2011.11.05

    カトリック衣笠教会での京都クラウディオ・モンテヴェルディの47回定期演奏会を聴きに行ってきた。礼拝堂は10m四方で高さが6m位だろうか。ステンドグラス風のキリストの絵があちこちにある。指揮者は当間修一という人でなかなかの人物のようであった。

    第1部はトマス・タリスという人のエレミア哀歌I。これはエルサレムを奪われた悲しみを歌う。殆ど不協和音が響かない。ただただ美しい響きであるが、その響きの中をラテン語の重要な語句が、意味は判らないが、次々と声部を変えて繰り返されるから耳に残る。こういうのがフーガというのか、と思った。バロック以降の音楽と違って、音楽的な意味(和声的?)での起承転結は感じられないのだが、歌詞の内容そのものが音楽を支配していて、それが合唱団の表情によって伝わってくる。終わっても拍手もなく、次のトマス・ルイス・デ・ビクトリアの「死者のためのミサ」が始まった。カトリックのミサであるから、歌詞は決まっている。まあ、神社で神官が儀式を行う時に、順序良く祝詞を挙げるのと同じである。ただ、これを多声音楽として演奏するとなると、4声部が模倣しあって、次々と語句を繰り返す。美しい。ただし、そういう次第で何しろ長いのである。ふと眠くなって目を開けると、演奏者はこの美しさに酔うようにして恍惚の表情で歌っている。人間の声というのは生々しい。その生々しい美しさは、なかなか再生音楽では判らないかもしれない。

    休憩があって、第2部はブラームスのモテットOp.74-1である。当然ドイツ語である。「何故に労苦する人に光を与え、悩み苦しむ人を生かしておかれるのか」タイトルだけでは良く判らないが、要するに何故早く死なせてくれないのか?死ねば天国に行けるのに、という意味である。神がなかなか死なせてくれないというのが忍耐ということであって、結局その忍耐が讃えられる。それはともかく、響きからいうとそれほど美しいばかりではない。かといって、和声進行が明確なわけでもない。なんだか中途半端な感じがした。終わってもまた拍手が無い。合唱の場合の習慣なのだろうか?次はモンテヴェルディの「神が家をたてるのでなければ」内容的には、どんなに富や幸せがあろうと、神がいなければ全てむなしい、というこれまた当然ながら神を讃える歌である。歌詞にあわせてリズムとメロディーにメリハリが付いていて威勢が良い。音楽的にもはっきりと内容を訴えている感じである。複雑な多声音楽の絡み合いというよりは、多声であっても主たる声部があるという感じ。

    第3部は日本語の歌である。何となく安心する。高田三郎の典礼聖歌集から「愛の賛歌」と「平和の祈り」。あまりにも平明で判りやすい内容であってやや気恥ずかしくなった。次は当間修一自身の作曲、金子みすずの歌で「像の鼻」「空と海」「あさがお」、山上憶良の歌で「瓜はめば」。合唱曲というのはまあこういうものなのかと思った。それは4声部の間を行ったりきたりするわけだから、自然にフーガのようになるのである。言葉を持つ訳だからその意味に従って音楽が進行するのである。次は宮沢賢治の心象スケッチに高田三郎が音楽をつけたもので、「水汲み」「森」「さっきは陽が」「風がおもてで呼んでいる」これはまず、詩が面白い。宮沢賢治という人は本当に変わった感受性を持っているんだなあ、と思った。それを表現するために、ここでは多声音楽というよりも、独唱と伴奏という形式を多用している。伴奏とは言っても背景となる風の音とか水の音とか風景とか、そういった世界を暗示するような音形を使っていて、結構新鮮な感じがした。

    さて、京都ともしばしお別れなので、しばらくはこういうルネッサンスの音楽も聴く機会はないだろう。聴いていてしきりに思い出したのが、バッハのマタイ受難曲の中のイエスの捕縛の時のアリア「月も光も悲しみのあまり沈んでしまった」である。もともと合唱として発達したフーガをバッハは器楽の世界に持ち込んで完成させた。そこではもはや語句が支配するのではなく、音楽としてのフレーズの契機が音楽を進行させる。そのためにバッハはどのような工夫をしたのか?という観点からバッハを聴きなおすというのは意味があるだろう。

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