2016.02.02

長い間三石さんと吉田民人の科学論を読んでいるが。昨日その意味合いみたいなものを考えてみた。

      そもそも人文・社会学が科学でなくてはならないという要望はどこから出てきたか?それは自然科学の成功物語に触発されたからである。自然科学が登場する前近代まで、真理というものは、既に在るもの、つまり、教会で公認されたこととか、聖書に書かれていることとか、ある場合には神からの啓示を受けた事とか、そういう事からの「演繹」によってのみ見いだされるものであって、経験の集積といったものはその場限りの一時的な知識にすぎないと考えられていた。そういう思想の動機には当然ながら政治体制の維持、権威の維持、という心理が働いていたのである。しかし、イスラム世界を通じて実用的な知識やアルキメデスの経験主義が伝わり、諸技術も発達してくる(イスラム世界をバイパスしてアジアと交易するという欲望に由来する航海術への要請も大きかった)と、それらの経験の集積と「真理」からの演繹とが矛盾を来してくる。やがて、経験の集積から既存の真理への挑戦として、生まれてきたのが新たな真理の基準である。つまり、「仮説と実験的検証というサイクルを経た構築物」という基準。自然科学におけるこの新たな真理基準は技術進歩を齎し、逆に技術進歩が新たな実験手段を齎し、相携えて人間の自然支配を強化してきた。このサイクルの有効性については異論を唱えることはできないだろう。しかし、一方で仮説を生み出す人間という存在そのもの限界や、他方で実験手段の機械化によって生まれる人間の側の疎外(科学の専門化と大衆からの遊離)、という2つの懸念だけは残るし、現在的な問題でもある。

      ともあれ、自然科学は目ざましい成果を上げて、良かれ悪しかれ歴史を動かしてきた。それとは対照的に人文・社会学は欲望と因習によって動き回るこの世に対して後付けの解釈、それもご都合主義的な解釈を施すのが精一杯であった(やや言いすぎかもしれないし、例外もあるが)。人文・社会学が自然科学に倣おうとすれば、仮説はともかくとして実験をどうやって実現するか、が大問題である。その非人道性もさることながら、本当の意味で実験室に隔離した自然のような再現性があるのか、あるいは、本来的に研究者自身を巻き込んでしまう実験にどの程度の客観性があるのか、といった問題である。しかし、学問は必要だから発展するのであって、これらの根本的な問題はあるにしても、実践的に克服するしかないのであるし、その為に、戦争や革命というような極端な方法はともかくとして、統計的方法や因果関係の基準への反省が発展してきた。それにしても人文・社会科学における真理とは何か?それは自然科学における真理とどこが違うのか?といった基本的な概念の枠組みをはっきりさせねばならないだろう。

      吉田民人はそれを提案した。つまり、自然科学における真理とは法則であり、人文・社会科学における真理とはプログラムである、と。その中間的な学問領域として彼は生物学に着目し、生物学もまた厳密には法則ではなく、プログラムの探究であるが、そのプログラムは書かれていながらも実行が自然法則に従うものとした。生物学におけるこのプログラムという概念は勿論直接的には遺伝子の集積であるし、それを機能させるための生物体内の物理的・化学的・生物的環境そのものである。その変化は中立的・確率的・偶然的なものでありながらも、生物が世代交代していくことにおいて、変化したプログラムは選別・分化・多様化していく。

      他方、人間世界におけるプログラムは、単に概念的に考えたとしても、もっと多様な形態と変化の様相を示す。プログラムを内蔵し、そのプログラムを実行し、必要に応じて改変していくようなシステムを吉田は「自己組織性」と名付けたが、生物世界の場合そのシステムの主体は生物が生きていることそのものと想定しておけば良かった。主体が本来的に問題となることは殆ど無いからである。つまり、生き物の示す気まぐれと思われる行動を主体性の証拠とでもしておけばよかった。それによって環境からの刺激を受けてプログラムを事後選択的に改変するからである。しかし、人文・社会科学におけるプログラムはシステムの主体によって仮想的な行動結果を予想しながら事前選択的に書き換えることができる。それは人間がシンボル記号世界というものを自ら作り出し、それに対峙することが出来るからである。シンボル記号とは人間同士がその意味を共有するように約束しあった自然のパターンである。人間の歴史はこの記号の発展史でもある。ヨーロッパにおける近代化も見方を変えれば、それまでの被支配階級が自らの記号を獲得したことで、社会システムというプログラムを書き換えることができた、という事である。聖書の各国語訳であり、その印刷、啓蒙書、等々。自然科学もまた記号の体系化であり、法則の記号表現である。人文・社会科学において探究の目的とされるシンボル記号プログラムを吉田はあたかも記号として実在するかのように語っているが、必ずしもそうではないと思う。プログラムに記号としての表現を与えるのは研究者という主体である。その主体が見定める記号表現の対象は当然ながら、彼が人間的・社会的矛盾の根源として直観するプログラムの筈である。単にプログラムが存在すると称しても意味はないのであって、それを操作可能な記号として取り出すことが必要なのである。それこそが人間に特異的な「主体性」なのではないだろうか。
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