ハイドパークのシマリスくん

 倫敦に行くと聞いても僕はなんとも感じなかった。なにげなく、どうして? と尋ねた。結婚するの、と彼女が言った。そう、と答えた僕の口調は予想外に冷静だった。しかし頭の中は空っぽになっていた。彼女とは社会人になると共に会う機会も次第に減り、そこらの恋人達が言う、別れた、という意識はなかったものの事実上そういう状態だった。それ以前もそこらの若者達が言う、つきあってる、という意識は二人とも持ってはいなかったのだから当然といえば当然なのだけれど、社会の慣用句に慣らされた深層心理は騙せなかったようだ。それから何を話したか覚えていない。ただ、明日の午後の飛行機で発つと言ってたことだけは、電話を切ってからも記憶にちゃんと残っていた。
 覚えているのは、ジャックのボトルが空になっちまって買いに行こうと思ったけれど体が言うことを聞かなくて、空のボトルをなんとか玄関まで持って行って、そのついでにグラスを流しに置いたらなんだか物凄い音がして、割れたかなと思ったら割れてはいなかったので安心して、トイレに行って、電気を消したかどうかは覚えていなくて、ベッドに倒れ込んだということだった。時計を見るともうすぐ昼だった。もうすぐ昼だ、と思って昨晩の電話を思いだした。午後の飛行機にはこれからじゃ間に合いやしないなあ。僕は内心そういう状態になることを望んで、ここまで酔払いに追い込んだ自分にとっくに気付いていながら、一応声にして言ってみたのだ。ゆっくり起き上がると、ぐらあん、と頭の中で何かが重心を求めるように転がった。足元がふらふらふらふらする。わざと足をもつれさせて、壁とかにぶつかりながら流しに辿りついた。グラスが割れていた。ありゃあ、と思った。やっぱ割れてたか。凄い音だったもんな。じゃさっきの記憶ってのは希望的観測がそのまんま記憶になっちまっただけっつうことなのか。頭がふらふらしてると変な所で考えがはっきりとする。割れてるグラスを見て思いだしたことがあった。


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