などしていないが、遠い記憶が雨の匂いを運んでくる。だが、それもすぐに消える。
 東へ。前方の信号機は青だけれど、−いつものように−僕は立ち止まる。ゆっくりと信号が変わるのを待つ。交差点は車も人も通らないまま、信号を青から赤へ、そしてまた青に変えた。僕は歩きだす。
 やがて東の端へたどり着く。僕の足音は、町の端で消える。そのとき僕に悲しみが襲ってきて、握りしめていた一枚の切手は、汗ばんだ僕のてのひらに、ぴったりと貼りついてしまう。

(了)
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