ハイドパークのシマリスくん

 駅の近くのホテルにチェックインして、ロビーで彼と落ち合った。半年振りの再会だった。彼はここで俳優の勉強をしながらインド料理屋でコックをやっている。そもそもは皿洗いでもしながら俳優の勉強をするつもりでこの土地を訪れたのだが、たまたま求人のあったインド料理屋のおやじに腕を見込まれて、いつの間にかそちらが本業になってしまった。調理師専門学校では劣等生とされていた彼だが、彼女は彼のセンスを認めていた。美味しい料理をもっと美味しくするセンスが彼にはあるのだ。今や半分は彼の店といえるそのインド料理屋 はピカデリーサーカスの裏手、女の子が足を踏み入れるには勇気がいるような一角にあった。勇気を出してやってきた彼女をおやじは大歓迎だった。こにちわ、こにちわ、どこからきた、とたどたどしい日本語でまくしたてた。日本語でどこからきたも無いものだが、彼女はなんだか嬉しかった。おやじの美味しい料理をご馳走になってから、二人は夜の倫敦の風に火照った心を冷ますことにした。
 大学の頃から小説好きだった彼からの、そんな書き出しの手紙がまさか本当になるとは思ってもいなかった。彼女は地下鉄のホームで昔の手紙を読み返していた。調理師専門学校に通い始めたのは、最初はちょっとした暇つぶしみたいなものだった。習い事にならお金を出してあげるという母親の財布をあてにして調理師専門学校を選んだのは、この手紙が元だったんだよ。ついでに英会話スクールに通うことにしたのも。いつかこの国にくるかも知れない、なんてその頃はほんとにそんなことある筈ないと思っていたけど、宝くじだって買わなきゃ当たらない。そんな感じの、ちょっとした遊びみたいな動機だった。もちろん、高校の時にひと夏過ごしたアメリカの田舎町の事も理由にはあったのだろうけど、そのときは確かにこの手紙の英国が頭の中にあったの。
 クラブファッションに身を包んだ金髪の少年たちが何やら大声で話しながら彼女の前を通り過ぎた。東横線のホームにいるような気がする。ほんとは渋谷の宇田川町の交番あたりにいるチーマーとか言われてる少年たちが真似してるんだろうけど、それをこうしてここで目の前にするとね。原因と結果が逆転するっていうのかな、ここに来るために英語を勉強したんじゃなくて、英語を勉強して料理も勉強したからここに来たのかも知れない。どっちが先、っていうことは問題じゃない。


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