2015.08.22

「音楽史と音楽論」柴田南雄(岩波書店):放送大学のテキストだそうである。この間図書館で目について借りてきた。柴田南雄は高橋悠治の先生である。興味を引いた箇所をメモしておく。

・信濃追分とモンゴルのオルティンドー(長歌)との類似性
・沖縄の音階と中国南部の少数民族や台湾の山地民族の歌との関連やインドネシアのペロッグ音階やビルマのタンヨウ音階との類似
日本民族史
・7万年〜1万年前:ヴェルム氷河期には日本は大陸と地続きだった。朝鮮経由と樺太経由からいずれも古モンゴロイドではあるが、異なる民族が渡来した。北からはツングース系、ギリヤーク系、朝鮮半島や南方の島々からの渡来。
・その後、海面が上昇して日本は島国となり、縄文文化としてある程度の共通性が出る。
・4万年前には100−200人程度、縄文時代前期は2万1900人程度。
・安本美典「日本語の成立」講談社1978、「日本語の起源」PHP研究所1985、「日本語はどのようにつくられたか」福武書店1986。

      言語間の近親関係を基礎語彙の一致度で判定した。何を基礎語彙とするかについては西洋語系とはやや異なるものを選んだ。言語的には、ウラル諸語、アルタイ諸語が古い時代に「古極東アジア語」として分離し、BC5000〜4000年くらいまで続いた。これは日本海(日本湖というべきか)を取り囲む地域に共通する言語であり、目的語が動詞の前に置かれる。(おそらくは中国語系の勃興で周辺に追いやられたと見られる。)語頭にrが立たない。それがアイヌ祖語朝鮮祖語日本語祖語に分かれたのであるが、その経緯としては、まずBC3000年頃までに、日本列島では古極東アジア語にインドネシア語とカンボジア語が重畳した。最初は南西部から次第に全体に。その後BC300年(縄文から弥生に移る頃)にビルマ系江南語が重畳した。身体語、数詞、代名詞、植物関係の語を齎した。それはもともとチベット・ビルマ語に由来するが、その頃は揚子江南部の照葉樹林帯で見られた。農耕と稲作の技術を持ったビルマ系の人々が秦、漢の帝国に駆逐されて、北九州まで流れてきたのである。そこで初めて日本語祖語が生まれた。この日本語祖語は東に伝わって、最も古極東アジア語の名残を留めるアイヌ語を北海道に追いやった。その後、紀元前後に中国大陸の漢語が伝わって影響し、ほぼ日本語が出来上がる。200年頃にはそこから沖縄語が別れ、それは更に南方の言語の影響を受けた。

      音楽様式の変遷は、外部世界からの流入とその学習期とその衰退に伴う内部世界独自の発展、というサイクルで特徴づけられる。

・日本においては、縄文時代、インドネシアやカンボジアからの流入があり、やがて日本民謡の祖形が形成される。楽器としては、土笛、琴、鈴、鼓。
・弥生時代にはビルマ系音楽の流入(歌垣)漢民族や朝鮮民族の音楽の流入(銅鐸、琴)とその衰退。正倉院は使われなくなった楽器の博物館であった。
・歴史時代に入ると、仏教伝来に付随する新羅、百済からの楽人の流入と雅楽寮の成立。
・声明や雅楽なとが学習された時期から遣唐使の廃止による衰退を迎えて、固有の音楽様式が芽生え、江戸時代に邦楽が完成する。
・次に1547年ザビエルの来日によりキリシタン音楽(16世紀のスペイン・ポルトガル)が日本の西部に伝わり、禁教長崎の出島に閉じ込められる。
・明治に入って西洋音楽が盛んに取り入れられて学習されてきたが、現在ではヨーロッパ文化の衰退と共に、独自の音楽の模索が行われている。

      ヨーロッパでは1150年以前は単旋律音楽の時代であるが、その後、中世の多声音楽が1350年まで、ルネッサンス音楽が1550年まで、バロック音楽が1750年まで、古典派=ロマン派音楽が1950年まで、となるが、1350年以降はそれぞれの音楽時代において、前半がホモフォニー後半がポリフォニーである。西洋では多声音楽が教会音楽として発展して記譜法と共に合理化されていくが、他の地域ではそのような発展が見られない。

      以下、ざーっと読んだ。なかなか面白そうである。日本の音楽を辿りながら、同時代の西洋音楽を要約する。それらの間には共通性が見られるという立場である。

      最後の章、「未来の展望」に、いくつかの面白い考察がある。

・世界の文明を纏めると、中石器から新石器時代への移行はエジプトが早くてBC8000年で、西に下るとヨーロッパ南部とかスカンディナヴィアがBC4000年、東で朝鮮半島がやはりBC4000年。

・新石器から青銅器時代への移行はメソポタミアが最初でBC4000年、西ではヨーロッパ南部がBC2500年、スカンディナヴィアがBC2000年、東では朝鮮半島がBC1500年、日本がBC800年。

・鉄器時代への移行はメソポタミアがBC1200年、ヨーロッパ南部がBC1000年、スカンディナヴィアがBC1500年、朝鮮半島がBC1000年、日本がBC700年。

      楽器や音楽文化もこの流れに沿って、中東地域から東西に伝播していった。ヨーロッパ、特にイギリスと日本の共通性は、大陸から新しい文化が流入する時期と、政治的に閉鎖されてそれが成熟して独自性を得る時期が交互にあることである。

      考古学のピートリーという人の説(「音楽はどこへ行く」セシル・グレイ(1936年、音楽之友社1952年訳))では、1240年頃以降では、文明の主役が、建築→彫刻→絵画→文学→音楽→舞踊の順に交替し、それが終わると経済と技術と富の時代が来て、その時代自身が終焉に向かう。

・建築の世紀は13世紀ゴシック建築で、音楽もその影響下にあって、単旋律では響きを満たすことが出来ずに多声音楽が採用された。
・次に14-15世紀、その大伽藍の内部を飾る彫刻や絵画が盛んになると、リズムや形式の上での構成や和音の音色や楽器の音色の対照に興味が向かっている。
・次に造形芸術では1430年以降に遠近法が確立し、その時期にトニック、ドミナント、サブドミナントの機能を重視する作曲法が主流となる。
・16世紀、シェイクスピアが出て文学が盛んになると、歌詞の表現や感情表出に視点が移り、歌曲やオペラが生まれる。
・18世紀、宗教改革、啓蒙主義などの哲学の影響下にバッハを置くこともできるだろう。
・そして、18世紀末〜19世紀にかけて今度は音楽が主体となり、文学、絵画、思想も音楽の影響を受ける。
・20世紀前半に舞踊の時代となり、バレエ音楽が流行する。
20世紀後半には音楽が技術の影響を受けるようになり、もはや芸術が主導する時代が終わった事を示す。

      柴田南雄氏は、独自の見方として、気候変動による社会の危機状態(日本では南北朝時代1330年頃、戦国時代1579年頃、幕末1828年頃)と半音階の流行の相関を指摘している。14世紀中頃のマシュー、16世紀後半から末頃のヴィチェンティーナやラッススとジュズアルド、19世紀中頃のショパンやワーグナー。これらA級の天候不順の間にB級の天候不順があり、1225年頃、1474年頃(応仁の乱)、1723年頃(バッハの後期)である。

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