2015.07.30

     テレビで百田尚樹の小説の映画化版「永遠のゼロ」を観た。随分毀誉褒貶があったので興味半分である。太平洋戦争中での素晴らしい操縦技術を持った海軍航空隊の宮部久蔵の話。彼には愛する妻と真珠湾攻撃後に出来た娘が居て、家族のために生き延びるという事を公言して憚らなかった。当時の軍隊内でそういうことが可能だったかどうかは判らない。この設定にはやや無理があるような気もする。それはともかく、卓越した航空技術にも拘らず、彼は隊内では卑怯者扱いされていた。しかし、いくつかのエピソードによって彼を理解する人も現れた。空中戦の好きな隊員Aは訓練中に彼に仮想追撃戦を挑み、自ら思わず機関銃を撃ってしまうが、彼の巧みな操縦技術でかわされていつの間にか背後に廻られてしまう。その時の悔しさから、その隊員は彼に勝つまでは生き残ろうと決意する。やがて日本軍は敗退を重ね、宮部は第一線を引退し、学生も含めて若い人たちを訓練する立場になった。そこでの宮部は厳しい教官であったが、学生達がやがて特攻に行かされることが判っていたから訓練の終了を遅らせていた。しかし、それを咎めて殴った上司に対して正論を曲げなかった宮部の気持ちを学生達が理解した。その中の1人Bは米軍機に追いかけられて居た宮部をあわやという時に米軍機に体当たりして助ける。さて、最後の場面、宮部は沖縄沖の米軍に対する特攻機の護衛役を勤めている。しかし、その役目に宮部は心理的に参っていた。そこに特攻に志願しなかったAも加わる。宮部は教え子達を無駄に死なせている自分に耐えられず、ついに自ら特攻を志願する。妻に対して必ず帰ってくると約束していた宮部は、自らの教え子の1人Bの特攻機と機を交換する。実はそれはエンジンが不調だということを知っていたからである。出発した特攻機が待ち伏せした米軍機との空中戦となったとき、宮部はいつの間にか逃れて目的地に到着したが、追いかけていたAは見失う。Bは途中で不時着して助かる。その飛行機の操縦桿のところに宮部からの手紙と妻子の写真があって、後を頼まれたのである。宮部自身はどうなったかというと、卓越した技術と経験により、砲火を潜り抜けて敵空母の甲板に突っ込むことが出来た。映画はそこで終わるが、小説では爆弾が不発となった。こういう例は実際にあったそうである。小説では更にそこで見つかった彼の妻子の写真を見た米兵が彼を鄭重に葬ったということになっているらしい。

      以上のあらすじは実はこの映画あるいは小説の主題ではない。そのような宮部の妻子への愛の表現が主題である。彼は「必ず帰ってくる、死んでも帰ってくる」と言った。生き残ったAはヤクザになるが、彼の妻子がヤクザに捕われそうになったとき日本刀を振りかざして守った。同じく生き残ったBは宮部の遺言に従って宮部の妻の生活を必死で援助し、やがて情が通じて再婚する。「死んでも帰ってくる」というのはそういう意味だったと宮部の妻は悟るのである。

      これらの全ての物語は宮部の娘には殆ど知らされず、その子(つまり孫)に至っては現在の祖父が実の祖父では無いことすら、宮部の妻の葬式の日に知ったのである。そこが映画あるいは小説の始りとなり、祖父の事を調べていく内に宮部の本当の生き様が明らかになってくる、という筋立てである。だから、戦争の記述そのものや特攻作戦の是非などが掘り下げられなかったのも無理はないだろう。いや、掘り下げることを避けるために孫による聞き取り調査という形であらすじを描いたのである。観客にとってのリアリティをあくまでも現代社会に閉じ込めるための仕組みである。「感動的な」愛の表現を描くための背景として戦争や特攻が利用されているから現実感が乏しい。例えばギリシャ神話から人々が人間世界としての普遍的な教訓を読み取りながらも、そこで描かれている物語は遠い世界の話であるのと同じで、太平洋戦争もそのような「昔あったけれとも自分達とは関係ない」という気分にさせてしまう、という危険性があるかもしれない。

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