限界だ。
食事を抜け出てきたは、しゃらしゃらとドレスの音をたてながら走った。
ハイヒールに、足がもつれる。
それでも、は駆けた。
アークエンジェルの船尾へむかって。
〔 海に眠る船に、あなたに。 〜PHASE.04〜 〕
このままアメリカへ戻り、アスランと結ばれれば、あと何年、何十年・・・。
この気持ちを抑えていかなければならないのだろう。
ただかしずくだけの女で良いなら、妻でなくメイドでも充分だ。
の目に、ただ黒い闇が飛び込んできた。
船尾から身を乗り出せば、どこまでが海でどこまでが空だかもわからない。
消えてしまいたかった。
このままここで身を投げても、誰も気づかないだろう。
母のため、メイリンのため、父のため、と耐えてきただったが、もう限界だった。
海の上の逃げ場のない今の状況が、ますますを追い詰めていた。
ハイヒールを脱ぎ、柵に素足をかけた。
ひんやりとした冷たさが、の身体に広がる。
そのとき。
「やめておけ。」
厳しくとがめる声が、の行為を止めた。
人がいることに驚いて、は振り返る。
暗くてよく見えなかったが、声の主は静かに近づいてきていた。
「こないで。お願い。」
弱々しい声がの口をついて出た。
今を逃せば、チャンスはもうないように思えた。
「私の人生はもう死んでいるのと同じなの。だから死なせて。」
「そこから飛び降りたくらいで、すぐに死ねると思っているのか?」
相手の顔は、いまやはっきりとに見えていた。
明らかに一等の客とわかる品の良さと身のこなし。
厳しい口調には、それでもをいたわる優しさがこめられていた。
「この高さでは、海面に打ちつけられて死ぬことはない。」
相手はきっぱりとに言った。
「冷たい海に取り残されて、凍えながら死ぬのを待つだけだぞ?」
想像しては絶句した。
さすがにそこまでのことを考えていたわけではなかった。
は今初めて、自分が理性なく飛び出してしまったことを知った。
「でも・・・っ、でも私・・・っ!」
まだ手すりをつかんで離さないに、彼はネクタイを緩めて見せた。
「なら、俺も一緒に飛んでやる。」
「えぇっ?!なに馬鹿なこと言って・・・?!」
その言葉に動揺するだったが、相手は落ち着いたものだった。
「4月とはいえ、夜の海だ。恐ろしく冷たいだろうが仕方ない。・・・行くか?」
より先に柵の一番上へ足をかけ、の手を引く。
反射的には、その手を引っこめた。
「なら降りるんだ。馬鹿なことはよせ。」
軽い身のこなしでデッキへ降りると、彼はに手を差し出す。
は恐る恐る彼の手をとった。
「ふん、できるじゃないか。」
彼が初めて、に笑顔を見せた。
「イザーク・ジュールだ。」
「・・・・、。」
「どこかで聞いたことがある名前だな。」
イザークにのことはわからなかったらしいが、にはすぐ相手が知れた。
ジュール家といえば、社交界で知らぬ者はいないほどの大資産家だ。
その家の一人息子であるイザークには、まだ決まった相手がいなかった。
そのため、あちこちで婚約のアプローチがなされていることでも有名だった。
すぐに相手を知っただったが、胸の内はそれどころでなかった。
は彼の手をとり、目を合わせたときから、視線をはずすことができずにいた。
飛び込もうとしていたときとは明らかに違う胸の高鳴りが、にはよくわからなかった。
デッキに無事降りても、二人の手はつながれたままだった。
「女の身で海に飛び込もうと考えるとは、すごい発想だな。」
「昼間のスピードなら海面に叩きつけられて一瞬で死ねるって思ったのよ。」
負けん気の強いは、こんな状況においてもイザークに意見した。
「夜はこんなに速度がおちてるなんて、知らなかったわ。」
の答えを聞いて、イザークが面白そうに笑った。
「なかなか・・・面白い女だな。?」
添えていただけのイザークの手に、ぐっと力がこもる。
「なに?」
少し驚いた声で、が答える。
そのままイザークの左手が、の腰を引きよせた。
右手は顔のそばで握り直され、イザークはの指に自分の指を絡めた。
「ちょっと!痛いわ。」
「。俺の名前を聞いて物怖じしない女は、お前が初めてだ。」
イザークとの身体はこれ以上ないほどに密着し、が見上げればすぐそこにイザークの顔があった。
アイスブルーの瞳に見つめられ、は全身が痺れだすかのように動けなかった。
「だめ。・・・・やめて・・・・。」
とっさにの口から出たのは、拒絶の言葉。
けれどそれが本音ではないことくらい、イザークにはわかってしまっていた。
やわらかいの唇を、イザークの唇がふさいだ。
重なってしまえば、それはすぐに深いくちづけに変わった。
偶然の出逢いは、二人を突然の恋へ堕とした。
それが、どんな悲劇を生み出すのかなど、まったく知らないままに。
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【あとがき】
ウチのイザさまは、レオさまより節操なかった・・・じゃない!
情熱的だったようです。