2015.08.17

三石さんとの勉強会。「大文字の第二次科学革命―21世紀の科学と社会―」
1999年12月10日『紫綬褒章受章記念中央大学公開講演会』配布論文 中央大学 pp.1-31
p.16-17には今まで明確には書かれていなかった記述が見られたので、コメントを入れておく。

      「物質・エネルギーのパターン一般として定義される最広義の情報とは、それ自身が存在するものではない。人間の感覚的、運動的、言語的な情報機構に固有のコードによる「差異生成能力」と「自然」との相互作用の賜物である。」ということを吉田は認めている。この点で吉田は観念論の立場を半分だけ容認する。(後の半分はつまり人間に先立って何かは判らないが物質・エネルギーなるものが存在する、ということ。)そうすると、最広義の情報から生物主体が関わっての広義の情報(シグナル記号)、人間・社会が関わっての狭義の情報(シンボル記号)、更には最狭義の情報(言語)が生まれてくるのだが、それら記号群によってそもそもの始原である最広義の情報が認識されることになって、これは自己言及構造、循環理論を成している。つまり、吉田理論の枠組みそのものが、一つの観念論としての性格を持つ。しかし、こういうことは吉田理論だけでなく、理論というものの一般的な性質である。理論というのは必ず仮説の上に成り立つからである。吉田はその事を自覚しており、その上で、理論を形成するためにはそこ(最広義の情報が実は確定されていないこと)を括弧に入れて、敢えて自ら素朴実在論の立場を選ぶのである。したがって、吉田の理論は「唯物論と観念論の対立を最終的に止揚したもの」ではない。むしろ、暫定的に止揚して、つまり物質・エネルギーとそのパターンを記号論的に一体化することで体系化して、その構造を検証の対象として差し出したというべきである。

      吉田の理論もまた理論一般の常として、絶えず検証され修正されるべきものである。その中で実を言えば「最広義の情報」そのものが新たに「発見」され続けるのである。その運動こそが、「科学」に他ならない。実際それまで見出されていなかった自然の構造を発見していく歴史こそが具体的な科学史の中身なのである。検証され修正されない理論はドグマに堕する。しかし、ドグマを恐れるあまり、一切の理論を拒絶すれば何のために研究をしているのかが問われるだろう。理論の枠組みでフィールド調査結果を整理していかない限り社会政策の役には立たない。ただ、その理論がどこまで包括的であるべきなのか?は判らない。「言語的な枠組みそのものが最低次の理論だ。」と言えなくもない。そもそも一般的な理論があったとしても、それを厳密に適用して計算することが困難であろう。社会政策がしばしば個人の直観によって決まってしまうのはそのためでもある。その場合も政策決定のプロセスや理由づけが充分に記録され理解されていなくては、「科学」のデータとはならない。

      吉田理論のもう一つの特有の限界は、それが20世紀の物理学の常識と分子生物学の常識に立脚していることである。これらは必ずしも全世界的な常識ではなくて、むしろ「先進国」のインテリに限られた常識である。それらの常識を認めない人たちにとって、吉田理論は訳の判らない珍説にしか見えないとしても仕方がないだろう。

      今度は最後の方であるが、p.26-27。吉田民人の提唱する「自由領域科学」とは、法則(物理や化学)、シグナル性プログラム(生物)、シンボル性プログラム(人文・社会学)を総合的に扱う科学である。例えば地球環境問題とか安全学。それに対比されるのがディシプリンに基づく科学(個別専門科学)である。ディシプリンが成立したのは近代科学以降であり、一定の専門分野を決めて学会が出来ていった。三石さんはなかなか自由領域科学のイメージが沸かないというので、説明した。

      大学以外ではむしろ自由領域科学が普通である。企業の事業開発は正にそれである。ただ、ディシプリンの呪縛というのは、企業にもある。目的を与えられた組織というのはその目的を放棄することができない。どんなに困難であっても何とかやり遂げるという意思がなければ組織の外部からは認められないからである。それが組織の「文化」になっている。研究者は自らの手で自らのテーマを葬り去ることができない。それが出来るのはそのディシプリンの外から来る人である。事業が行き詰ったとき、救いとなるのはそういう外から来た人達であることが多い。同じ事が軍隊というディシプリンについても言える。戦闘を自ら放棄することは出来ないのである。8月15日から一週間の間、大本営は完全な停戦を命じなかったので、各部隊では最後まで戦って自決するという人たちが多く居た。特に叩き上げの幹部はそうであった。その中で「敗戦を受け入れた以上は敗戦後の社会の復興のために命を残すべきである」と考える人達も居て、彼等の多くは(洗脳不充分な)学徒兵であった。(16日のNHKスペシャル「終戦、緊迫の7日間」に拠る。http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0816/
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