2016.06.29

●中島みゆきの17枚目のアルバム「回帰熱」(1989年)は他の歌手に提供した曲をセルフカバーしている。これまでにも6枚目「おかえりなさい」(1979年)、12枚目「御色なおし」(1985年)と、セルフカバーアルバムを出しているが、この「回帰熱」はどこか違うので取り上げた。歌詞的には勿論<中島みゆき色>が薄くて聞きやすいという点は同じなのだが、やはり声質そのものが深くなって演歌的な表現も含まれている。それと、曲としてもそれぞれに変化が付けられていて面白い。編曲も瀬尾一三に統一されて2作目ということだろうが、歌唱とぴったり息があっている。歌詞的にはアルバムとしての統一性が無いのに曲集としては前作「グッバイガール」よりはまとまっている。どの曲も印象的であるが、中でも「あり、か」は甲斐よしひろに提供した曲で、最後の<こんなことって あり、か>が面白い。他には、「肩幅の未来」はこれも突然最後に出てくる<埒もない>という歌詞が実に面白い。この間の大河ドラマで織田信長が最後に言った言葉であるが、ここではさてどういう意味なのだろうか、と考えてしまう。

●中島みゆきの18枚目のアルバム「夜を往け」(1990年)は、同時並行で作ったというセルフカバーアルバム「回帰熱」の聞き易さとは対照的に大変重い曲ばかりで聞き疲れする。声質が一貫して重く、ドスが利いていて毒気を感じる。忍耐して4〜5回聞いて、やっと歌詞を考える気になる。その内容は基本的に失恋であるが、総じて攻撃的である。
・・・ロック調の「夜を往け」では失恋の痛手があまりにも大きくて何処という目的もなく夜の街を走る。
・「ふたつの炎」では女がまだ燃えているのに男が冷めてしまう。<不思議だった女が消えて届かなかった女が消えて、すがるだけの追わなくても手に入る女になった>というところが醒めていて中島みゆきらしい。
・「3分後に捨ててもいい」は今の瞬間だけでも傍に居て欲しいと呼びかける歌。<かもめ><紙切れ><人生>とか、<ヘッドライト><流れていく><人の心><天の川>とか、暗喩が連鎖していく感じが面白い。
・「あした」は、女が愛に求める持続性を歌った佳曲。
・ロック調の「新曽根崎心中」では逆に刹那的な愛を歌う。<無駄だとわかってやめられるのなら恋わずらいとは呼ばないのよ、ボク、夢だとわかって目が醒めないから夢中と呼ぶのよ、覚えときなさい>は名言。<親しんで楽しんでいとしんでかなしんで苦しんで・・・>に心中の主題である<死んで>が隠されていて、これも見事。
・「君の昔を」では、過去に囚われていて心此処に非ずの恋人の話。
・「遠雷」は多分結婚を迫る女を男がかわす話。
・「ふたり」は社会から爪はじきにされている男女が結びつく話を演劇風に語る。小説「この空を飛べたら」(1991年)に出てくる男女だろうと思う。
・「北の国の習い」は離婚して夫を見捨てる女の話。中島みゆきはこの頃ついに生涯独身を決意したのかもしれない。
・これだけ気分の重くなる曲ばかりを並べておいて、最後の名曲「With」で少し希望が歌われる。<ひとりきり泣けても、ひとりきり笑うことはできない。> ・・With の後に<君の名前を綴ってよいか?>

●中島みゆきの19枚目のアルバム「歌でしか言えない」(1991年)。
・「CQ」はアマチュア無線にヒントを得たのだろう。誰でも良いから応答してくれ、というのだから、孤独の辛さを歌ったと見るのが自然だろうが、淡々としている。
・「おだやかな時代」はよく判らない。閉塞感のある世の中に抵抗しようとする気持ちか?
・「トーキョー迷子」は都会の変化の激しさの中で取り残される気持ちだろう。語呂合わせが味付けになっている。
・「Maybe」は逆風の中で不安を抱きつつ強く生き抜く若い女性の決意。サビに入る前の旋律の動き方が心理描写的でよく出来ている。これは名曲の部類に入る。
・「渚へ」は失恋の歌なのだが、それを自然に託して総括し、大波のようなテンポで歌い流す。ちょっと「土用波」を思わせるスケールの大きな曲である。
・「永久欠番」はタイトルの通りで、ひとりひとりの人生のかけがえのなさを歌ったものだが、彼女にしては直接的な表現で、ちょっと珍しい。
・「笑ってよエンジェル」は離れてしまった恋人への慰め言葉のようであるが、こういう歌は初めて。
・「た・わ・わ」は巨乳の女性が男の目を惹きつけてしまうことへの悔しい思いを歌う。こういうのも初めて。<おまえを殺したい・・あいつをとらないで>とは穏やかでないが。。。
・「サッポロSNOWY」は零下が普通であるような北国の都会での乾いた粉雪に恋の不安を重ねた歌。ユーミンの名曲「かんらん車」を思い出した。
・「南三条」は札幌の繁華街で女友達に出会った話。<私>は男と別れたのだが、女友達がその男を捉まえた。だから、長年理不尽にも<私>は彼女を恨んでいた。ところが今日連れていた彼女の夫は別の男だった。いったい<私>の恨みは何だったのか?この複雑な話をうまく歌にしているところには感心する。これもユーミンの名曲「Destiny」を思い出した。ユーミンのは内容がもっと軽いが雰囲気は似ている。
・最後の「炎と水」はまるで古代の哲学みたいな歌詞である。男女の関係をここまで抽象化して達観する。
・中島みゆきは1985-88年の<ご乱心の時代>を経て、声質が深くなり、表現力が増しただけでなく、人格的には、僕から見て<可愛い妹>から<神秘的な姉>に変貌したという感じがする。

●中島みゆき20枚目のアルバム「EAST ASIA」(1992年)。
・・・冒頭の表題曲の内容としては、自分は大きな力に動かされて周りの人たちや組織に適合して生きているのだけれども、心は<あの人>のもので誰にも縛られはしない、ということである。<あの人>とは、勿論恋人と解釈してもよいのだろうが、中島みゆきの歌詞では父親=自分の理想や規律を意味する事が多い。この内容に対して、繰り返されるサビの部分<くにの名は EAST ASIA 黒い瞳のくに>とがどう結びつくのか、最初は判らなかった。習慣として、白人に対比した黄色人種という構図が頭に浮かぶからである。しかし、ここではそういうことではなくて、国家や組織に属する個人に対比して東アジアという<くに>に住む人間の1人という意味である。(言語は差異の体系である、という事を思い知る。)最後に、サビが繰り返されるのだが、その間にやや唐突に中華主義が地球に笑われる。ネットで調べてみると、この歌は天安門事件(1989年6月4日)に触発されたものらしい。弾圧された人達の事を他人事として語るのではなくて、妥協しながらも自分の心を守り抜く人達の事として普遍化することで、自らの事として共感的に表現している。まあ言いたいことは何とか判るのだが、歌としてはゴツゴツしすぎていてあまり好きではない。
・「やばい恋」は和製ロック調の恋の情景描写という感じ。
・「浅い眠り」はなかなか切迫感のある歌である。
・「萩の原」は子供の頃の淡い恋を幻想的に歌っている。萩というと赤紫色を想うのだが、ここでは白萩のようである。
・そして中締めとして「誕生」が使われている。これはまあなかなかの名曲だろう。<どんな人生にも無駄はない>という事を訴えるサビの部分は感動的。
・・・「此処じゃない何処かへ」は振り出しに戻って、人生の苦悩が和製ロックのリズムに乗って歌われる。
・「妹じゃあるまいし」は、ついつい甘えて恋人を傷つけてしまったのだが、自分が妹だったら彼は黙って別れないで話してくれたのに、というちょっと変わった視点で失恋を語っている。
・「二艘の船」は孤立して苦闘しているようでもどこかに友が居て、心が繋がっている筈だ、ということを大海の波に揺られる船のようなリズムで大きく歌っている。これもなかなかの名曲で、「歌姫」「土用波」「渚へ」の系譜である。
・最後に「糸」が来る。珍しくも結婚祝いの曲である。彼女としては朝飯前だったのかもしれないが、実に巧い歌詞である。
・・・このアルバムはロック時代と声変わりを経た後の中島みゆきを象徴する代表作と言えるだろう。沈み込んだり拗ねたり皮肉を言ったり、といったところが無くて、肯定的なメッセージの名曲が揃っている。
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