ハイドパークのシマリスくん
















 あれは社会人一年目の年、一年振りに再会した大学時代の親友と倫敦へ行った時のことだ。二日目の朝、奴は洗面所で突っ拍子もない声を上げた。扉を開けると、頬から血を流して奴が立っていた。備え付けのグラスが見事に割れていた。泊まっていたのは前の日に駅のインフォメーションで見つけた、ビクトリア駅裏手のベルグレイブロード沿いにあるB&Bである。B&Bは言ってみれば民宿みたいなもんで、けれども管理人は住み込んではいない。朝だけ半地下の食堂がオープンする。この時間だとまだ受付のおやじは来ていないが、朝食の支度をしていた従業員が厨房にまだいるのではないか、と思って僕は友人を連れて食堂に降りて行った。
 案の定、片付けの済んだ厨房ではラテン系の双子の兄弟と金髪の若い女性が談笑していた。そろそろ帰るか、とでも言っていたのか双子の片方がデイバックを肩に掛けたところに僕らは現れた。
 「すみません」と僕らは英語で恐る恐る言った。どうしたんだ、という調子で彼らは僕らを見た。「部屋でここんとこ怪我しちゃったんです」と身振りを交えてなんとか告げた。英語が解ったのかどうかは定かではないが、血の流れてる頬を指さす友人を見て何が起きたのかは解ったらしい。「OH!」と双子の片方が大袈裟な声を上げた。金髪の女性が奥から救急箱を持ってきた。救急箱に十字架が描かれているのは万国共通らしい。「ドクタージョニス!」と双子が声を揃えて言うと金髪の女性に向かって手をひらひらさせた。ジョニスという名前の金髪の女性は、友人の頬をオキシドールで消毒してから、絆創膏を貼ってくれた。「ボクシングファイターみたいだ」と双子の片方が言ったのが聞き取れたから、僕と友人は顔を強わばらせながらファイティングポーズを取ってみせた。「HAHA!」と双子が笑った。厨房の奥、ジョニスが救急箱を置いた柵の上に英国の地図が貼ってあった。僕は昨日倫敦に着いた時のことを、だいぶ昔のことのように思いだしていた。


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