2016.06.21

     山本義隆箸「私の1960年代」(金曜日、2015年)を借りて読んだ。山本氏は60年安保の年に東大に入学して安保闘争に参加。当時の反主流派(民青)は、<日本が米国に従属していることが問題である>として、安保闘争に<日本独立運動>の為の党組織拡大の場を求めた。主流派(ブント)は逆に、日本が米国の従属化から独立した軍事国家を目指すと捉えて、それを組織の命運を賭けても阻止する、という立場だった。運動に参加した大衆にとっては、そういった政治的な意味よりも、戦前満州国を運営し戦犯となりながら、冷戦を背景として復活した岸信介に対する不信感・反発が主要な動機であった。情勢分析から言えば、ブントの言うとおりであった。安保条約改定は日米の対等化を目的としたものであり、米国側の少しばかりの譲歩をもたらした。岸は志半ばで退陣(志は現安部内閣が引きついでいる)して大衆的にはこれを民主主義の勝利と考えた。岸の後を継いだ池田内閣はそれを棚に上げて、所得倍増政策に邁進した。当時は、ソ連の科学技術が喧伝され、世界的に科学技術競争が政治課題となった。

      1962年大学管理法は、今まで<大学の自治>として守られてきた<教授会の自治>に対する政権側からの<大学の合理化(産業化)>であった。茅誠司は政権側と交渉して、政権に成り代わって学生の管理を約束することで、大学の近代化を免れた。大学管理法に反発した学生が大学から処分され、その撤回闘争が起きた。科学技術に対する考え方として、日本は太平洋戦争で<科学戦>で負けたのだから、科学を振興すべきだというのがあった。左翼の側も天皇制の非合理主義に対決する形で科学の合理主義を旗印にしたのだが、結局のところ、政権側は科学の合理主義を取り込んでしまった。他方、米軍からの資金を問題として物理学会で採択された宣言(1967.09.09)の第3項(物理学会は軍隊からの援助を受け取らないし協力関係も持たない)には、<科学が戦争目的であるならば我々は科学研究をやらない>という意思が含まれている。やっと、科学至上主義からの決別が表明されたのである。

      1966年、ベトナム反戦会議発足。中心となった所美都子さんの言葉 <科学者の貧困は科学政策の不足によるのではなく、科学政策の本質に拠る。権力者が科学技術に力を入れれば入れるほど科学者の疎外が進む。> 67.8.8新宿で米軍への燃料輸送車が事故で炎上。佐藤首相ベトナム訪問阻止羽田闘争が67.10.08、10.21国際反戦デーで新宿駅占拠、由比忠之進の焼身自殺が11.11。11.12には第二次羽田闘争、11.13にはべ兵連による米兵脱走支援。

      1968年1月に東大医学部と青医連による医師法一部改正反対運動が始まった。運動は医学部内に留まるかと思われたが、その過程で学生が処分され、その撤回運動が全学に広がった。6.15には安田講堂が占拠され、6.17には機動隊による学生の排除があったため、運動は更に広がった。大学当局にとっては誤算であった。各学部で教授と学生が話し合うことになり、教授側の主張する<大学の自治>の本質(=教授会の自治)が明らかになっていき、教授層に対する学生の信頼が崩れてしまった。この中で特に、丸山眞男の限界が露呈された。言動の乖離である。(別途補注として山本による批判資料がある。)全学的な盛り上がりにより68.7.2に安田講堂と本部事務所を再度占拠。(1969.1.19まで)。そこは解放区と呼ばれ、誰でも入って議論することができた。その中で、議論は当初の学生管理を巡る問題からより深く、東大での学問や研究そのものの持つ問題性へと発展していった。明治以来国策として東大を中心に推進されてきた日本の科学技術そのものが問題とされ、11月以降は「東大解体」をスローガンとするようになった。

      そもそもヨーロッパで始まった科学技術の体制化は軍事が目的だったし、明治政府が目指した大学の機能もそうであった。明治維新の成功の一因として、当時ヨーロッパの科学が体系化されて学び易く追いつきやすくなっていたことが挙げられる。ナチスドイツのポーランド侵攻やノモンハンでの日本の屈辱的敗北は戦争における科学技術の重要性を再認識させられるものだった。だから、戦時中の大学において、確かに人文・社会学系は弾圧されたのであるが、理工系にとっては天国であった。戦時下で日本のファシズムに協力し翼賛体制に迎合した文学者や文科系の学者達は「日本精神」を説き、戦意向上を図ったが、理科系の学者も同様に、国策に則って「日本科学」を説き、科学振興を唱えた。戦後、文科系の国粋思想は一転して徹底的に批判されたのであるが、同様の役割を果たした科学至上主義は、生き残っただけでなく、戦後の経済成長を支える基幹思想となった。戦時中の翼賛体制によって強化された官僚機構はそのまま温存され、戦後は軍・産・官・学の代わりに産・官・学の協同体制として強化された。

      1960〜70年の間に、平和・民主主義・科学技術の進歩、という3つのお題目の意味が変質した。

(1)平和と繁栄がベトナム戦争の犠牲(もっと前では朝鮮戦争の犠牲、更には沖縄の犠牲)の上にあることが明らかとなり、平和の維持は戦争に巻き込まれることへの戦いだけでなく、戦争に加担することへの戦いとなった。

(2)民主主義については、それが単なる秩序維持の手続きと化したとき、その秩序から取り残される少数者が起こす反乱を民主主義に敵対するものとして抑圧しかねないという意味が加わった。

(3)科学技術については、その恩恵から外れるだけでなく、そのリスクやコストを負担し、生存すら脅かされる少数者を生み出してきた。水俣病訴訟、カドミウム公害、四日市公害などの闘争が始まった。

      山之内靖の文章が引用されている。<マルクスは資本主義の生み出す高度な生産力が連帯を可能にする、と言ったが、その担い手となるべき労働者階級は国民国家の内部に組み込まれてしまった。新しい社会運動はその高度な生産力に期待するのではなく、むしろその合理性が生み出した非人間性を問題にする。戦後民主主義は戦時動員によってその軌道が敷かれたシステム社会化によってその内容を規定されていた。福祉国家は実のところ戦争国家と等号で結ばれている。体制内統合によって獲得される民主主義的権利は、不可避的に排除と差別を構造的に制度化していく。新しい社会運動は、安易な権利の制度化がシステムへの統合をもたらすことへの警戒をその本質としている。>

      科学と技術の違いについて。科学は注目する少数の因子以外の攪乱要素を排除した実験によって法則を見つけ出す。だから、排除した攪乱要素が現実系においてどういう影響を与えるのか、については個別の攪乱要素について調べてそれらを重ね合わせて推定するしかない。しかし、技術はこのような科学の応用で終わるものではなく、思いもかけない攪乱要素や非線形効果に対して経験的対応をする。熱や機械といった巨視的な対象であれば、それほどの問題は生じなかったが、原子や分子のレベルを扱うようになると、あらかじめ結果をすべて予測することは不可能である。科学を適用し、目的に即して条件を整備するという多くの化学工場で行われた方法は、典型的には廃棄物という攪乱要素による問題を引き起こしたし、製品そのものが廃棄分解されて環境中に拡散してしまったときの問題も大きなものとなった。個別の物質については、動物や植物実験で予測可能であるが、多数の物質が複合してくると予測不能となる。攪乱要素の中には当然ながら<人為>が含まれる。だから、科学の方向性として、<攪乱要素>をひとつひとつ制御していくのか、それともそんなことは将来の世代に任せておいて、とりあえず<新規な技術>を開発するのか、という選択肢があり、社会の側だけでなく科学者自身にもその選択が問われている。吉田民人の提唱する<設計科学>は<人為>の部分も含めて<攪乱要素>の研究を<科学>とするための考え方の枠組みを示そうとしたものであった。

      日本で原発の開始が問題となったとき、運用の危険性や軍事利用については議論されたものの、核廃棄物については誰も問題にしなかった。科学界というのはそれほどまでに<攪乱要素>を排除して考える習慣がついているところなのである。原発の廃棄物は無害化する方法が無い、という点で化学工業の廃棄物と基本的に異なる。半減期の何倍かを過ぎるまで隔離して保管するしかない。

      1968年11月に加藤一郎が総長代行となり、以後教授会の合議制(大学の自治)から加藤独裁体制(政権の下部組織化)へと移行していく。(この延長上に2004年の大学独立行政法人化があった。)69年1月に機動隊を導入して安田講堂から学生を追い出した。

      その後、全共闘の中の組織的部分(ブント・中核・社青同等の新左翼)は、行き詰ったが、学生大衆はそれぞれ個別の領域に散っていった。山本氏は予備校教師として生計を立て、一人で科学史の研究に取り組んだ。科学研究を推進するのではなく、科学の社会的意味を問い直すという立場である。
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