こんな話があるでよ=WHAT'S NEW? --last modified 2000
未来の大モノ1 佐々木大輔 DAISUKE SASAKI エクストリームスキーヤーでクライマー
ビヨンドリスクな男の世界、エクストリームスキー。この種目で2年連続日 本チャンピオン、世界大会8位になった男がいる。佐々木大輔22歳。彼のお もしろいところはスキー一辺倒ではなく、高所登山もやればクライミングもや る。よりアグレッシブな世界を求め続ける彼はまさにロクスノ人間、さっそく 話を聞いてみた。 一佐々木さんは北海道出身ということで、小さい頃からスキーをやって いたんですか。 ええ、住んでいたのは札幌市内の中央区というところですが、峠を越えると けっこう山の中なんです。狐がいたり、スキー場も近くです。よく裏山でスキ ーとかして遊んでいました。小学校の先輩に三浦豪太さんや我満さんがいます 。 一どんなスキーをやってました? 高校では基礎スキーです。競技の方は年に1〜2回大会に出るくらい。競技 スキーは高校時代、160人中70番、基礎スキーは50人出て30番とかぱ っとしなかったですね。 一スキーをやりながら山も始めたんですね。 そうです、中学生のとき登山ツアーに参加しました。最初は沢登り。クワウ ンナイの沢がほんとにすばらしくて山に目覚めました。 一そして94年にはネパールのアイランドピークに行きますよね。 そう、高校2年生のときです。家族旅行でどこか行こうということになって 、それがネパールのトレッキングになったんです。行ったら慾が出てきてアイ ランドピークに登ってみようということになったんです。ガイドひとりとポー ターひとりのパーティーで、1回目のアタックは高山病で敗退しました。ほと んど何も憶えていません。自分ではなにも出来なくてご飯も食べられず、起上 がることもできませんでした。ガイドが連れ返ってくれなければ危ないところ でした。3日後には体調も良くなって2回目のアタックでようやく登れました 。目の前にはローツェがばーっと見えて、これはぜんぜんスケールが違うなと 思いました。 一それがひとつのきっかけとなって、岩や山の世界へはまりこむ? そうです。小さい頃から沢登りとかクライミングとかアグレッシブな世界へ のあこがれがあったんです。 一フリークライミングもその頃に? フリーは中学2年生頃から始めました。初めて行ったのが小樽の赤岩という クラシックな5級ルートでした。かなり難しかったんですけど、登り終えたと きの興奮というか、達成感というか素晴らしくて、岩登りの世界へのめりこん で行きました。 一そして、高校卒業とともにガイドの仕事を始める。 ええ、でも初めは夏の間だけで、冬は三浦雄一郎&スノードルフィンズでス キーのインストラクターをやってました。 一おもにガイドした所は? 北海道では日高、大雪、知床。本州は朝日連峰、飯豊、南・北アルプス。あ とは屋久島ですね。海外だとネパールのトレッキング、モンブランとか。でも 、今は退職してフリーです。夏の間だけアルバイトでガイドのお手伝いしてい ます。 一その後1996年にマナスルに遠征するわけですが、登頂したんですか? いいえ、できなかったんです。小西さんがマナスルで亡くなられた時で、す ごい大雪にテントが潰されてしまって登頂できなかったんです。もともと僕は 登頂のメンバーには入っていませんでしたが。 一じゃあ滑降が目的だった。 いいえ、登頂が目的だったんですが、メンバーがみんな山スキーができたし 、マナスルは比較的ゆるやかだったから。 一最高到達点は? 隊としては7700メートル。僕自身は7300メートルですが、そこから 滑走しました。 一どうでした滑った感想は。 上部は苦しくて苦しくてという感じ、7200メートルのノースコルを過ぎ てから苦しいけど楽しいと感じだしました。滑って転ぶと15分くらい起上が れない。でもすばらしい体験でした。5300メートルのベースまで滑りまし た。 一雪の状態は? 最上部は硬いクラスト、上4分の3は20〜30センチの重めの深雪。下の 方は太陽でとけた雪がまた固まってクラストした状態です。 一足周りは。 登山用のプラスチックブーツに山スキーです。 一登山用のプラだと前にのめって滑りにくくなかったですか。 慣れるまでは辛かったですね。でも、滑っているうちに感覚をつかみました。 一ちなみに靴は何を? スカルパのベガです。わりと硬めの靴なんですが、大きなサイズを買ってし まったので大変でした。 一ビンディングは普通の山スキーのやつですか。 ええ、クロノという一番かるいモデルです。エメリーからでているゴムで留める。 一いずれはチョモランマからの滑降を? 何年後かにはそういった希望もでてくると思うんですが、でも今は自分自身 が高所まで登れる力がないので、まだ先のことだと思います。来年あたりはヨ ーロッパアルプスに行こうと思ってるんです。雪のある時期はスキー、あとは クライミングをして過ごそうかと。 一その後1997年に旭岳で行われたエクストリームスキーの大会で優勝す るわけですが、まだ日本では一般的にエクストリームスキーがどういったもの か理解されていないと思うんですが。 例えば剣岳でいったら平蔵谷側の斜面をガケがあれば、それを細かいターン じゃなくて、早いターンでジャンプして飛びながら滑るという風にイメージし てもらるといいんですけど。 一滑走ラインとかは自分で選べるんですか。 ええ、スタート地点まではヘリコプターで行くんですが、その間双眼鏡でラ インどりを観察します。タイムというより全体の流れが審査基準になります。 途中で止まるよりスムースに流れのある滑りができたほうがいいわけです。同 じラインを同程度のテクニックで滑ったのだったら、タイムがいい人の方が高 得点になりますが。 一モーグルに近い審査基準? そうですね、モーグルとかエアリアルとかに近ですね。難しいところを飛ん できて、そしてタイムが早ければ尚よしということです。 一山スキーを体験していたことがエクストリームスキーでも役にたった? ええ、山スキーを経験していたこともそうですが、スノードルフィンにいた ことが大きかったです。普通のスキー学校では体験できない山での技術や関係 とかを学べました。それらがうまくまとまってエクストリームスキーの大会で 優勝できたのだと思います。 一エクストリームスキーならではの技術とかはあるんですか。 まずは観察力です。クライミングのとき登るラインを読むじゃないですか、 それに近いものがります。あとは基礎体力、反射神経ですか。特にクライミン グのルート開拓に似てると思います。ルートを作る場合、きれいなラインを求 めるじゃないですか。エクストリームスキーの場合も、斜面を見てどこを滑っ たら一番かっこよくきれいに滑れるかを選ぶんです。それが楽しみでもあり喜 びでもあり・・・。 一恐怖感とかはないですか。 それはありますよ、感覚的にフリーソロに近いんじゃないでしょうか。怖い けれど全部計算して、今までやってきたことやラインを反芻してイケルって思 ったときは怖さもぱっと消えてしまいます。 一ケガは今までにありませんでしたか。 この大会にでる前の年に転倒して靭帯を切っています。大会に優勝する2週 間前にも転倒して肩の骨を折ってしまいました。だいたい毎年1回くらいやっ てますね。 一その年には世界大会で8位になるわけですが、これはかなりすごいことですよね。 そうですよね、まあぱっと見ると世界大会8位というのはすごいことなんで すけれど、僕にしてみればラッキーだっという感じですね。1本目に滑った場 所が以前に日本人選手が転倒して骨折したところだったんです。審判員たちも そのことを憶えていて、日本人にはこんなところは滑れないだろうと。ところ が僕がそこをうまく滑れてしまったんです。ほかにもそこを滑れた選手はいた んですが、初めにそこを飛んで滑った僕のインパクトが強かったわけです。 一この世界大会の翌年、日本の大会で2年連続して優勝し、この種目の第一 人者になったのですが、まわりの反応とかはどうでしたか。 特になかったですけど、テレビの特集に出たりしたので、ときどき「あ、テ レビで見たよ」とか、まったく見知らぬ人から反応があったのはよかったです ね。 一ヨセミテのノーズのクライミングについてうかがいたいんですけど、どな たと登られたんですか 中学の同級生が信州大学の山岳部に入っていまして、そいつと。 一ノーズは何日間で? 壁の中2泊、ピークで1泊です。滞在はトータルで1ヵ月くらいかな。 一ヨセミテの印象は? 環境がとてもいいので、クライミングに専念できます。あとスケールが大き いから日本の岩場のようにわずらわしいことがないということかな。今年もヨ セミテに行くんですよ。 今後めざすものは? うーん、ガイドを辞めたのはスキーの方で打込んだらもう少しレベルが上が るんじゃないかと思ったからです。そう、慾が出てきたんです。大会でもっと 上位にいきたいという。それでとりあえずガイドの会社を辞めてしまいました 。でも山も好きでいろいろ行きたい。冬はスキーの大会にたくさん出て、ほか の期間はいろいろな山に登りたいです。あとはガイドの仕事が自分にはしっく りきていましたので、ヨーロッパでガイドの資格をとる学校で勉強をしてみた いです。 (インタビュー 内藤ヨナス) ●佐々木大輔(ささき・だいすけ) 1977年、札幌生れ。3歳よりスキーを始める。中学2年生よりロック クライミング、アイスクライミング、山岳スキーを始める。1994年、高校 2年生のときネパール、アイランドピーク(6175b)登頂。1995年(株) ノマドに山岳ガイドとして入社。同年、三浦雄一郎&スノードルフィンズにて インストラクター開始。1996年、ネパール、マナスル(8163b)7300 b地点より滑走。1997年、エクストリームスキー日本大会で優勝。同年4 月、アラスカ、バルディーズの世界大会で8位。1998年、エクストリーム スキー日本大会優勝。同年、4月世界大会出場。6月ヨセミテ、ノーズ登攀。 1999年、ノースアメリカンエクストリームスキーイングチャンピオンシッ プス8位。Lord of Bords(スキー、テレマーク、スノーボードの混合クロス 大会)で総合4位。
未来の大モノ2 江本ユージYUJI EMOTO フランス国立スキー登山学校でガイドをめざす
自分とフランスでの生活の始まりは6年前、当時名古屋市の高校に通いなが ら、自分のしたいアルペンスキーをやっていました。しかし雪の無い町でスキ ーを一生懸命する事は容易では有りません。そんな時、海外に出てもっと大き な世界でやりたい事をしたいと思い、フランスへ行く事にしました。もちろん そんな16歳の子供の我侭を聞いてくれた両親には感謝しています。 フランス1年目は大変でした。もちろんフランス語が話せる分けもなく、英 語も全く駄目と言う自分がフランスの高校に通い、地元のスキークラブに入っ てトレーニングをする、そんな自分がどんな風に生き延びていたかは話さ無く てもだいたいの事はみなさんにもお分かりでしょう。“笑顔が1番!” スキークラブはアヌシーの近くのグランド・ボルノスキークラブ、当時はコ ーチが4人、ジュニアの選手は自分を会わせ5人。地元の選手だけが集まった 地元のクラブ、名古屋から来た自分には驚く事ばかりでした。スキー場経営者 からリフトのお兄さん、インストラクター、みんなが家族みたいなのです。み んなクラブで大きくなり、成功するしないにしろ同じ夢を追って大きくなり、 次の世代に自分の夢(期待)を抱く人の集まり、それがこのクラブ、グランド ・ボルノの町なのです。 そのころのトレーニングは毎朝9時から12時までで午後から学校へ行くと 言うのが普通でした。普通!と聞くと驚かれると思いますが、フランスではス ポーツ選手の為に学校側も色々と工夫をしています。フランスにしては珍しい ですね・・・。 このシステムに入れたのはフランス生活2年目の事でした。場所はラ・キュ ルーザすぐ隣の町の小さな小屋が学校でした。生徒の数は15人先生は2人、 ここでの授業は学校と言うよりも修学旅行と言った感じでした。普段はスキー バスで学校へ行くのですが、乗り遅れるとみんなでヒッチハイクをして行って いました。 こんな生活をしながら3シーズンFISレースを転戦していました 。 もちろんスキーヤーには付き物のケガにも合いました。このケガが選手を断念 する原因になったのですが、その原因がクライミングとの出会いのきっかけに なりました。 当時リハビリのため自転車に良く乗ってた自分を初めて山に連れってくれた のも地元のおじさん(見た目はただのおじさんですが本当に山を好きな山男) でした。 モンブランへの出発の前日、友達とレストランで食事をしたのですが、「食 後酒は山に良い」とみんなにだまされて飲まされ出発したモンブラン。(もち ろん疑ってはいましたが・・・) 朝シャモニに付くなり気持ち悪く吐いてしまった自分。こんな体調で出発、 さすがに山頂に付いたときには気持ち悪く横になってしまい、何かを見たとか 言う記憶もありませんでした。そんな中で何か素敵な物に出会えた気がしたの は不思議な物ですね。それが、ガイドになりたいと思う事になる最初のきっか けだったのかもしれません。 フランスのガイドに成るにはいくつかのステップが有ります。まず書類検査 です。55本の難度の決められたルートを出さなければなりません。と言うこ とは最低55本登らなくてはならないわけです。クライマーの友達が少なかっ たためまずパートナー探しから始まりました。なかなか長い間山に入れる人も 少なく、夏の間何回も1週間ほどプロン・デュ・ミディにベースキャンプを張 り、毎ルートごとにパートナーを変えて登った時期も有りました。もちろん余 り知らない人との登山も多かったです。それは良い経験にはなりましたが、良 い思い出ばかりでは有りませんでしたが・・・。 書類検査の後、プロバトア ーと言う実技試験が行われます。これがENSA(フランス国立スキー、山岳学校) への入学試験です。5日間に亘る試験は体力的にも神経的にも疲れました。夕 方6時頃毎日その日の通過者がみんなの前で発表されました。せっかく前日知 り合った仲間が次の日の夕食には居なかったり、2人部屋のルームメイトが荷 物をかたずける後ろ姿を見たり・・・まるで明日の自分を見ているのではと思 ったり・・・。 最終的に残ったのは150人中45人、この中の軍人をのぞいた39人とは これからガイドの最終試験まで(4年間)一緒です。 その後、4週間の授業の後、4週間の冬山の研修そして今年の夏、7週間の 夏山の研修が終わるとアソピゴンガイドになります。その後2年間、ガイドと して経験を積み、最終試験を5週間受けます。 冬山の研修は非常に面白かったです。生徒5人に講師が1人付き行われたの ですが、山スキーからアイスクライミング、レスキュー、ロープワークに到る まで様々な授業が行われました。又、有名なアルピニストが講師なので彼らと 一緒に登れるのも良い経験になりました。 夏の研修に付いては研修後お知らせ出来ればと思っています。 冬の間はスキーインストラクターとして働いているので少し忙しいのですが 、忙しく無いときは山に行き、授業が終わると週に2回ほどクライミングジム で友達と集まり腕を張らせ、雪が無くなるとフランス中をクライミングをしに 回ったり、氷がぶら下がるとそれにぶら下がりに行ったり、まずい食事を取り たくなると山へ行き、とこんな自由気ままにRock&Snowしいています。 今後はシャモニにまずは住み、スキーインストラクター、マウンテンガイド として多くの日本のみなさまにアルプスの本当の素晴らしさ知ってもらえるよ うにお手伝いして行きたいと思っています。
未来の大モノ3 大久保由美子YUMIKO OHOKUBO カナダのヤムヌスカでトレーニング
今年3月から3カ月間、カナダの登山スクールに参加した。一緒に講習を受け る11人の生徒は、18歳から20歳台前半が中心。ジェネレーションギャップかカ ルチャーギャップか定かではないが、最初いろいろなことに面食らった。気付 けば私も30で、周囲もすっかり年下ばかり。今回は北米の若者文化(この言葉 を使うこと自体オバサンの証拠だ)に触れる貴重な機会となった。といっても 、こんなコースに参加する者の集まりというだけで、ごく狭い世界の話と言え るのかもしれないが・・・。 彼らは遊びの天才で、野外講習中少しでも時間があくとすぐに遊び始める。 雪があれば雪合戦、川原では石投げ競争。オートキャンプ場では、フリスビー 、ホッキーサックからギターまで。ホッキーサックとは、お手玉のようなもの を地面に落とさないように脚で蹴って遊ぶものだが、カナダのアウトドアショ ップのレジ横には必ず置いてあり、「これをやらなきゃ山屋とはいえないね」 と言われたたが本当だろうか。 だいたい1週間前後の野外講習のあと、寮代わりのカナダ山岳会クラブハウ ス(会員になれば一泊15$。カナディアンロッキー探訪のベースとしておすす め。所在地はアルバータ州キャンモア)に戻ってくるのだが、まず、朝からヴ ォリュームいっぱいにして流されるパンク系のファンキーな曲で目が覚める。 リビングの床にはポテトチップが食い散らかされ、昼からビールは飲むわ、と ころかまわずオナラはするわで、まるで男子寮にいるようだ。 若い彼らは好奇心旺盛で、すぐ「これは日本語で何というのか」と聞いてく る。感心するのは、すぐ覚えて日常生活で使いはじめることだ。翻訳はもっぱ ら、グループにいるもう一人の日本人ヒデの役目だったが、「スカシッペー」 「ムネサワテモイイ?」などしょーもない日本語が飛び交う。でも名前を日本 語で紙に書いてあげると、ノートに一生懸命写し取ったりするところがかわい い。 団らんになると、一人が派手なゼスチャー付きでしばらく語り始め、最後に オチで締めてみんながどっと笑う、という場面がよくあった。これも日本では 見られない光景だ。 レンタルビデオショップで借りてくるのは、ほとんどがB級コメディか、エ クストリームスキーまたはスノーボードのビデオクリップ。今まであまり見た ことはなかったが、エクストリーム競技のあまりのすごさにガクゼン。彼らは 20歳前後の若さで、われわれが滑落や雪崩を恐れておそるおそるクライムダウ ンするようなところを、雪崩を起こしながら飛んで飛んで飛びまくる。うーん 、価値観の変換を迫られるなぁ。行きはヘリを使っているようだが、自分の足 で登ったところを、ああやって滑り降りられたらどんなに気持ちいいだろう。 しかし、彼らはジャンプする時、どうやってその下の危険を予測しているのだ ろうか? 予測していないのかもしれない。 カヌーセクションの時には、カヌーロデオのビデオも見たが、これはまたキ ワもの。自ら激流に飛び込み、滝を飛ぶ。失敗して岩にぶつかった顔から血を 流しながらニヤッと笑うカヤッカーの姿も。 何か根本的に違うのだ。 先日、NHKの「驚異の小宇宙 人体V 遺伝子・DNA」という番組を見 ていて、正解らしきものを見つけた気がした。ある特定のタイプの遺伝子を持 っていると、目新しいことや危険なことに引きつけられたり、不安がる傾向が 強くなったりするというのだ。大方の予想を裏切らず、日本人は好奇心遺伝子 が長い人は非常に少ないらしい。そして、不安遺伝子を一つでも持つ人は、ア メリカ人の67.7%に対して日本人は98.3%だという。まあ、育った環境の違い もあるし、一概に決めつけるわけにもいかないだろうが、これはおそらく山の 世界でもみんなが薄々感づいていた日本人と欧米人の違いではないだろうか。 少ないとはいえ、わが国の山屋には好奇心遺伝子の長い人が一般より多そうな 気がする。統計を見たことはないのでわからないが、不安遺伝子の存在がより 慎重にさせ、そういった日本の山屋は欧米人に比べて事故に遭いにくそうだ。 で、「This is a life!」である。ヒデは、「幸せだ」と訳した。そりゃ日 本人はこっ恥ずかしくてとても「これぞ人生!」と雄叫びを上げることはでき ないだろう。なかなかスルドい訳だ。とたんに、パフパフのパウダースノーに 思い思いのシュプールを刻みながら、「シーアゥワセダー!」と叫ぶ若者たち 。困ったことに、自然からなんらかの感動を受け取るたびに、私の胸には(幸 せっ ←このスペースにハートマーク)ではなく、(シーアゥワセダー)とい う変なイントネーションの日本語が浮かぶようになってしまった。「This is a life!」と臆面もなく叫べる彼らは、小難しいことは何も考えず、ただ純粋 にその行為自体が楽しくてやっているのに違いない。あやかりたい。
杉野さん主催の小さなコンペ
9月11日小川山にて杉野保・千晶主催の第3回クリフカップが開催された。場 所はフェニックスの大岩で、外岩のため普通のコンペのようにオンサイトリー ド方式はできない。よって内容が変化にとんだ楽しいものとなった。総計14名 の参加で2名がペアとなって4種目の獲得ポイントをペアで合計し、順位を決定 する。組み合わせは自己申告グレイドをスタッフが判断してペアとなる。すべ てがトップロープ方式で行われた。まずウォーミングアップとして「時間ぴっ たりクライミング」自分で指定した時間内に登るが、オーバーは0点。登って いる最中は意外に時間の観念がなくなる。「ディフィカルト競技」はいかに上 部のホールドをさわれるかというもの。5.11aなのだが外岩の厳しさでほとん どの人が同じ場所で落ちてしまった。目玉競技である「スピードクライミング 」は大いに盛り上がった。ここで本領発揮して猿っぽさをばらしてしまった人 が多数でた。最後の「ハッキーサック競技」は、毛糸でできた小さいボールを 何回リフティングできるかという競技である。しかし経験者が乏しく、低レベ ルの戦いとなった。競技結果は夜の懇親会にて発表され、豪華賞品多数だった ため参加者全員にふるまわれた。
キジはナルゲンに
いよいよヨセミテでビッグウォールに挑戦することになった。準備万端ギアも 揃えて、荷揚げの手順もマスターした。でも、ちょっと待てよ、巨大な壁の中 でキジ撃ちはどうしたらいいの?そのまま撃ち落しで誰も文句は言わないかな ? 地面の上なら穴を掘るのが一番だけど、岩登りをする壁の中ではそんなこ とはできない。当然、下に落とすか、持って登ることになる。下に落としても もちろんゴミだから後で回収しなければならない。ビニールの袋に入れても、 下に落とせばつぶれて回収できないし、持って登るにも不安はつきまとう。重 い塩ビのパイプがよく使われるらしいけど、あるクライミング雑誌にもっとい いアイディアが紹介されていた。 まず、広口のナルゲンボトルを購入する。さらに、スーパーでフルーツや野 菜を入れる薄手のビニール袋を必要量手に入れる。このビニール袋、アメリ カならどのスーパーでも必ずあって、自由にいくらでも持ってこられる。壁 の中でもよおしてきたら、安全のために2重にしたその袋に用を足す。キジ ペを少し湿らしたりして効率を上げるのもテクニックだ。無事完了したらナ ルゲンボトルに注意して詰め込む。この方法、ふたりで4,5日分はまず大丈夫 だという。 トイレがなければ穴を掘って用を足すのがアメリカのウィルダネスでは常識 。山で会うバックパッカーたちがプラスティック製や折りたたみ式の小型シ ャベルをザックにぶら下げて歩いているのはそのためだ。大量に撃ち残され た大キジが異臭を放って散乱する日本の山を目にすると、我々もぜひ見習い たいアウトドアズマンのエチケットだ。小川山などではちゃんとトイレで済 ましてから登りに行きたいものだ。ヨセミテのビッグウォールを登りに行く 人もきちんと自分の下の世話をできるようになろう。日本人クライマーはだ らしがないなどと言われたら、そのうちヨセミテでは日本人クライマーお断 りになるかもしれないよ。 (カルロス永岡)
--------------------------------------------------------------------------------うちのクラブのマドンナ
クラブのマドンナは26歳の田中智美さん。「部屋を山道具でいっぱいしたい」とい うささやかな入会時の抱負はすぐにかなえられ、今は山道具であふれかえっている 部屋を前にして収納場所を悩むまでになっている。前期の山行日数では歴代トップ の男性を抜き1位。メンバーがいなければ単独行もする彼女はオールラウンドに山 を楽しんでいる。 ほぼ毎週末に山行の予定があり、さらに最近はボルダリングにも挑戦しだしますま す多忙な毎日を送っている。 小柄な彼女のパワーの秘訣は「食」である。どこに入るかわからないくらいいい食 べっぷりをする。やはり食べれなければ歩けないのを証明してくれている。 気さくで笑顔のすてきな彼女はクラブの盛りあげ役として欠かせない、明るく元気 な(騒がしい?)みんなのマドンナである。 「クラブ紹介」 アルパインクラブ横浜は30年の歴史があり、山岳会にしては珍しく20〜30歳台が中 心の若いクラブである。総計40名ほどで、月2回の例会と春・夏・冬合宿のほかに 春夏秋冬のリーダー部における教育山行もさかん。春は雪崩捜索・ビバーク訓練、夏 は岩登り講習、沢登り講習、秋は遭難対策総合訓練、冬は雪上訓練と基本を学べ、安 全管理ができる人材育成作りの体制を強化している。そのほか個人山行では山スキ ー、フリークライミング、アルパインクライミング、アイスクライミング、縦走な ども頻繁に行っており初心者からエキスパートまで幅広くそれぞれ自分にあった山 行が楽しめる。 アットホームな雰囲気のなか自分を高めていけるクラブである。(RM) 連絡先 〒240-0043 横浜市保土ヶ谷区釜台町35-33-305 江端節男
--------------------------------------------------------------------------------Rock&Snow劇場『リサ』
「愛は死を制す」この映画の根底に流れているテーマである。マッターホルンに挑 む女性クライマーと若きピアニストは目指すものがそれぞれ違うがお互いひかれあ っていく。ピアノしか知らなかった彼がリサの世界に急速に魅了されていく。彼が ピアノよりも彼女を追って無謀にも山に入っていく姿に、せつなさがこみあげてく る。美しいピアノの旋律にのせて、ザイルをつなぐことが心までもつながっていく 気持ちにさせられる。 街中でもあらゆる所をクライミングしては奔放に楽しむリサに死の影がしのびよ ってくる。死が身近になってくるほど生きることに純粋になり、相手を大切に思え てくる。 美しい山とピアノがおりなすラブストーリーは女性クライマー必見、男性クライ マーももちろん押さえておくべき映画である。 11月20日から12月17日まで新宿シネマ・カリテにて独占ロードショー。 (RM)
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