薄井ゆうじの森
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■午後の足音が僕にしたこと <3> 戻る

 僕は間もなく、隣町で知り合った美津子という、二つ年下の、小柄な女性と結婚した。彼女が僕の家に住むようになったために家のなかは改造し、壁紙は新しいものに取り替えて家具も新調した。
 僕と彼女は、それまで使っていなかった二階の部屋に大きなベッドを運びこんで、夢のような、ファンタスティックな色彩の壁紙をいちめんに貼った。その隣りの部屋には運動器具をいくつか設置して、僕と彼女専用のアスレチック・クラブにした。食堂は模様替えをしてレストランのようにしてしまったし、バスルームはジャングル風呂みたいに飾りたてた。家のなかはまるでテーマパークみたいになったけれど、僕も彼女も、そういう賑やかな雰囲気を気に入っていた。
 そして二年、美津子とのあいだには男の子が産まれた。家のなかはいよいよ騒々しく、陽気で賑やかになった。
 けれど、僕の仕事部屋だけは以前とすこしも変わっていない。そこだけは、いっさい手を付けなかった。床は板張りのままだし、壁紙も汚れたままで、窓ぎわには父が使っていた古い大きな机が置いてある。昼のあいだ僕は、そこでいつものように仕事をつづけた。
 そして午後一時二十五分、今日も東のほうから足音が聞こえてくる。大通りの様子も僕の家のなかもすこしずつ、あるいは急激に変化しているけれど、変わらないのは僕の仕事部屋と、午後に聞こえる名も知らない彼女の足音だけだった。
 あの雨の日以来、僕は彼女に会うことはなかった。結婚という一連の忙しい作業に追われていたし、仕事もこの二年のあいだに急に増えた。僕は外出することがほとんどなくなった。買物や速達を出す用事は、美津子が代わりに行ってくれるので、あの女性と話をするきっかけなんてどこにも転がっていない。もしきっかけをつくれたとしても、僕は彼女に話しかけたりはしないだろうと思う。それは美津子への礼儀のような気がするからだ。
 だが僕は、彼女と話をしてみたかった。訊きたいことが山のようにあるのだ。なぜ毎日決まった時間に歩くのか。どうして居酒屋の前で立ち止まるのか。郵便局は? 信号は? そういうことをすっかり聞き出してどうなるものではないけれど、いつか機会があったら訊いてみたいと思っている。
「ひどい降りね」
 あの雨の日、僕と彼女はたったひとこと言葉を交わしただけだった。ひどい降りね。彼女はまるで強い風雨が自分の責任だとでもいうように、済まなそうにそう言って雨のなかに消えた。
 こつこつ。今日も彼女の足音が聞こえる。
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